武将列伝帖

しん し

進氏

【氏】【姓】朝臣【名】

別 名

相見氏(あいみ し)

巨勢氏(こせ し)

出 身

伯耆国会見郡

伯耆国日野郡

所 属

紀氏、後醍醐天皇方、伯耆山名氏、尼子氏、日野山名氏、南条氏、杉原氏、吉川氏、毛利氏、中村氏

 

- 列 伝 -

平安時代、西伯耆(会見郡、日野郡)に一大勢力を築いた古代豪族、紀成盛を祖と称する一族。

戦国時代に拠点とした日野郡北西部に伝わる鬼住山の伝承では進大連を祖と伝える。

 

鎌倉時代には後醍醐天皇方を援け、船上山の戦いに戦功があったとして綸旨を賜っている。

 

伯耆志 箕村の条 進氏 私称之姓の項

(略)応永の頃(原書に年号を挙げざれども赤松氏の事蹟に因て推して大概を記す)、進ノ海陸兵衛紀ノ或盛(前代の名を紹ぐもの歟。或はあやまりか)播磨国主赤松大膳大夫満祐が弟伊予守義雅が女を娶る。又、其後成盛の女、義雅が孫、左京大夫政則(幼名一松丸、又次郎法師)に嫁して男子を生む。これを松丸と云う。後、筑後守成村と号す。(原書及び応仁略記に誤りて政則を義雅が子とす。是より先、嘉吉元年満祐足利義教を殺せる罪に因みて一家滅亡せし時、義雅は五十八歳にて自殺す。其子性存建仁寺の僧、竜澤に依て免る後還俗して時勝と号して政則を生む。彼の乱より十七年の後、長禄元年、赤松が遺臣、南方の皇子を弑し奉り明年神璽を入洛し奉りし功に依て政則に加賀半国を賜う。応仁に細川氏に與力して播磨を領せり。長禄元年を国史略に二年とするは誤りなり。事蹟年紀共に上月記、嘉吉記、赤松記、陰徳太平記、日本外史、残桜記等を参考す)

成村二歳の時、母離別しけるに携えて当家に帰る。(重編応仁記に政則細川勝元に媚て強て彼が生む所の醜女を娶れる由記せり。然れば其時など大帰せしにや)在田氏、小引氏これに従う。(応仁記に山名方に伯耆に小鴨南条進村上とありて其誰なる事を記せず。又、細川方赤松衆の中に在田氏あり。小引氏の事は實久村の下に記す。諸書に此成村を挙ざるは当家に成長し且播磨に働く時も次郎義村に倍従したれば其名遠くは顯われざり故なり。故に陰徳太平記には政則に実子無しとす。義村は七條蔵人元久の子にて政則の嗣たり。永正十七年九月十二日、播磨室津にて浦上村宗に殺さる)

進ノ豊前守久住(任の誤歟)これを養育す。(永正九年河村郡南条氏の臣に進原五左衛門あり。当家の族か)

永正十五年(陰徳太平記に據る)、成村義村に従て宇喜田家重が籠れる播磨太田城(赤松記に見ゆ)を攻落し移てこれに居る。(此時赤松と称す諸書に此合戦を脱す太田は和名抄揖保郡の下に家重又諸書に見えず。陰徳太平記を考うるに和泉守能家と同人なるべし直の祖父なり)

其後当家に帰り、又、摂津に行くと云えり。終る所詳ならず。其子成季当家に在て進伯耆守と号し後、播磨太田城に在て赤松と称す。又、末年の伝なし。(上の豊前守は海陸兵衛が子なるにや。此後進氏の正胤詳ならず。成村以下は赤松氏の胤なり。総て原書赤松氏を詳にして自家を疎にす。按ずるに成村以来二国に往来し一人二家を有て姓をも此彼相用いしが赤松氏の先祖聲望あるが故に子孫系譜を記することかくの如きのなるべし)

元亀二年二月七日、当家の族、進孫次郎易季杉原盛重に属し尾高にて尼子勢と戦う。(事は尾高村の下に記す)成季、播磨に在る時、易季及び古引長門守、山中鹿之介、立原源太兵衛、三原為友、渡辺宗三郎等(原書に立原を橘とす。今陰徳太平記に據る)これに属す。(原書に此後、成季の事蹟并死去の年月を記せず。鹿之介は当年の夏、吉川氏に捕えられ尾高より遁れて美作に走る。然れば成季は此前後に播磨へ移りしなるべし)

天正元年二月、進左吉兵衛、山中鹿之介と京都を発して但馬に入る。(是又当家の族なるべし。原書に載せず、今陰徳太平記に據る)

