所 属
中村
よみがな
人物名
あまの そうは
天野宗杷
別 名
あまの そうはん
天野宗範
伯耆志での記述
別 名
さどう そうは
茶道宗把
続群書類従(中村一氏記)での表記
別 名
あまの そうは
天野宗葉
伯耆民談記での表記
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1604年(慶長9年)
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
駿河国の茶人。米子の城下で庶民に広く茶を普及させた人物と伝える。
茶道を庶民に教授した茶人であったことから「宗杷」「宗範」「宗葉」は茶名或いは宗名とする。
1601年(慶長6年)春
駿河国より中村一忠の伯耆国入りに同道する。
伯耆志 前城主中村氏の条
1603年(慶長8年)
安井清一郎らと謀り横田村詮の暗殺計画を企てた主犯格とされ、馬場村八幡社前で中村一忠と密議した11名の家臣のひとりと推定される。
伯耆志 前城主中村氏の条
続群書類従 中村一氏記
伯耆民談記 妙興寺の条
(略)既に慶長八年十一月十四日の朝、奥方額直しの祝儀に事寄せ、内膳を寝所へ招き、様々と餐応有て、透を伺い抜打に切付け給う。内膳は其の次の間にかけ出つる所を、侍設けたる安井清十郎、天野宗葉、道家長右衛門、飛かかりて散々に切る。其序に内膳が茶坊主、主人の刀を抜き切りかかる。天野左の手にて其刀を受け止めける間に、安井とも彼の坊主を切り倒す。内膳は数ヶ所の症を受、朱に染つて表の座敷へ逃出る。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
伯耆志では深手を負った横田村詮を助けるため侍童や部下が奥の間へ駆け付けようとするが、中村一忠に害を加える一派であるとして彼らを追い返している。
伯耆民談記では横田村詮の侍童が主人の刀を抜き斬りかかってきたがこれを左手で受け止めており、動きを止められた横田村詮の侍童は安井清一郎によって斬り伏せられている。
安井清一郎、道家長右衛門と共に横田村詮へ飛び掛かり散々に切り付けるなど茶人でありながら剣術にも長けた人物であったとする描写が見られる。(伯耆民談記 妙興寺の条)
中村一忠に背後から襲い掛かった横田村詮の侍童を斬り殺した褒美として1,000石が与えられている(群書類従)
同日、横田村詮の殺害を知った横田主馬助、柳生宗章ら横田一党が伯耆国飯山城(或いは内膳丸)に立て籠もり騒乱となる。
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
出雲国から堀尾吉晴の援軍が到着すると中村方の総攻撃が開始され、横田主馬助の自刃を以て騒動は鎮圧される。
伯耆志 前城主中村氏の条
続群書類従 中村一氏記
一、茶道宗把、御公儀より切腹被仰付候えとも吉利支丹にて自害不在宗体にて首を打たれ申候。
伯耆民談記 妙興寺の条
(略)與当の三士、安井清市郎、天野宗葉、道家長右衛門、近藤善右衛門共に駿河へ召され、御糺命ありて、三士切腹させ給う。道家は東都より忠一、簾中の御付人なり。近藤は横田を打止むると雖も、是を全く忠士據無事にて、合体にあらざる事申し開き、御赦免を蒙むりけり。
1604年(慶長9年)
騒動後は安井清一郎、道家長右衛門、近藤善右衛門と共に駿河で取り調べを受けている。
騒動に関する伝聞や報告も江戸へと届いており、徳川家康から直々に切腹を言い渡されている。
キリスト教徒(吉利支丹)は自害することが戒律で許されないとして切腹に応じず打ち首に処された。
一説に取り調べは一切行なわれず、即刻切腹の沙汰になったとも伝えている。
通説では横田村詮の政治手腕に嫉妬し出世の障害になると考えた安井清一郎と謀って暗殺計画を立案したとされるが、自身はキリスト教徒であり、狂信的とまで比喩される熱心な法華宗徒であった横田村詮とは宗教的な考え、立場の違いから少なからず軋轢があったことも一因と推測される。
茶の普及のため広く米子町民とも交流を持っており、伯耆国内の主要な城下町の産業や住民に半ば強制的な移転や移住があったことも効き及んでいた可能性があり、横田村詮の強引的な手法に疑問を持ち計画に加担したことも考えられる。