所 属

三好

中村

よみがな

人物名

よこた ないぜんのしょう むらあき

横田内膳正村詮

 

別 名

よこた むねあき

横田宗昭

阿波国で三好康俊の家臣とする表記

官 途

内膳正

出身地

不詳

生 年

1552年(天文21年)

没 年

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

朝臣

村詮

列 伝

阿波国三好郡を本拠とした三好氏阿波小笠原氏の末裔)の一族の家に生まれたとされ、三好康長を甥と伝える。

三好康長の嫡男で阿波国岩倉城の城主、三好康俊の家臣で塩田一閑と共に補佐役を務めた横田宗昭は同一人物と推定されている。

 

1573年(元亀4年)

二十歳の頃に三好康俊(徳太郎)の参詣に付き従い、妙国寺で日珖上人より厳粛な儀式のもと受法を受け、以後は熱心な(狂信的とも)法華宗徒になったと記す。(日珖上人「己行記」)

 

1578年(天正6年)

大西覚養(元阿波国の国人領主)により阿波国重清城が奪われたため、三好方の精鋭300騎兵を率いて重清城を攻撃する。この戦で部将の大島丹波大西覚養を討ち取ったとしている。

一説に部隊を指揮した大将は三好実休の次男、十河存保とする説も見える。

一族の内紛、長宗我部元親の台頭によって三好氏は衰退し、三好家滅亡後は暫く流浪の身であったと伝える。

 

1583年(天正11年)

豊臣秀吉より和泉国岸和田城の城主に中村一氏が命じられた頃、且つて三好家に仕えた智勇兼備の将が野に埋もれているとの噂を聞いた中村一氏によって直々に召し抱えられたと伝える。

登用時期には諸説あるが、岸和田周辺から雑賀衆や根来衆を退けた頃から中村一氏岸和田城の城主に任命された頃の期間と推定される。

仕官後は持ち前の知略で度々功績を挙げたことから3,000石の俸禄を賜り家老職へと任じられている。

その後も度々加増され6,000石となり、中村一氏の妹を正室として迎え、近藤善右衛門ら有能な士の推挙も行っている。

近藤善右衛門に対しては俸禄の加増を中村一氏へ嘆願するなど部下の面倒見の良さも垣間見える。

中村家へ仕官の経緯には不明な点もあるが、岸和田の護持山朝光院天性寺に伝わる「蛸地蔵」にまつわる伝説にはこの謎を解けるかもしれない伝説が残る。

 

『聖地蔵尊縁起絵巻』

絵巻によると建武年問(1333年~1336年)、岸和田城下を含む一帯に高波(大地震による津波とも)が押し寄せてくるが、海の彼方より大蛸に乗った法師が海岸まで近付くと波風は鎮められ、岸和田城下に被害がほとんど出なかったとしている。

後日、海辺には菩薩像が残されており、傍には蛸が居たと伝える。

伝説ではこの菩薩像が高波から城下を救ったと伝え、その後、菩薩像は城内に移され信仰の対象になったと続く。

 

雑賀衆、根来衆の軍勢が岸和田に攻め込み大乱戦となった時の伝承

伝には天正年間(1573年~1592年)、雑賀、根来ら傭兵衆の勢いは凄まじく、岸和田城は落城必至と思われたその時、蛸に乗った一人の法師が現れ迫り来る傭兵衆を次々に薙ぎ倒した。

しかし多勢に無勢。徐々に傭兵衆が盛り返し法師を取り囲もうとしたその時、海原から轟音をたてて幾千幾万無数の”蛸”の大群が押し寄せ、傭兵衆を誰一人として殺めることなく退却させてしまったと伝える。

城を守っていた城主は喜び、その法師を探すがいつまで経っても見つからなかった。

ある夜、法師が城主の夢枕に立ち、「自分は地蔵菩薩の化身である」と告げたとする。

城主は城内を隈なく探させると堀に埋もれていた地蔵菩薩像を見つけ、掘り起こして丁重に祀ったとする。

 

