所 属

池田

よみがな

人物名

たけみや さだもと

武宮貞幹

 

通 称

たけみや たんじ

武宮丹治

因伯人名録、鳥取県郷土史などの仮名

官 途

不詳(砲兵奉行)

出身地

因幡国

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

貞幹

列 伝

鳥取藩の砲兵奉行。父は武宮権之丞

 

1855年(安政2年)

和田勝蔵加須屋右馬之丞らと水戸藩へ留学する。

水戸藩士、福地政次郎より神発流砲術を学んだとある。(鳥取藩藩政資料)

 

1858年(安政5年)

御台場築立御用掛に任命される。

 

1863年(文久3年)頃

鳥取藩主の池田慶徳の命により鳥取藩台場 境台場鳥取藩台場 由良台場など鳥取藩台場の築城に携わった。

同年、鳥取藩台場 由良台場の建造においては瀬戸村の武信佐五衛門宅へと赴き、六尾反射炉を造った武信潤太郎の建議を基に由良川河口への建造を決定する。

同年、鳥取藩台場 境台場の建造においては富山敬蔵山根作兵衛らと会見郡上道村に築城を開始する。

 

1864年(文久4年)

鳥取藩台場 由良台場が完成とある。

鳥取藩台場 境台場は武装を除く城塞部分のみの完成とする。

 

1868年(明治元年11月)

鳥取藩台場 境台場に武装が施され台場として完成とする。

 

1868年~1869年(慶応4年/明治元年~明治2年)

戊辰戦争では自ら砲戦隊を率いて大阪へ向かい、海路から江戸を目指すが暴雨風に阻まれ渡航できず、参戦の機会を逸したまま無念の帰国となった。

鍛え上げた砲術隊の力を戦場で発揮できなかったことは遺憾と悔やみ、鳥取の地で没した。

没年、年齢共に不詳だが60余歳で没したとだけ記されており、墓は上町観音院に碑が建立とある。

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