やまな ひょうぶのしょう のりゆき
山名兵部少輔教之
【氏】源【姓】朝臣【名】山名【通称】兵部少輔【諱】教之
幼 名
鶴房(つるふさ)
出 身
不明
官 途
兵部少輔・相模守
所 属
伯耆山名氏
生 年
不明
没 年
1473年(文明5年)1月16日
武 将 列 伝
室町時代の守護大名。伯耆・備前守護職で山名熙之の子。山名氏之は祖父にあたる。
家督譲渡の経緯については不明だが、父へは家督を継承されず祖父の山名氏之から直接家督を譲られ伯耆守護職へと就いている。
1438年(永享10年)8月、兵部少輔と記述が見え、伯耆国の国人衆を支配体制に取り込み強固な地盤を築いている。
1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱では同族の山名持豊、山名教清らと赤松満祐の領国に攻め入り赤松満祐を討っている。
(赤松満祐は切腹し自害、家臣の出石景則により首級は挙げられた)
赤松満祐を討った功績への恩賞として備前守護職を与えられ、伯耆・備前二ヶ国の守護となった。
1453年(享徳2年)頃、長男の山名豊之に家督を譲ったとされる。
1468年(応仁2年)、東軍の細川勝元が能成寺口、安居院口、紫野の三方より侵攻。
西軍の築いた舟岡山の城砦で一色義直らと共に抗戦するが防ぎきれず敗走している。
応仁の乱では山名持豊の西軍に属して戦っている。
1469年(文明元年)、上洛中の隙を付かれ赤松政則に備前国福岡城を襲撃される。
守備していた守護代、小鴨大和守は美作へ敗走し福岡城は赤松氏の手に落ちている。(第一次福岡合戦)
1473年(文明5年)1月16日に死去。