武将列伝帖

なかむら ほうきのかみ かずただ

中村伯耆守一忠

【氏】【姓】朝臣【名】中村【通称】伯耆守【諱】一忠

別 名

中村忠一(なかむら ただかず)…徳川秀忠より偏諱を受け改称する。

松平忠一(まつだいら ただかず)…1608年(慶長13年)に徳川家康より松平姓を賜る。

幼 名

中村一学(なかむら いちがく)

出 身

駿河国

官 途

従五位下侍従、伯耆守

所 属

中村氏

生 年

1590年(天正18年)

没 年

1609年6月12日(慶長14年5月11日)

 

- 列 伝 -

豊臣家に仕えた三中老、中村一氏の嫡男。弟に中村正綱中村正高

1590年(天正18年)、父の中村一氏が駿河国駿府城の城主に任じられた頃の誕生とされる。

 

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が没する。

 

1600年(慶長5年)6月16日、会津征伐のため徳川家康が摂津国大坂城から出陣する。

同年6月25日、駿府での宿営の際、城下の横田村詮の屋敷を御館に供しており、徳川家康を餐応し、中村一氏横田村詮と共に拝謁している。

拝謁の際、病に伏していた中村一氏は名代として中村一栄を遣わすことを提案し、子の一学に長光の刀を賜ったとある。(伯耆志 前城主中村氏の条)

関原軍記では同年8月6日の出来事としている。

同年7月、中村一栄に従い会津征伐へ従軍する。

 

1600年8月25日(慶長5年7月17日)、父の中村一氏が死去。

同年9月、関ヶ原の合戦には中村一栄を総大将として従軍する。

同年9月14日、杭瀬川の戦いでは渡河中に島清興の挑発を受け有馬豊氏の部隊と共に攻撃を仕掛けている。

緒戦では多数の敵兵を討ち取るなど戦果を挙げ、敵部隊が後退し始めたことから追撃を行うが一連の動きは島清興の計略であり、偽退却によって敵方の伏兵が潜む地点まで誘き出されている。

計略地点まで誘因されると側面から伏兵の急襲を受けた上、誘因した部隊も反転し形勢が一転する。

更に西軍には明石全登が率いる300余騎も加わり中村方の部隊が大混乱に陥る中、家老の野一色助義竹田某甘利某中村新助など28名が討たれたとされる。

部隊が潰走し敵中で孤軍奮闘していたところに矢野助之進林文太夫が加勢に戻り、深手を負った梅田大蔵と共に救出されたとある。

一説には有馬豊氏によって救出されたとする説も見える。

杭瀬川に於ける戦闘では島清興の計略に嵌り低い評価を受けるが、部隊が混乱する最中に首級をいくつも挙げるなど個人の活躍としては常山記談など軍記物に於いて「無双の武者」や「凶暴極まりない残虐の徒」とし、徳川方への忖度や表現は分かれるもののいずれも無二の豪傑と評している。

同年9月15日、杭瀬川の戦いに於ける損害を咎められ、本戦への参加は許されなかったことから中村一栄と共に垂井に陣を構えて南宮山に対する備えを敷いている。

同年12月、会津征伐の折、徳川家康を餐応した際に行われた会談に準じて伯耆国17万5,000石(18万石とも)が与えられ、伯耆守へと任じられている。

同じ頃、中村一氏の家督を相続したとされるが齢10歳(11歳とも)と幼少であったため、執政家老の横田村詮を後見役とするよう徳川家康より直々に命じられている。

 

中村記(全) 稲葉書房版(昭和44年7月)

慶長5年丑の暮、初めて国へ入部有り。伯州府中米子に入給う。されでもいまだ城郭もなく屋敷もなし。夭故、程なく南の方に一町余り堀をほり、石垣を築立しが普請内は同国尾高と云う処に暫く居住ありしか。

 

1601年(慶長6年)春頃、伯耆国へと入国するが伯耆国米子城と御殿が完成するまでの間、伯耆国尾高城を居城とする。

翌年の1602年(慶長7年)、米子城と御殿が完成し尾高城から米子へと移っている。

 

