武将列伝帖

いけだ さがみのかみ よしのり

池田相模守慶徳

【氏】【姓】朝臣【名】池田【字】子明【諱】慶徳

別 名

池田昭徳(いけだ あきのり)

幼 名

五郎麿(ごろうまろ)

雅 号

竹の舎(たけのしゃ)

省山(しょうざん)

出 身

江戸

官 途

侍従、相模守、因幡守、左近衛中将、従四位上(贈従一位)

所 属

池田氏(江戸幕府⇒明治政府)

生 年

1837年(天保8年)7月13日

没 年

1877年(明治10年)8月2日

 

- 列 伝 -

鳥取藩最後の藩主で第12代藩主。水戸藩主で中納言、徳川斉昭の五男。生母は松波春子。

江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜は異母弟にあたる。

 

1850年(嘉永3年)10月、前鳥取藩主池田慶栄が逝去すると幕府の命により養子となる。

池田慶栄に跡継ぎがなかったことから家督を相続し第12代鳥取藩主となった。

 

1853年(嘉永6年)~1860年(万延元年)頃にかけ藩政改革を実施。

父、徳川斉昭が水戸藩で施政した天保期(1830年~44年)の藩政改革を参考に本人からの教えも請いながら改革を進めたとあり、学問を奨励し民意を汲むことに努め、軍制改革にも力を入れ国力の増強を図った。

 

1854年(安政元年)、江戸幕府が日米和親条約を締結した際には攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を提出し攘夷論者として中央政界に参画している。

 

1863年(文久3年)2月28日、朝廷から摂海守備総督に命じられ、同年6月14日には英国船に向け発砲し攘夷実行の姿勢を示す。

この前後、砲兵奉行の武宮丹治らに命じて因幡、伯耆の主要な港湾の防衛施設とする鳥取藩台場の建造に着手している。

 

1867年(慶応3年)、大政奉還が行われる。

 

1868年(慶応4年/明治元年)1月、薩長土肥の四藩主が版籍奉還した翌日には鳥取藩知事へと任じられるが家禄は十分の一とされている。

同年7月、鳥取藩は東京行幸供奉に命じられ、この上洛以降は新政府と直接連絡を取るようになったとされる。

 

1868年(慶応4年/明治元年)~1869年(明治2年)の戊辰戦争では新政府軍として東北地方へ出兵。東山道の先鋒を務めている。

 

1869年(明治2年)2月、新政府の議定(参議)に任じられる。

 

1875年(明治8年)5月27日、次男の池田輝知に家督を譲り隠居。

 

1877年(明治10年)、明治天皇を奉送する際に肺炎を患い神戸にて逝去。

上 へ

戻 る