所 属

中村

よみがな

人物名

なかむら ほうきのかみ かずただ

中村伯耆守一忠

 

初 名

なかむら いちがく

中村一学

会津征伐出陣前の表記(伯耆志)

 

別 名

なかむら いちかく

中村一角

駿府政事録、寛政重修諸家譜(649巻) 滝川一積の項

 

別 名

あらお いちがく

荒尾一学

中村家支流の荒尾氏の祖とする(伯耆志)

 

別 名

なかむら ただかず

中村忠一

徳川秀忠より偏諱を受け改称

 

別 名

まつだいら ただかず

松平忠一

慶長13年に徳川家康より松平姓を賜る

法 号

青龍院一融源心大居士

官 途

侍従(従五位下)、伯耆守

出身地

駿河国

生 年

1590年(天正18年)

没 年

1609年6月12日(慶長14年5月11日)

朝臣

一忠

列 伝

豊臣家に仕えた三中老、中村一氏の嫡男。弟に中村正綱中村正高

 

1590年(天正18年)

中村一氏が駿河国駿府城の城主に任じられた頃の誕生を伝える。

 

1600年7月25日(慶長5年6月16日)

会津征伐のため徳川家康が摂津国大坂城から出陣する。

 

1600年8月4日(慶長5年6月25日)

徳川家康の駿府宿営においては城下の横田村詮の屋敷が御館に供され、徳川家康の餐応では中村一氏横田村詮に続いて拝謁している。

拝謁の際、病に伏していた中村一氏は名代として中村一栄を遣わすことを提案し、自身は長光の刀を賜ったとある。(伯耆志 前城主中村氏の条)

 

1600年8月(慶長5年7月)

中村一栄に従い会津征伐へと従軍する。

 

1600年8月25日(慶長5年7月17日)

中村一氏が死去。

 

1600年10月(慶長5年9月)

中村一栄を総大将として関ヶ原の合戦に従軍する。

 

1600年10月20日(慶長5年9月14日)

杭瀬川の渡河中に島清興の挑発(行軍の眼前で田圃の稲刈りを始めたとする)を受け有馬豊氏の部隊と共に攻撃を仕掛けている。

緒戦では多数の敵兵を討ち取るなど戦果を挙げ、友軍の勢いに乗じて後退する敵部隊の追撃を始める。

しかし敵部隊の後退は島清興の計略であり、追討する部隊は突出し敵方の伏兵が潜む地点まで誘き出されている。

敵方の伏兵が潜む地点まで誘引された味方の部隊は側面から急襲を受けた上、退却を装っていた部隊も反転し逆襲に転じたため、突出していた部隊は前面と側面から敵軍に挟撃される形となり、後方から続く友軍により退路も塞がれ進退極まる大混乱に陥っている。

更に敵方の増援に宇喜多家の部将、明石全登が率いる300余騎も戦場に到着し、混乱する部隊は攻撃を受け、家老の野一色助義を始め竹田某甘利某中村新助など28名の将が討たれたとしている。

敵中で孤軍奮闘していたところに矢野助之進林文太夫が加勢に入り、深手を負った梅田大蔵と共に救出されたとする説の他、有馬豊氏によって救出されたとする説も見える。

杭瀬川の戦闘では島清興の計略に陥り多くの家臣を失ったが、自身は孤軍奮闘を続け敵の首級を挙げるなど戦功を挙げている。常山記談など軍記物では徳川方の武将への忖度は考えられるものの、その戦ぶりは「無双の武者」「凶暴極まりない残虐の徒」などと表現され、万夫不当の豪傑と評されている。(常山記談)

 

1600年10月21日(慶長5年9月15日)

杭瀬川での失態を理由に中村方の関ヶ原への参戦が認められなかったため、中村一栄は垂井に陣を構えると南宮山に布陣する毛利秀元吉川広家らに対する押さえとして毛利軍と対峙している。(常山紀談)

 

1600年12月~1601年1月(慶長5年12月)

