所 属
小早川
▶
中村
横田
よみがな
人物名
やぎゅう ごろうえもん むねあき
柳生五郎右衛門宗章
別 名
やぎゅう ごろうざえもん
柳生五郎左衛門
伯耆志の一部に記載
官 途
不詳(右衛門尉)
出身地
不詳
生 年
1566年(永禄9年)
没 年
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
氏
不詳
姓
不詳
諱
宗章
列 伝
柳生宗厳の四男。兄に柳生厳勝、弟に柳生宗矩。
剣術、槍術に長け米子騒動では横田方に助太刀し、中村家の武人を相手に多数斬り伏せた剣豪と伝える。
1594年(文禄3年)
柳生宗厳からの推挙で徳川家康の剣術指南役として出仕を要請されるが仕官に応じず武者修行へと出てしまう。
その後、小早川家へ召抱えられたとある。
伯耆志 中村氏臣物頭以上
五百石 柳生五郎右衛門
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋に近侍し警護の任にあたっている。
合戦後は小早川家の改易に伴い牢人となったが、中村家の家老、横田村詮に請われ横田家の客将となる。
中村家での禄高は500石。
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)横田氏に籠る者には弟主馬之助、三好右衛門兵衛、同左内、同玄蕃、高井左吉右衛門、安井久右衛門、同田平、近藤善右衛門、柳生五郎右衛門、同治郎吉、矢木甚兵衛、桜間甚吉、石川茂平、鵜飼治右衛門等を始めとして九十四人、其外徒士足軽都合二百余人。表門裏門を固め、大将主馬之助は朱の小具足に白き陣羽織を着し軍扇を以て八方を下知す。(略)
横田が表門の討手は一忠の物頭、依藤半左衛門、藤江蔵人、戸川丹波、矢野助之進、室田與左衛門。大勢を卒して馳向う。矢野、室田、下知して小門を打破らんとする所に内より高井左吉右衛門、十文字槍を以て突て出ず。矢野、槍を合せて戦いけるが終に突き立てられ手を負て引退く。一忠の近臣遠山小兵衛、柳生五郎右衛門に渡り合い、今井治郎七、遠山を助けんと、又柳生に突掛る。柳生は聞うる槍の達人なれば今井、終に突伏せらる。次に吉田左太夫も柳生に槍を打落されて引退く。瀧川三九郎は討れにけり。甘利多郎助、又柳生に突掛りしが槍の横手を物に掛けて働けず既に危く見えけるが甘利は江戸御家人にて今一忠に預けられたり。其仔細、柳生家に因る事なりければ柳生、其儀をや思いけん。是をば討たずして止みにけり。斯くて柳生が下知にて内より鉄砲を打出すこと雨の如くなれば寄手乱足になる所を柳生長柄の鎗を中より切て短くし大勢の中に駈け入り当るを幸に突倒す。其働誠に一人当千なり。因て一忠人を以て罪は免ずべし。味方に参り候えと申入れられけれども此度仔細有て村詮が味方致し候。今に至て志を易え候わじと対て終に大勢と戦い討死す。藤井助兵衛、其首を取る。一説には矢野、室田二人に討ると云えり。一忠、吉晴、甚惜まれけるとなり。此五郎左衛門は所謂柳生但馬殿の兄なり(藩翰譜に弟とす)故有。流浪し村詮に遇して一忠に仕えしなり。(略)
続群書類従 中村一氏記
一、其夜、内膳一門別而目かけられ候。衆、内膳屋敷へ取篭り申候。大将は横田主馬勢、三好右衛門(孫養子)、柳生五郎(五百石)、打太刀次郎八、次郎吉、田賀井左吉右衛門(千石、足軽三千人)、安藤久右衛門(七百石)、世忰今平、近藤九右衛門(五百石)、櫻間甚吉(二百石)、石原茂兵衛(百石)、鵜飼次右衛門(右衛門守)、矢木甚兵衛(五百石)、其外数多篭り申候。横田勘解由は作州湯治仕、直に立のき加藤左馬殿へ参られ五百石遣わされ候。