1603年(慶長8年)、側近であった安井清一郎天野宗杷らの讒言を受けるようになる。

同年12月16日(慶長8年11月14日)、浄明院との慶事(額直しの儀)に於いて不手際を申し付け横田村詮を誅殺する。

横田村詮が殺害されると子の横田主馬助柳生宗章ら横田一党は伯耆国飯山城(或いは内膳丸)に立て籠もり抵抗を見せている。

横田一党の反乱は中村方の兵員だけでは鎮圧することができず、父の盟友であった出雲国の堀尾吉晴からの助勢を得ることで鎮圧している。

騒動の鎮圧後、事件の顛末は徳川家康へと報告され、首謀者として安井清一郎は即刻切腹、天野宗杷も切腹を命じられたがキリスト教の戒律により自刃ができず打ち首となった。

浄明院の世話係として江戸から遣わされていた道家長兵衛道家長左衛門も騒動を阻止出来なかったとする理由で江戸に於いて切腹に処されているが、正室の世話係にまで責任が及んでいることから騒動の原因には浄明院の日頃の振舞いに起因する事象が存在することも伺わせている。

騒動の首謀者や関係者として近臣が処分された一方、本人は品川宿での謹慎に留まりお咎めはなしとされている。

 

1608年(慶長13年)、徳川家康より松平姓を賜り以降は松平姓を公称する。

1604年(慶長9年)に叔父の中村一栄が死去した頃から東伯耆(久米郡、八橋郡、河村郡)の家臣による不正な蓄財が顕著になっており、陰口や脅迫、果ては藩主を監禁するべきとする意見などが起こり、精神的な負担は極限に達していたと推測される。

藩主を監禁するとしたやり取りにはこれ以前から精神状態が不安定であったことに対する処置とされているが、東伯耆の重臣らが私腹を肥やしていることは見過ごせず、己の権益を守るためだけの意見であったとも邪推される。

 

伯耆国内での知行については幼年であったこともあるが筆頭家老、横田村詮の活躍が目覚ましく、本人が発給したとされる文書は極端に少ない。

本人の花押と推測されている書簡も1通しか確認されていないことも横田村詮が全権を任せるに足る政治に長けた辣腕者であったか、幼君を蔑ろにし藩政を牛耳る専横者であったとするか評価が分かれる原因のひとつと考えられる。

 

1609年6月12日(慶長14年5月11日)、死去。

小姓であった服部邦友垂井延正の2名が殉死している。

菩提寺の常住山感應寺には3名の木像が彫られ墓域の御影堂に安置されたが、1903年(明治42年)に老朽化した御影堂解体の際に木像は本堂へと移されている。

現在、墓所に鎮座する五輪塔は1959年(昭和34年)、350年祭で建立されたとある。

 

死因については諸説あり、病死とする一方で暗殺を伺わせる伝承も多い。

通説では死去する同年、京都の屋敷から米子へと戻るが体調の優れない日々が続いており、趣味の川狩りを行えば気分が晴れると日野川へ出かけ、そこで食した青梅が原因となり急死したと語られている。

「青梅」という単語から病死とする場合は梅毒などを患っていた可能性を連想させ、暗殺という点でも娼婦等を利用して時間は要するが同様に殺害に至らせることが可能である。

一説には徳川家康が直々に後見として任命した横田村詮を誅殺したことが徳川方の顔に泥を塗る行為とみなされ、この頃から砒素を盛られていたとする陰謀説も見える。

 

中村家は無嗣断絶とされているが側室であった梅里氏の娘には男子(中村玄蕃、後の中村一清)があったと伝える。

しかし、側室の存在を疎ましく思っていた浄明院の意向により男子は嫡男と認められず大名としての中村家は改易となっている。

京都の屋敷の側室、おさめが男児を設けたとされる一方で国元にも側室があり、いずれも梅里氏の娘とされている。

京都の梅里氏の出自は不明だが、国元の側室は北条の嶋出身と伝えている。

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