天正年間の出来事とする伝承は「聖地蔵尊縁起絵巻」で城下に迫る高波を外敵の襲来に置き換えた伝承と推測される。

登場する岸和田の城主を中村一氏、法師を横田村詮、幾万の蛸の群れを三好家残党の軍勢と仮定すると当時の情勢と大きな乖離は無いと考えられる。

三好家の家紋は「三階菱釘抜」であり、紋を遠巻きに見れば烏賊や蛸の形に見えなくも無く、戦場でたなびく三好家残党の旗に描かれた家紋が「大海に乱舞する蛸の群れ」と比喩されたものとして伝えられた可能性が考えられる。

三好一門は狂信的な法華宗徒であったことも伝えられるため、三好一門⇒坊主⇒蛸(剃髪した頭の例えか)と連想させることでインパクトのある特徴を伝承に取り入れたことが推測される。

三好氏が衰退した一因に三好長治が阿波領内の国人や領民にまで法華宗を強要したため支持を失ったとあることから、三好一門を蛸に例えることで三好家の名を直接出すことなく今日まで伝えられた側面も考えられる。

伝承に登場する人物が実名ではなく架空の人物に改変され伝えられる要因としては三好方に近い人物の存在が伺える。

岸和田城主に任じられた中村一氏が三好家の残党に窮地を救われたとあっては任命権者である豊臣秀吉の威光に関わることであったため、改変してでも三好方の活躍を後世に語り継がせたいとする意図も推測される。

 

中村家への仕官後は登用直後の家老職への抜擢、中村一氏の実の妹を正室に娶るなど破格の厚遇を受けている。

且つての三好家での評判を加味しても、噂に過ぎない評判に基づくだけの待遇とは考え難い。

中村一氏から短期間にこれだけの信頼を得たとするなら、伝承の元となった岸和田での合戦において城主であった中村一氏の危機を救った法師とは流浪中の自身であり、岸和田城下の存亡に関わる重大な功績を挙げたからこそ仕官後の厚遇に繋がった可能性が民話や伝説から読み解ける。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)天正十二年、一氏、和泉岸和田城を守て根来衆徒と戦う。

 

1584年(天正12年)

岸和田周辺で中村一氏と根来衆の戦闘が行われたとある。(伯耆志)

聖地蔵尊縁起絵巻の蛸地蔵伝説などから三好家の残党を率いて中村方の援軍として参戦していたことが推測される。

 

1590年(天正18年)

中村一氏が駿河国駿府城の城主を命じられると従い同行する。

若い頃は三好康俊の補佐役で兵を率いて戦う武将としての記述が目立ち武辺者という印象が見受けられるが、駿河国内の領国経営では駿河国田中城を預かり中村一氏に変わって検地帖の作成、交通網の整備、土木施策、農業施策など内政面で多大な功績を残している。

発給文書も数多く、有能な政治家としての評価を得ている。

 

1598年(慶長3年)

豊臣秀吉が没する。

中村家の存続を第一に考え、逸早く徳川方へ味方するよう進言を行い、三中老という重臣の立場にあった中村一氏をしぶしぶではあったが徳川方へと動かしている。

 

1600年8月4日(慶長5年6月25日)

徳川家康の駿府宿営においては城下の自身の屋敷を御館に提供している。

徳川家康の餐応では中村一氏中村一忠らと拝謁している。

拝謁の際、病に伏していた中村一氏は名代として中村一栄を遣わすことを約束し、一学は長光の刀を賜ったとある。(伯耆志 前城主中村氏の条)

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)当家の老臣横田内膳村詮は(村詮を或は村政に作る今他の証文などの自筆に據)本阿波高屋城主三好山城守の臣なりしが彼家亡びて流浪しけるに何の頃か一氏に仕う。知略有る者にて度々功を立てるが故に三千石を賜り老職となる後数度加増有て六千石を領し一氏の妹を妻とす。今一忠若年なれば一栄と共に後見すべき由命を蒙りければ其威遠近に振びしか終に貪戻の心を発し侫邪を喜び忠良を郤く。因て服部小膳、藪内匠と云う二人忠臣たりしがこれを憤て他国に走る。又、領内の寺社領地他を検する事骨を削るか如く。大山等これが為めに衰うと云えり。諸事傍若無人なれ共其威に恐れて会て忠言を達する者なし。一忠若しと云えども安らかぬ事に思われけるに近臣に安井清十郎と云う者あり。殊に村詮を疾くみけるか彼を討ち殺し給う可しと密に一忠に勧めけり。

 

1600年12月~1601年1月(慶長5年12月)