同八年八月十二日、易季盛重に従い河村郡長郷田にて南条勢と戦う。(陰徳太平記に據る)

同年九月、進下総、同帯刀(帯刀は八幡村相見氏が系図に見えたり)、南条氏に属し河村郡小鹿谷山に陣して吉川勢と戦う。(民談記に據る)

 

応永年間(1394年~1428年)、伯耆国会見郡八幡ノ郷坂中村を拠点とした一族、進幸広が古市村から3町(約330m)あまり離れた場所の山を切り崩し、海蔵寺台地の開墾を始めている。

伯耆志では古市村からは砂鉄が産出したとあり、海蔵寺台地の開発目的が当初から農地を拡大するための開田事業とするか、或いは砂鉄を得るための真砂土採取であったとするかは不明であるが、いずれに於いても副産物の恩恵に与ることができ、開田と製鉄による収益を以て強固な基盤を築いている。

 

1429年(永享元年)~1438年(永享10年)頃、佐陀神社周辺に進太郎左衛門が土着しており、原初の伯耆国佐陀館の築城が推測される。

居館の規模は二町四方の敷地に周囲を堀が巡っていたとされるが、1550年(天文19年)の日野川の氾濫によって堀が埋まったとしている。(日吉津村誌)

 

室町時代には伯耆山名氏に仕えた有力国人衆(伯州衆)の一翼として名が見える。

応仁の乱に於ける功績から伯耆国守護職が山名教之の頃、進美濃守南条氏が伯耆国守護代へと任じられている。

 

尼子経久によって伯耆国内への介入を受けた際、山名尚之の被官衆に見えないことから反守護勢力の山名澄之へと与したことが推測される。

尼子氏から一定の影響を受けていたと考えられる一方、日野郡北部に独立した勢力基盤を築いており、日野郡内に於いて日野山名氏らと日野衆を形成している。

 

1484年(文明16年)、蜂塚安房守が登場すると日野郡北東部は同じ日野衆の一派である蜂塚氏の領有となっており、一族は日野郡北西部のみの所領となっている。

この経緯から蜂塚氏はかつての配下、或いは同族であったが、蜂塚安房守尼子氏の後ろ盾を得たことにより独立した勢力へと変化した可能性も考えられる。

 

1565年(永禄8年)、毛利方の侵攻を受けた伯耆国江美城は陥落し蜂塚氏が滅亡する。

翌年には出雲国月山富田城も陥落し尼子氏が滅亡している。

尼子氏の滅亡後は毛利方に従う者、且つての縁故から南条家を頼る者、流浪の身となり後に尼子再興に与する者などに分かれている。

 

1570年(永禄13年/元亀元年) 、尼子再興軍の雲州侵攻に於ける働きについて、進平次郎経重に対して感状が発給されている。

同年2月25日付の感状では某興幸日野山名氏か)より久代衆(宮氏)の謀反人を討ち捕えた功で所領を得ている。(進家文書 興幸感状(切紙))

同年3月14日付の感状では籠城戦の功績として500疋の恩賞を得ている。(進家文書 興幸袖判日野秀清・進幸経連署書状(小切紙))

 

1571年(元亀2年)、伯耆国浄満原の戦いでは進左吉兵衛が500騎、大山寺経悟院が300騎を率いて尼子方に与している。(尾高の里(三))

 

1578年(天正6年)、尼子再興軍として播磨国上月城へ籠城した日野氏日野五郎日野助五郎日野又五郎)と共に進幸義進経通進平次郎経重進左吉兵衛など一族の名が確認できる。(萩藩閥閲録)

 

1580年~1581年(天正8年~天正9年)、東伯耆に於ける南条氏毛利氏の争いでは水越(伯耆国白石城)周辺で待伏を行い戦功を挙げた進讃之允幸房に対して某政幸日野山名氏か)より7月24日付で感状が発給されている。(進家文書 政幸感状(切紙))

天正年間には南条家の家臣として進免之の名も見えることから東伯耆の一族の多くは南条氏に与したと推測される。

進免之小森方高の毛利方への裏切りを阻止した功績から伯耆国松崎城を与えられており、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に属した南条家が改易されるまで城主を務めたとある。

 

慶長年間には進成行が大山寺の宝物を横領したとして横田村詮によって処刑されている。

 

毛利氏吉川氏の長門国への移封に従った一族もあったようで、毛利家の家臣として萩藩士(大組)となった進三郎兵衛進政宣進経建)には尼子再興軍に与し上月城へ籠城した一族に対して発給された感状の写しなどが伝わる。

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