所 属
中村
▶
池田
よみがな
人物名
よりふじ まごべえ ながもり
依藤孫兵衛長守
初 名
よりふじ うまのすけ
依藤牛之助
伯耆民談記での表記
官 途
不詳(兵衛尉)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1657年5月21日(明暦3年4月8日)
氏
源
姓
朝臣
諱
長守
列 伝
中村家の家老。伯耆志、中村記での禄高は1,000石。
依藤長安の次子で馬術に優れ、弓術に長けた弓の達人で無双の強弓と評された。
伯耆民談記 妙興寺の条
依藤牛之助は無双の強弓にて敵の狭間を閉ず。
1603年12月16日(慶長8年11月14日)
横田村詮殺害の報せを受けた横田主馬助は横田家遺臣200余名と飯山の砦(内膳丸とも)に立て籠った。
1603年12月17日(慶長8年11月15日)
横田騒動では「無双の強弓」と評され、横田方の狭間を悉く閉じる正確な射撃の腕を見せている。
鳥取藩史では柳生宗章に弓矢で挑むが決着は付かず、再戦を約束して別れている。
1603年12月18日(慶長8年11月16日)
鳥取藩史では横田騒動が翌日まで続いた事になっており、柳生宗章と再び対峙している。
先に弓矢を打ち掛けたが柳生宗章には槍で弓矢を防がれ、勝負が着かないことからお互い太刀を抜き、二刻ほど斬り合った末に柳生宗章の首を獲ったとある。
柳生宗章を討ち取った功により中村一忠は依藤長安と河毛備後に国政を執らせたとある。(鳥取藩史)
伯耆志 前城主中村氏の条
(略)安井清十郎、公儀を忘るる罪に帰す。清十郎これを聞て家に籠て出仕せず。度々召さるれとも命を奉ぜず。一忠大に怒り依藤孫兵衛に「捕え来るべし。防がば討棄てよ」と命ぜらる。孫兵衛至りけるに門を閉たり。即壁上に登る。清十郎何者ぞと呼で出つる所を強弓にて射たりしか一の矢は中らず二の矢にて射止めけり後、江戸より御書至て道家長右衛門(此方に従て江戸より来れり)同長兵衛、天野宗範等死を賜う。且、江戸の内命を以て依藤半左衛門、河毛備後を執政とす。(依藤氏は倉吉の在番たり。河毛は松崎の領主たり。主家断絶の後、江戸の命を受けて自殺す。鵜殿氏これに座して改易せらる。駿府政事録を考うるに中村氏の金銀財宝を掠むと見えたれば彼時鵜殿氏二人の苞苴を受けたるなるべし)
続群書類従 中村一氏記
一、安井清一郎、右の談合(今のまま)柱故、六千石遣わされ被申。国を仕置申し付けられ候を一両年も過ぎ候て家康様被仰出候ば若手の一学に悪しき知恵が入申候とて、切腹被仰付候。
時、家に火をかけ奥より料理の間通台所へ火をかけに参候所を依藤孫兵衛、鷹部屋の上に居申候か弓にて射申候えば、屋根の板持に中り清一郎には中り不申候もとり申候所を入候へば中り申候。それより奥へ参り父子共に切腹仕り焼死仕候。
1604年(慶長9年)
横田村詮に代わり米子の執政を命じられた安井清一郎であったが騒動の翌年、徳川家康から中村一忠を拐かしたとする罪で切腹を仰せ付かり、その後は追及を恐れて屋敷に籠り出仕しなかった。
安井清一郎に対して中村一忠から再三の出仕要請が出されるも応じず、これに怒った中村一忠より討手として安井の屋敷へと遣わされている。この際、抵抗するようであれば殺害しても構わないと命じられている。
安井清一郎は屋敷の門を堅く閉ざし宅内に入ることが出来なかったため、塀の上に登ると屋敷の中に矢を射掛け、2射目で安井清一郎に命中させたとある。
矢傷を受けた安井清一郎だが一向に屋外へ出てくる気配がなかったため屋敷に火をかけ、煙に燻されて出てきたところを捕らえ城内に連行し切腹させたとしている。(伯耆志など)
続群書類従(中村一氏記)では経緯が異なり、屋敷へ到着するなり火を放ち、更に勝手口から料理の間を通り台所へも火を放つと鷹部屋(小屋)の上で安井清一郎を待ち伏せたとしている。
火災に気付いた安井清一郎に弓を射かけるが1射目は屋根の板持に中り、2射目以降で命中としている。
矢傷を負った安井清一郎は奥の間へと移ると父子揃って切腹し焼死したと伝える。
顛末には諸説あり、屋敷へ到着すると先ずは早々に出仕するよう説得したが門は固く閉ざされ説得にも応じなかったため行動に移したとしている。
伯耆志では屋敷に火は掛けられず、自身が塀の上に登ったことで縁側へと様子を見に来た安井清一郎を塀の上から射止め、城内へと連行している。(伯耆志)
続群書類従(中村一氏記)では予め屋敷に火を掛けており、安井清一郎を燻し出した所で矢を射ている。
一説に安井清一郎親子を燃え盛る屋敷の中で切腹させたとする表現も見えることから当初から殺害が目的であり、事前の説得や城への連行は考えていなかった節も見える。
伯耆志と続群書類従の出来事を合わせた伝もあり、矢傷を受けた安井清一郎が引き続き奥の間へと引き籠ったため、業を煮やして屋敷に火をかけ、炎煙に燻されて外に出てきたところを捕らえ城内にて切腹させたとする説も見える。
1609年6月12日(慶長14年5月11日)
中村一忠が死去し中村家は改易となる。
中村家の改易後は播磨国へ帰郷し隠れていたが、池田忠雄からの招きに応じて備前国へと移り、馬術師範役として800石を与えられる。
1621年(元和7年)
物頭となり御鉄砲20挺を預けられる。
備前国に在る時、備前国岡山城の普請懸を命じられる。
1632年5月21日(寛永9年4月3日)
池田忠雄が死去し、家督を継いだ池田光仲の移封に従い因幡国へと移る。
1651年(慶安3年11月)
隣家に賊徒が押し入り子供を人質に立て籠る事件が起こる。
雁股を袖に隠して賊徒の立て籠る部屋に忍び込むと弓を構え息を殺し、射撃の機会を伺い、時が来ると一射にして賊徒の首骨を絶ち人質の子供を救出している。
同月、御弓持20挺を預けられる。この頃には弓馬の達人として天下に名を轟かせたとしている。
1657年5月21日(明暦3年4月8日)
因幡国にて没する。
子が無かったため、新庄藤太夫の次子、勘左衛門(依藤長章)を養子とする。