関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると中村一氏の嫡男、中村一忠の後見役と執政家老の職を徳川家康より命じられ、併せて六千石を知行されている。

 

1601年(慶長6年)春頃

徳川家康より180,000石を賜り中村一忠の伯耆国転封に従い米子へ入る。

家老職の矢野正倫らと共に幼年の主君を補佐し、吉川広家が残した築城途中の湊山の城郭と城下町の再整備、加茂川の外堀化および運河としての改造(商人町との連携及び接続)、米子港の整備、常住山感應寺の建立など内政面において辣腕を振るい、現在の米子市の基礎を築く多大な功績を残している。

徳川家康からは「村詮あってこそ中村家が立ち行くようになった」と評されている。

 

内政の手腕で高い評価を受ける一方、寺社領への干渉では一部で反感を得ている。

伯耆国領内の検地を行った際、尼子氏毛利氏吉川氏徳川氏(※)から代々三千石を認められ独立を許されていた大山寺領に対し、安堵された以上の石高にあたる寺領の一部を没収している。

山市場の安養寺領に対しても安堵された以上の石高に関して干渉している。

大山寺は安堵された以上の石高について自らの経営による労力の結果として得たものと反発したが没収の仕置きは覆らず、大山寺をまとめていた豪円の怒りを買ったと伝える。

豪円は懇意にしていた安井清一郎に影響を与えた人物とされ、後の中村騒動の遠因になったと推測される。

(※)関ヶ原の戦いの後、徳川氏豊臣氏に決められた法をそのまま運用することを認めていたため、正式に徳川氏から寺領の安堵が認められるのは1610年(慶長15年)からとなる。

 

米子城下を整備するにあたっては伯耆国内の各城下町から有力商人や産業のみを半ば強制に移住させたとも伝える。

西伯耆一の城下町であった伯耆国尾高城の城下からも主要産業のみが米子城下へと移され、「城下は農村に変わり、城に拠る者は生活が立ち行かず、自ら命を絶つ者が後を絶たなかった」と、城下に残された領民らの生活の苦しさが伺える伝承も残る。

米子城下発展のためとはいえ、強硬的な手法には批判や不満も起こり服部小膳藪内匠の両名が憤り職を辞している。

続群書類従では横田勘解由横田主馬助など身内に高い知行が集中していることを問題視されているが、指摘した服部小膳藪内匠らは身の危険を察し他国へ逃亡している。

 

車尾の深田家では後醍醐天皇からの御下賜品とされる宝物を借りたまま返さず、屋敷の門前に植えられた桜を強引に奪い盗ったなど他者の財産を侵害することが度々あったと伝えている。

後醍醐天皇からの御下賜品は中村騒動の際に横田家の屋敷火災と共に焼失したとされる。但し、御下賜品自体がそもそも存在せず、火災によって焼失したとするのは深田家による全くの作り話とする言い伝えも見える。

 

横田内膳正村詮裁許状(慶長六年五月廿日付)

巳上

下安井之内美女石従佐川論地之由候 境目者日野河切申付候 間巳来可或其意者也

内膳正村詮   丑 五月廿日  下安井役人 太郎左衛門

 

1601年6月20日(慶長6年5月20日付)

日野郡下安井の役人太郎左衛門へ宛て、佐川村と美女石村の境界を日野川岸とする裁許状を発給している。

この裁許は同年正月15日付の渡久兵重信による裁定に対する不服申し立てを受けたことによるものとする。

他にも上道神社(境港市)の遠藤河内守へ宛てた裁許状などがあり、伯耆国内の政治を広く掌っていたことが伺える。

 

横田内膳正村詮舟免状(慶長七年正月二十一日)

その在所中塩浜ならびにれうかた為可相稼に伝役令免許候。ただし其地より米子へ材木以下取候者舟にて可相回者也。

慶長七年正月二十一日 内膳正村詮  浜目浦惣百姓中

 

1602年3月14日(慶長7年1月21日)

中浜村周辺の浜目浦惣百姓に宛て船免状を発給している。

この船免状では関税を免除して物流の促進を促し、製塩産業を奨励したことが見える。

当時、領内に海を持つ藩は領内をまかなう塩を自らで製塩しなければならなかったため、中浜村を中心とした周辺の村々に製塩を奨励し、併せて近隣の沿岸で漁獲された海産物や建築材(材木など)を米子城下へ優先して運ぶよう指示を出している。この際、船の便(航路)の改善に努めるよう手配を指示し、米子では伯耆の領民だけでなく出雲、隠岐など他国の船も自由に出入りを許し、船税(関税)を一切取らないようにも指示を出し港の繁栄に尽力している。

