所 属
伯耆山名
よみがな
人物名
やまな ひょうぶのしょう のりゆき
山名兵部少輔教之
幼 名
つるふさ
鶴房
官 途
兵部少輔、相模守
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1473年2月13日(文明5年1月16日)
氏
源
姓
朝臣
諱
教之
列 伝
伯耆国、備前国の守護職で父は山名熙之。山名氏之は祖父にあたる。
父の山名熙之を経ず山名氏之から直接家督が継承された経緯は不明とするが伯耆国の守護職へと就いている。
1438年(永享10年8月)
官途を兵部少輔とする記述が見え、伯耆国の国人衆(伯州衆)を取り込み強固な地盤を築いている。
1441年(嘉吉元年)
嘉吉の乱では同族の山名持豊、山名教清らと赤松氏の領国へ攻め入り赤松満祐を討っている。
赤松満祐の討伐に対する恩賞として備前国の守護職を与えられ伯耆国、備前国の二ヶ国の守護職となった。
1453年(享徳2年)
この頃には長男の山名豊之に家督を譲ったとされる。
1468年(応仁2年)
応仁の乱では山名持豊の西軍に属して戦う。
東軍の細川勝元によって能成寺口、安居院口、紫野の三方より侵攻を受けると舟岡山の城砦で一色義直らと共に抗戦するが防ぎきれず敗走している。
1469年(文明元年)
上洛中の留守を狙われ赤松政則に備前国福岡城を襲撃される。
守将の守護代、小鴨大和守は美作国へと敗走し福岡城は赤松氏の手に落ちている。
1473年2月13日(文明5年1月16日)
死去。