一、書院責口一番槍、矢野助之進、室田与左衛門と田賀井左吉右衛門鎗合、左吉右衛門十文字、与左衛門甲の内突き十文字横手にて顋脣を突き申候。故、後まで痕あり。助之進と五郎鎗合申候。五郎十文字、作中堂来にて後代仕る由。遠山小兵衛(六百石)。䏻人にて誉申仁にて候えども五郎渡合討死仕候。 次郎七(三百石)、小姓一角前へ参り申候ば只今五郎書院にて火花を散らし戦申候。我等ならでは五郎太刀打仕もの御座あるまじきと申候えば諸人目を引き不言口言とて何も笑い申候へば即ち参り候て五郎と渡合、五郎をと甲斐を切り由候。次郎七は五郎に切殺され申候。五郎切可弟子也。滝川三九郎、五郎と渡合手負申候。吉田佐太夫鎗合申候。五郎、田賀井左吉右衛門、安藤久右衛門、同今平、餘多の人数切突殺。五郎、打太刀次郎八、次郎吉、三人ながら手柄。討死仕候。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家の遺臣二百余名と伯耆国飯山砦(内膳丸とも)に立て籠もった。
横田主馬助からは反乱軍に加勢せず、立て籠もる内膳屋敷から退去するよう勧められたが横田家への恩義に報いたいとして内膳屋敷の表門(書院責口)にて敵勢の動きに備えた。
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
出雲国月山富田城から堀尾吉晴の援軍が大龍山總泉寺へ到着し、増援の到着を以て中村方の総攻撃が開始される。
伯耆志では書院責口への攻略に物頭の依藤半左衛門、藤井蔵人、戸川丹波、矢野助之進、室田与左衛門らが遣わされ、一番槍であった矢野助之進、室田与左衛門の両名を田賀井左吉右衛門と共に迎え撃ち、撃退している。
続いて遠山小兵衛を討ち伏せ、遠山小兵衛の救出に飛び出した今井治郎七を討ち取り、更に槍を手にした吉田左太夫と対峙する。
吉田左太夫は槍を叩き落とされた際に手傷を負ったため戦場から撤退し、続く滝川三九郎を討ち取っている。
甘利太郎助も十文字の槍を獲物に突き掛ってくるが、槍の横手を引っ掛け身動きが取れなくなり絶体絶命の状態となる。
周囲の誰もが討たれるものだと思われたが甘利太郎助とは且つて交流があった間柄とされ、引っ掛かった槍の柄を切り折っただけで見逃している。
甘利太郎助を退かせた後、表門櫓内の鉄砲隊に一斉射撃の命令を出し、中村方の軍勢に大きな被害を与えると自身は手持ちの長槍の柄を折り短槍へと変え敵中に突撃を敢行する。
対峙した敵兵は悉く斬り伏せられ、鬼神の如く敵陣を進む姿を見た中村一忠からは反乱の罪に問わないとして降伏するよう説得を受けたが横田村詮への忠義は変えられずとして説得を拒否している。
更に敵中を進み、最期は藤井助兵衛と戦い討死したと伝え、中村一忠、堀尾吉晴は惜しい人物を失ったと涙している。
一説には藤井助兵衛ではなく矢野助之進、室田与左衛門に討たれたとしている。(伯耆志)
書院責口の戦いでは田賀井左吉右衛門との戦闘で矢野助之進が負傷し撤退しているため矢野助之進との戦闘描写は無かったが、続群書類従(中村一氏記)では書院責口の門前で田賀井左吉右衛門と室田与左衛門が対峙し、自身は矢野助之進と対峙し幾度か斬り合った末に手傷を負わせ戦場から撤退させたとしている。
続群書類従(中村一氏記)では滝川三九郎は手傷を負ったのみで討死せず、旧知であった甘利太郎助も登場せず、中村一忠から説得を受ける描写も見られないなど一部に伯耆志と相違が見られる。
伯耆志では最期に単身で突撃を行い多数の敵兵の中で討死するが、続群書類従(中村一氏記)では特攻の描写は無く、柳生五郎八、柳生次郎吉を伴い多数の敵方を斃し手柄を立てるも3名の討死を伝える。
同じ頃、搦手側の安藤今平も戦死したことで横田方の戦線は崩壊し、横田主馬助の自刃を以て騒動は鎮圧された。
鳥取藩史では弓矢を携えた依藤長守に挑まれるが決着は付かず、再戦を約束して別れている。
1603年12月18日(慶長8年11月16日)
鳥取藩史では横田騒動が翌日まで続いた事になっており、依藤長守と再び対峙している。
依藤長守の放つ弓矢を槍で防ぎ、勝負が着かないことからお互い太刀を抜くと二刻ほど斬り合った末、依藤長守によって討たれたとある。(鳥取藩史)
飯山砦の麓に墓と伝える祠が遺り、奈良県にある芳徳寺には自身の墓石と森池五郎八の石碑が並んで祀られていると伝える。
後世、騒動での武勇から当地で柳生新陰流の名声が大いに上がったとも伝えている。