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

中村一忠と正室、浄明院の慶事に不手際があったことを理由に中村一忠により斬りつけられ、深手を負うが辛うじてその場から逃れている。

襲撃に対して自身の刀を携えた侍童が抵抗し天野宗杷に傷を負わせるも安井清一郎らに侍童は斬り伏せられ、近藤善右衛門から説得を受けたとされるが拒絶し最期は近藤善右衛門の長刀によって討たれたとする。

説得の経緯は諸説の一つで近藤善右衛門の項に記す。また、安井清一郎が右こぶしに傷を負い天野宗杷が侍童を斬り伏したなど入れ替わった記載も見える。

中村一忠が若く非力であったため討ち損じたとする記述も見えるが、1600年(慶長5年)の杭瀬川の戦いにおいては中村一忠の剛力無双の活躍が描かれている。常山紀談では徳川方の活躍が誇張されているとされるが中村一忠は漁猟にも長じていたことから若く非力という評価には疑問が残る。

中村一忠が非力であったとするより、柳生新陰流の使い手であったとも伝える横田村詮も剛の者であったと考える方が自然である。

享年52歳。戒名は「了性院殿法顔宗栖居士」

菩提寺である鳥取県米子市の普平山妙興寺に墓所が在り祀られている。

米子では内政手腕に優れた政治家で宰相のようなイメージが強く持たれ、荒くれ者揃いの中村家家臣としては浮いた存在と思われがちだが、三好家に仕えた頃は兵卒を率いて多くの戦場で戦ったことからも、中村家にあって諸将に引けをとらない智勇兼備の武将像を見ることができる。

死後、子の横田主馬助や客将の柳生宗章らが飯山城内膳丸とも)に籠もり抵抗するが中村一忠は隣国の出雲国月山富田城の城主、堀尾吉晴に援軍を要請する。

 

1603年12月17日(慶長8年11月15日)

出雲国から堀尾氏の援軍が到着し、騒動は鎮圧される。(米子城騒動、中村騒動、横田騒動)

騒動の原因に関しては横田(徳川)側、中村側それぞれで評価が異なる。

 

横田側の記述

・出世を目論んでいた側近の安井清一郎天野宗杷らの嫉みを買い、陰謀により謀殺される。

中村一忠の日頃の行いは凶暴を極め、幾度も諌めたがこれに怒った中村一忠は宴の席での不手際を理由に殺害。(「徳川実紀」「藩翰譜」にもほぼ同じ記述)

側近の讒言に惑わされたとする記述では幼い主君の判断力に原因があったとされ、中村一忠が凶暴とするのは杭瀬川の戦いにおける記述が元になっていると考えられる。(常山紀談)

「徳川実紀」「藩翰譜」では徳川方に都合の良い編集がされている。

 

中村側の記述

中村一氏からの信頼も厚く、徳川家康から六千石と嫡男中村一忠の後見役を命じられており、その権威を傘に侫臣を賞し、忠臣を遠ざけた逆臣とする。(悪政に耐えかねた服部子膳藪内匠が憤り職を辞す)

・独立を認められた大山寺領(この時点で大山寺領に徳川幕府の正式な安堵はなされていない)に検地を行い寺領を没収するなど政治を私物化。(内膳が狂信的な法華宗徒であったことで他宗徒との間に軋轢があったことも一考される)

・私利私欲で民を貪る悪逆非道な人物とする。(伯耆国内各城下町の有力商人や産業のみを米子へ集約し強制的な移転や移住をさせたことが原因と考えられる)

中村側の評価は横田方と敵対した派閥からの視点と見受けられる。

横田方派閥の肥大化する権力に対する危機感からか中村一忠に対して讒言が行われるようになり、非道を見かねた中村一忠によって誅殺されたとしている。

 

登用後の急な出世を快く思わない旧臣の存在があり、政敵も少なくなかったと推測される。

徳川方への独善的な内通、身内の重職への起用など一部の強引な部分が強権的であったと嫉まれる要因と考えられる。

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