よみがな
人物名
きのかいろく なりもり
紀海六成盛
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
紀
姓
朝臣
名
村尾
通称
海六
諱
成盛
官途
兵衛尉
別名
世襲で名跡を継いでいるため必ずしも同一人物とは限らない。様々な別名や当て字が見られる。
成盛(なりもり)…長門本に於ける呼称。
源成盛(みなもとのなりもり)…南都本に於ける呼称。
村尾海六(むらお かいろく)…源平盛衰記に於ける呼称。
村尾海六成盛(むらお かいろく なりもり)…源平盛衰記を元とする呼称。
村尾海録(むらお かいろく)…村尾海六に対する当て字。
海陸業戍(かいりく なりもり)…玉葉に於ける呼称。
進海陸兵衛成盛(しんのかいろくひょうえ なりもり)…伯耆志に見える。
進海陸兵衛紀或盛(しんのかいろくひょうえ きのありもり)…伯耆志に「或盛」は成盛の誤りと訂正している。
進甲斐録兵衛(しんのかいろくひょうえ)…海六の当て字に甲斐録を当てた呼称。甲斐国との関係は不明。
進貝録成盛(しんのかいろく なりもり)…紀氏譜記に見える海六の当て字。
紀成森(きのなりもり)…紀成盛の当て字。
海六兵衛成盛(かいろくひょうえなりもり)…受領名として兵衛(尉)を称したとする呼称。
所属
紀
進
巨勢
会見
村尾
列 伝
平安時代末期~鎌倉時代にかけて伯耆国西部で勢力を誇った紀氏の一族。海六成国の父とも。
伯耆国村尾城(会見郡)、伯耆国村尾城(日野郡)などを居城とした。
源平盛衰記(一谷城構の条)では「村尾海六」、長門本では「成盛」、南都本では「源成盛」など、呼称は多岐に渡る。
通称では「海六兵衛成盛」「村尾海六」での記述が多く見られるが登場する時代には幅があり、世襲として「紀成盛」の名を継いでいると考えられる。
玉葉(九条兼実の日記)では「海陸業戍」と記され、「彼の国(伯耆)の勢いある武勇の者なり」と賞されている。
1171年(承安元年)7月、火災によって大山寺の宝殿が焼失。財政の厳しかった大山寺に代わって再建を行っている。
1173年(承安3年)8月、奉納された大山寺鉄製厨子銘文に再建についての記述が見える。
1180年(治承4年)、治承・寿永の乱(源平合戦)が起こると当初は平氏に属していたが、後に西伯耆の武士と共に源氏へ与している。
このため、引き続き平氏に与した小鴨氏との対立が激化し、以前から続く小規模な小競り合いから大規模な戦闘へ変化する要因となっている。
1182年(寿永元年)8月、小鴨基保との合戦で勝利。
吉記(民部卿藤原経房の日記)や大山寺縁起ではこの年、伯耆国で合戦があったことが記されている。
1183年(寿永2年)~1184年(寿永3年)、院御子を担ぎ上げると反平氏の活動に参加。
一時は伯耆国の半分(会見郡と日野郡と推定)と美作国の一部を支配下に置いている。(玉葉、寿永3年2月2日の条)
1184年(寿永3年)、一ノ谷の戦いに参戦。
治承・寿永の乱(源平合戦)に於いては平氏が敗れる形となるが、伯耆国内では平氏に与した小鴨基保が勝利しており、同時期の文献から紀成盛に関する記述が途絶えることからも小鴨基保との戦に敗れたことで一族の勢力が急速に衰退したことが伺える。
その後、南北朝時代から相見氏、巨勢氏、進氏など紀氏を祖と称する氏族が出現する。