伯耆国 日野郡
ふくじまじょう
福島城
所在地
鳥取県西伯郡伯耆町福島、 鳥取県西伯郡伯耆町福吉
城 名
福島城(ふくじまじょう)
別 名
―
築城主
不詳(福島氏が推定される)
築城年
不詳(平安時代末~鎌倉時代と推定される)
廃城年
不詳
形 態
山城、丘城
遺 構
郭跡(腰郭、帯郭)、空堀、堀切、竪堀、土塁、土橋、井戸、櫓台、製鉄炉
現 状
野上荘神社、砂防堰堤、山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
福島城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻五 大正5年11月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)
溝口町誌(昭和48年9月 溝口町誌編さん委員会)
溝口町制施行40周年記念 文化財ガイドブック ふるさと溝口(1993年9月 溝口町教育委員会編)
福島城調査概要書(平成29年6月 現地説明会配布資料)
年 表
平安時代~鎌倉時代
平安時代末頃~鎌倉時代初頃にかけてたたら製鉄に関する産業が営まれたとされる。
(現地発掘調査による出土遺構から推定)
1558年~1570年
永禄年間
毛利方の部将、三村家親、香川光景らが野上荘神社の社殿に拠り、尼子方の山中氏と戦ったとされ、この時の兵火により社殿が焼失とする。(野上荘神社社伝)
概 略
野上川西岸に位置する福島集落西側の山中から尾根筋にかかる字「古城山」に所在する。
字「古城山」に所在する主郭を含めた東側連郭の東~南東側は福島、連郭の西~北西、北東端に鎮座する野上荘神社、西側の谷を隔てた北側の尾根が福吉となる。
城郭の規模は福島集落西側の山中(字「古城山」周辺)の東西約300m、南北は約200~500m程度(いずれも谷部を含む)と推定されているが正確には不明。
古城山から南の谷を隔てた山中も不明瞭ながら土橋が続くことから城域と推定され、周辺諸城と比較しても突出した規模を誇る。
防御施設も遺構として多くが残っており、尾根伝いに郭を並べた連郭式の縄張を基軸にして、要所には堀切、竪掘、土塁を配することで防御力を高めていたことが伺える。
南側と北側の谷に面した郭にはそれぞれの谷方向に対する腰郭が配されており、伯耆国内では珍しく防御側の思惑が読み取れる城砦である。
これだけの規模を誇り、城砦としても入念な設計が成されていることから有力な領主が治めたと推測されるものの、伯耆志や伯耆民諺記、伯耆民談記など伯耆国についてまとめた史書などに記述は見られない。(現時点で一次史料に一切記述が見えないとする)
日野郡史 前篇には唯一、字名から城跡とする記述があり、溝口町誌にはその引用と思われる記述が見える。
日野郡史 前篇 福島の福島城の条
字古城山に在り。外構城と相對す。
溝口町誌
字古城山にあり。外構城と相対する。
郷土史のふるさと溝口では地名の由来として当城の城主に福島氏を挙げている。
ふるさと溝口 福島城跡の項
福島村の呼称は、かつて福島氏在城に由来するという。城域は福島裏山から野上荘神社背後の高台へ、また、谷一つ隔てて西側山上へと広範囲に渡る。山麓に古墓多し。
城域の北東端に鎮座する野上荘神社の社伝には永禄年間(1558年~1570年)、毛利方の部将、三村家親、香川光景が当社に拠り、尼子方の山中幸盛と戦ったとあり、その際の兵火によって焼失したと伝えている。
当時の野上荘神社は二社が左右に相対して鎮座していたとされ、三村家親、香川光景の二将が布陣と伝えることからも城域内に鎮座した二社それぞれに布陣したと推測され、当城が毛利方に与していたことも伺える。
2014年(平成26年)から砂防堰堤建設工事に伴う試掘調査、2015年(平成27年)~2017年(平成29年)にかけて本発掘調査、2017年(平成29年)6月4日に伯耆町教育委員会による現地説明会が行われた。
福島集落西側の谷底部から平安時代末頃~鎌倉時代初頃に操業したと推測されるたたら製鉄に関する鉄関連炉跡(1基)が出土し、炉に伴う排滓場(1ヶ所)、炭窯(3基)が検出とある。
城内にも炉が1基、併せて柵列跡、石を伴う犬走り状平場、空堀跡、中、近世の古墓も検出とあり、空堀については西の堀切に繋がる堀跡と推定される。
炉の形態に関しては製鉄炉か精錬鍛冶炉か不明とし、鉄滓の化学分析待ちとしている。
古城山周辺の山は主に花崗岩で構成されている。
山陰側の花崗岩は磁鉄鉱系列で純度の高い砂鉄を含んだことから真砂砂鉄とも呼ばれ、伯耆国内、特に日野郡の製鉄産業には欠かせない存在であったため、たたら製鉄に伴う相当量の真砂土採取が行われたことが推測される。
花崗岩で構成される山(真砂山)は崩れ易いことも併せて、縄張の不明瞭な部分は土砂採取や自然崩落による破壊とも考えられる。
城内の堀切や竪掘とする堀の一部は真砂土採取の名残とする説も挙げられる。
写 真
2017年6月4日、2017年6月5日