会津征伐の折、横田村詮徳川家康に取り付けた約定通り、伯耆国17万5,000石(18万石とも)が与えられ、伯耆守に任じられている。

伯耆国を賜った時、齢10歳(11歳とも)と幼少であったため執政家老の横田村詮を後見役とするよう徳川家康から直々に命じられている。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(慶長五年)十二月、子一学一忠に伯耆十八万石を賜う。

(時に十一歳なり。藩幹譜に十七万五千石とす。外史に因幡伯耆を賜うとせるは誤なり。当時因幡は池田亀井山崎氏等の所領なり)

一忠明六年の春入国あり。

(藩幹譜又感応寺筆記に一忠忠一とし大徳公の偏諱を賜われるものとす。外史又忠一に作る。皆然らを荒木氏証文に自筆にて一忠と記せり。是明証なり。数本の中村記又中村系図にも一忠作れり)

前領主吉川氏当城の経営未だ果たさざるに因て暫らく尾高に在て役夫を興し石垣を築き隍を掘て海水に通し本丸を修理して入城あり。

後松平の姓を賜い伯耆守と号す。母は同姓(当時尾崎と称す)河内守一高の女なり。

 

中村記(全) 稲葉書房版(昭和44年7月)

慶長5年丑の暮、初めて国へ入部有り。伯州府中米子に入給う。されでもいまだ城郭もなく屋敷もなし。夭故、程なく南の方に一町余り堀をほり、石垣を築立しが普請内は同国尾高と云う処に暫く居住ありしか。

 

1601年(慶長6年)春

伯耆国へ入国とある。

中村記では1600年(慶長5年)の暮頃には伯耆国(米子)へ入部とするが、米子には城郭どころか住まう屋敷すらない状況であり、伯耆国米子城と御殿が完成するまでの間、伯耆国尾高城を居城にしたとある。

 

1602年(慶長7年)

米子城と御殿が完成し尾高城から米子へ移ったとされる。

 

1603年(慶長8年)

側近の安井清一郎天野宗杷らから横田村詮に対する讒言を受けるようになったとされる。

 

1603年12月16日(慶長8年11月14日)

浄明院との慶事(額直しの儀)に不手際を申し付け横田村詮を誅殺する。

横田村詮の殺害を知った横田主馬助柳生宗章ら横田一党は伯耆国飯山城(或いは内膳丸)に立て籠もり抵抗を見せる。

横田一党の反乱に対して中村方の兵員だけでは鎮圧することができず、父の盟友であった出雲国の堀尾吉晴から助勢を得ることで鎮圧している。

騒動の鎮圧後、事件の顛末は徳川家康へと報告され、首謀者として安井清一郎は即刻切腹、天野宗杷は切腹を命じられたがキリスト教の戒律を理由に自刃せず打ち首となった。

浄明院の世話係として江戸から遣わされていた道家長兵衛道家長左衛門も騒動を阻止出来なかったことを理由に江戸において切腹に処されている。

正室の世話係にまで責任が及んでいることから騒動の原因には浄明院の日頃の振舞いに起因する事象が存在したことを伺わせている。

騒動の関係者として近臣が処分された一方、自身は品川宿での謹慎に留まりお咎めもなかったとされている。

 

1604年(慶長9年)

叔父の中村一栄が死去する前後より東伯耆(久米郡、八橋郡、河村郡)の家臣による不正蓄財が顕著になっており、陰口や脅迫、果ては藩主を監禁すべしとする意見などが起こり、精神的な負担は極限に達していたと推測される。

藩主の監禁目的については以前から精神状態が不安定であったことに対する対外的な処置とされているが東伯耆の重臣らによる不正も横行しており、不正発覚の隠蔽と既得権益の保護を目的とした措置とする側面が強いと推測される。

 

1608年(慶長13年)

徳川家康より松平姓を賜り以降は松平姓を公称する。

 

伯耆志 荒尾氏の条

本姓中村にて米子城主たりし伯耆守一忠の支族たり。(略)河内忠義、一忠に仕えて千五百石を領す。其証文今蔵す。

為扶助千五百石令宛行 訖 目録之通全可領地者也

正月十五日 一忠(花押)

