西伯郡伯耆町に所在したと伝わる古城跡
大原安綱館
大原安綱ノ遺跡とある。大字大原村字下ノ原531番地に在り。往古名匠大原安綱此地に住し刀剣を鍛いしものなりと。大字丸山地内より製鉄の際に生じる鉄滓を認めると字名に大かなくそ、小かなくそ等あるを見れば夫等製鉄所より生産せし鋼鉄等にて鍛錬せしものなるべきか。
伯耆町大原
小町陣場
伯耆町小町
外構城
福吉村の字「城山」に所在。進氏に始まる城として別名に字殿の段から殿の段城。城八幡とも称する。
進成盛の子孫(野上荘を開拓)によって築城。進四郎三郎助貞はこの一族で名和長年に加勢する。
頂上に石垣があり、本丸、二ノ丸、馬場、2段目に井戸跡(古井の跡)が残るとされる。(二部村郷土調査(昭和11年12月 日野郡二部尋常高等小学校))
進祐定の居城で福島城の外構えとする説、向城として相対した説、鎌倉山城の出城(外構の城、外の構)など様々な説がある。
溝口のおいたち~溝口町制30周年記念~(昭和60年3月 溝口町制30周年記念誌編集委員会)より
溝口町誌では7m級の井戸を持つ城郭で鎌倉山城の出城として福島城と相対した進祐定の居城と伝える。
伯耆志では福吉村の条に「村名外構村と号す。文政中、今の名に改むと云えり」
古城の条に「殿の段と唱う事蹟考うべからず。本丸二ノ丸馬場古井等を残す。頂上に城八幡と称す小祠あり」
鳥取県神社誌では野上荘神社に記述が見える。三部村の字「殿の段」は元弘の義臣、進四郎三郎助貞の邸宅跡としている。
野上荘神社は天大明神八幡宮(あめだいみょうじん、天照大神とも)と称され、三部郷の開発と共に創立と伝える。
八幡宮の創建は進氏の創建と伝え、往時は二社が左右に相対して鎮座していたとする。
永禄年中(1558年~1570年)、毛利方の部将、三村家親、香川光景などが転戦の途中、当社へ拠り、尼子の将であった山中氏と戦った時に社殿が兵火により焼失したとしている。(福島城が毛利方、外構城が尼子方と推測される)
ふるさと溝口では野上荘神社の条に「元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐を脱出後、船上山に新政の旗揚げをした時、進四郎三郎助貞はこの地から数十騎を従えて船上山へと駆け付け勤王につくした。人々は元弘の義臣と称えて今も祀り伝える」としている。
伯耆町福吉
荒堀城
字「荒堀」に所在。詳細不明。
伯耆町岩立
陰平城
大坂の陰平の山上に所在。馬場を備えた塞とされる。
伯耆町大坂
池田城
字「城山」に所在。池田氏の持城とされ、宗間氏が城番とある。
伯耆志では池田村の条、古城の項目に「宗間某の居城と云えり。宗間氏の事蹟詳ならず。また村中古墓多しといえども伝なし。池田由之の弟、四郎兵衛元嗣の孫、忠兵衛元成此地に暫く居す。これが村名の由来となった」とある。
溝口のおいたちでは池田家代々の奥様の申し継ぎに「石垣の中に隠れ座敷がある。何れかの時、婦女子はそこで待て」と云い伝えたとある。
溝口町誌では宗間氏の居城として「字城山にあり。東に面する嶺山前は耕地、北南は深谷なり。近くの泉原下に石垣あり。その下に戦術的洞穴と思われるものあり」としている。
伯耆町畑池
池田屋敷
畑池の屋敷とも。池田氏の居館とされる。
伯耆町畑池
上代城
字「城の越」に所在。鎌倉山城の出城で東側の要衝。
伯耆町福岡
籾峯城
字「もみうね」に所在。大倉和泉守の居城で天文年中に香川左衛門尉光景が構えたと伝える。大倉のもみうね城。
香川左衛門尉光景は格別の信仰心を以て大山祇神を祀り崇め水田3反を寄進したとある。水田は神田(じんだ)と呼ばれ、城跡の一段下に所在。
大倉和泉守は播磨の四位侍従とするが実在するかは怪しいとする。
伯耆町大倉
宮原ノ城床
字「城床」に所在。詳細不明。