伯耆古城図録

とっとりはんだいば さかいだいば

鳥取藩台場 境台場

鳥取県境港市花町

別 名

上道御台場(あがりみちおだいば)…境港市史に別名として記載。

上り道村台場(あがりみちむらだいば)

文久山砲台(ぶんきゅうやまほうだい)…境港市史に別名として記載。

境浦御台場(さかいうらのおだいば)

花御台場(はなのおだいば) …地名に因み鼻台場(はなだいば)とも記される。

遺 構

高さ約7m、幅約40mの三段式台形土塁

武 装

六尾反射炉製 砲台8門(十八斤砲×2門、六斤砲×1門、五寸径砲×5門)※非現存

現 状

公園(境台場公園)

城 主

(鳥取藩)富山敬蔵

築城年

1863年(文久3年)7月…建造を開始し秋頃までには大方完成とある。(渡村庄屋 泉屋治右衛門永代記録帳)

1863年(文久3年)8月…この月より建造を開始とする説が見える。

1864年(文久4年)春頃…城砦部分が完成。

1868年(明治元年)11月…砲台の設置が完了し台場として完成。

廃城年

不明

築城主

形 態

砲台場

備 考

国指定史跡(昭和63年7月27日指定)

参考文献

鳥取藩史

鳥取県史

境港市史 上巻(昭和61年3月 境港市)

縄張図

不明

 

概 略

攘夷思想の高まりと西欧列強の脅威に対し、鳥取藩主の池田慶徳が藩内の重要港湾に建造を命じた鳥取藩内の台場のひとつ。

藩内台場の中でも最大の規模と武装を誇ったと伝える。

 

御役中不時手控(要約)

文久二年七月、富益村沖で幕府の城米運搬船が難破。

松並何某の縄張にして文久四年の春に台場完成。

 

永代記録帳(渡村庄屋 泉屋治右衛門)

一、文久三亥秋、上道鼻に御台場大数出来。浜之目村々出人夫大勢差出候。

一、文久三亥七月より唐人手当のため国々御台場出来(略)台場の敷地は一町四段四畝九歩、一町歩は畑、あとは砂浜。敷地買収などの費用として佐斐神の庄屋、足立平四郎が金壱百両を献上。弓浜一帯は日吉津大庄屋、山根作兵衛

 

1863年(文久3年)から鳥取藩主、池田慶徳の命により建造が始まる。

同年秋頃に城容は大方整ったとする手記も見えるが、台場としての完成には武装が整う1868年(明治元年)まで時間を要することとなる。

城郭構造は松波宏元により西洋式城塞の設計思想が取り入れられ、藩の建造した施設としては極めて特徴的な台場とされる。

周辺の沿岸と中海に通じる航路、境水道入口の防衛を重視した設計が成され、城砦の形としては1864年(文久4年)の完成とされる。

武装は富山敬蔵に設計が任せられ、砲術師の武宮丹治と諮り砲台を配置し、日吉津村の大庄屋であった山根作兵衛らの協力も得て建造が行われている。

 

1868年(明治元年)11月、砲台の設置が完了し武装、城郭をあわせた台場としての全機能が整った。

砲台台座の土塁の盛砂は福定村以北の弓浜海岸や鼻東方沖の浅瀬から、土塁の被覆土には高麗山麓の黒土を淀江から船を使い調達し、礎石となる石や山土は松江藩との交渉で対岸の島根半島から融通してもらったとある。

 

台場の建造に於いては鳥取藩の逼迫した財政からは費用が捻出できず、民間からの献金と近村の住民による無償労働や奉仕に頼った建造とされるが、いずれも自発的な協力であったと伝えている。

建造に携わった人夫数は延べ33,300余人~45,300余人。(資料によって開きあり)

建築期間にも諸説あるが、弓浜地方の村人を総動員して半年程の短期間で完成させた説と、近村の豪農、農民の積極的な協力があって1年程で完成したとする説があるが、ここでの完成は城塞部分のみと思われ砲台など装備が全て整ったのは明治元年11月となる。

 

完成後は鳥取藩士の富山敬蔵が民兵銃取立役として明治初期頃まで組織を統括している。

守備業務は構大庄屋が引き受け、近村農民で組織した農兵隊が担った。

境港市史では農兵調練所は現在の境港私立第一中学校グラウンドの東南隅辺りとしている。(境港市史 上巻)

 

境港市史

明治三十年七月十三日 願官有地払下之件聞届 西伯郡境町御台場六十七番 旧砲台反別壱町四反四畝九歩 代金五百五円五銭ヲ以テ境町ヘ払下ケ 明治三十年九月九日

 

明治維新の後、暫くして台場は役目を終えており、目立った利用がされないまま官有地となっている。

1897年(明治30年)、敷地は当時の金505円5銭で境町へ払い下げられている。

敷地面積は14,300㎡余。

明治時代後半の1円は現在の1万円程度の価値があったとされるため、現在の価値としては500万円~550万円程度。

 

現在も旧時の遺構がほぼそのままの形を保つ貴重な史跡であり、昭和63年に史跡として国の文化財指定を受けている。

 

―明治以降の出来事―

山陰で最初の灯台

境台場の東北部に建つ白い灯台は明治28年に山陰で最初に建てられた灯台を平成3年に復元した建物。

復元前の灯台は昭和9年の廃灯まで、港入口の安全を守った海の交通遺跡であった。

 

日本海軍史上最大の事故

境台場の東中央部には昭和2年8月24日の夜に美保湾沖で行われた連合艦隊演習中の事故で亡くなった殉職者の忠魂碑(戦後は慰霊塔と改称)が建立されている。(昭和3年、地元の人たちの手によって建立)

この事故は夜間の演習中(悪天候下、暗夜、無灯火で行われた過酷で困難な訓練であったとされる)、巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨(わらび)」、巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦(あし)」が衝突し、「蕨」「葦」の乗組員、計120名が犠牲となった日本海軍史上最大の事故といわれる。

 

年 表

1863年

文久3年

7月、鳥取藩主、池田慶徳の命により建造が始まる。

 

1864年

文久4年

松波宏元の設計による西洋式城塞の設計思想を取り入れた城郭が完成。

1868年

明治元年

富山敬蔵が砲台の設置を担当し、砲術家武宮丹治と大庄屋山根作兵衛らによって全ての機能が整い完成とする。

1897年

明治30年

当時の金505円余で境町へ払い下げられる。

地 図

 

写 真

訪城日 2013/3/30、2013/4/13

北側からの眺め

北東の土塁上に灯台

台場内は多目的広場

北側の案内板

南側の案内板

灯台

灯台

慰霊塔 (忠魂碑)

慰霊塔 (忠魂碑)

郭跡の内部

郭跡の内部

郭跡の内部

西側の土塁

南側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

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