尾崎河内とのへ

 

自身が発給したとする文書は数点しか確認されていないことから伯耆国内の統治は執政家老、横田村詮にほぼ全権が任せられていたことが伺える。

 

伯耆志 前城主中村氏の条

(略)一忠、平生美麗を好みて寺社参詣、遊猟にも其行列最厳なり。

慶長十四年の春、京都に至り。其夏帰国有つて身体例ならず。治療を進むれとも其験も無きに強て漁猟を催され霖雨の頃度々城外に出てられけるが五月十一日又外より帰城有りしに疾我かに劇しくして医薬を進むる間もあらず。

侍者僅かに一、二人周章する中、小姓垂井勘解由、蓐に倚て伺うに既に事終れり。上下の悲慟、言語道断なり。年二十(廿一歳とするは誤なり。感應寺日長上人の慶長十一年自筆の棟札に寅年中村伯耆守と記せり。然れば天正十八年の誕生にて今年二十歳也)。

十二日感應寺に葬る。導師は日長上人なり。青龍院一融源心大居士と諡す。(略)

 

1609年6月12日(慶長14年5月11日)

急逝。享年は20歳とする。

法号は青龍院一融源心大居士。

 

1609年6月13日(慶長14年5月12日)

中村家菩提寺の常住山感應寺へと埋葬され、小姓であった服部邦友垂井延正の2名が殉死している。

常住山感應寺には3名の木像が彫られ墓域の御影堂に安置されたが、1903年(明治42年)に老朽化した御影堂解体の際に木像は本堂へと移されている。

現在、墓所に鎮座する五輪塔は1959年(昭和34年)の350年祭で建立された石塔とする。

 

死因については諸説あり、病死とする一方で暗殺を伺わせる伝承も多い。

通説では死去する同年、京都の屋敷から米子へと戻るが体調の優れない日々が続いており、趣味の川狩りを行えば気分が晴れると日野川へ出かけ、そこで食した青梅が原因で急死したと語られている。

「青梅」には青酸配糖体が含まれているが、成人男性の致死量は約300個(若梅の種なら15~30個)とされ、果実部を食したことが死因に直結するとは考え難い。

「梅」という単語から病死を連想する場合、梅毒など感染症を患っていたことも疑われ、一定の時間を要するが娼婦等を利用して殺害することは可能である。

同じく「梅」の漢字から梅里氏を黒幕とし、一族の側室の子が嫡男として認められない現状に対する何らかの行動があったのではとも推測される。

徳川家康が直々に後見として任命した横田村詮を誅殺したことが徳川方の顔に泥を塗る行為とみなされ、下女に紛れ込んだ忍から継続的に少量の砒素を食事に盛られていたとする陰謀説など死因の伝承は多岐に亘る。

 

中村家は無嗣断絶により改易とされたが、京都の側室に男子があったと伝える。

米子(国元)の側室であった梅里氏の娘も妊娠しており、自身の死後ではあるが男子(中村一清)の誕生を伝える。

正室の浄明院は側室の存在を疎ましく思っていた節があり、京都の側室の子は正室への配慮から幕府に対して嫡男とする届け出が為されていなかったとしている。

このため京都の側室の子は末期養子と扱われ、家督の継承が認められず中村家は無嗣断絶として改易となった。

中村家の改易後、矢野正倫らは中村一清を嫡男として改易に対する異議を申し立てようとしたが浄明院の意向を汲む一部の旧臣により反対され断念している。

後に幕府へと訴えが届いたとされるも中村家の改易が覆ることはなかった。

京都、米子の側室はいずれも梅里氏の娘とされているが、京都の側室については国元の側室である梅里氏の娘と取り違えて伝えている可能性も推測され、出自など詳細は不明とする。

米子(国元)の側室は梅里氏の娘で久米郡島村(北条の嶋)出身と伝えている。(伯耆志)

 

中村家が使用した家紋については、陣幕などには丸の内に三つ引き紋、衣服には沢潟紋を使用したとしている。(中村記)

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