伯耆国 会見郡
よなごじょう ないぜんまる
米子城 内膳丸
所在地
鳥取県米子市久米町
城 名
米子城 内膳丸(よなごじょう ないぜんまる)
別 名
丸山砦(まるやまとりで)…所在する丸山に因む呼称。
飯山砦(いいのやまとりで)…原初の伯耆米子城と仮定した呼称。
飯山城(いいのやまじょう)…原初の伯耆米子城と仮定した呼称。
築城主
古曳吉種…飯山の城代とする頃、中海に対する海城として登り土塁を増設と仮定する。
築城年
1467年(応仁元年)頃…原初の伯耆米子城と仮定した場合。
廃城年
不詳
形 態
丘城、海城
遺 構
石垣※、登り石垣、郭跡、切岸、虎口
※1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)にかけて石垣の修復を実施
現 状
山林、丘陵、公園
備 考
市指定文化財(昭和52年指定)※本丸、二の丸、内膳丸のうち民有地を除く市有地部分。
国指定文化財(平成18年1月26日指定)※米子城跡として
縄張図
内膳丸略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)米子城略測図より抜粋) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)
中村記
泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊(慶長7年)
新鳥取県史 資料編 近世Ⅰ 東伯耆(平成24年3月鳥取県立公文書館県史編さん室)
年 表
1467年
応仁元年
当城が飯山城であればこの頃、或いはこれ以前の築城が推定される。
1575年
天正3年
京都より薩摩へと戻る島津家久の一行が米子を通過したとある。(中書家久公御上京日記)
「よなこといへる町」とする記述のみで城砦については触れられていない。
1569年~1592年
永禄12年~天正20年
1598年
慶長3年
米子港の整備が始まったとされる。
1601年
慶長6年
吉川広家が岩国へ移封となる。
転封の際に登り石垣の頂部や飯山の居館などを破壊したとする説が見える。
1602年
慶長7年
1603年
慶長8年
1667年
寛文7年
城郭西北部の外郭を修繕。
1880年頃
明治13年頃
石垣を残して城山の建造物が全て取り壊される。
概 略
伯耆国米子城の主郭から北側に下った丸山に所在する。
古くは山の名に由来する「丸山砦」とする呼称も見えるが、慶長年間に米子城と併せて横田村詮が改修を行ったことを由縁に「内膳丸」の呼称が一般的となっている。
縄張は西側の中海側には横矢、北側の湿地帯には亀島(現在の清洞寺岩周辺)を前線水軍基地とした防御が意図されており、横田村詮が改修を行う以前より重要な城砦の所在が推測されることから丸山に所在した城砦が米子城の前身、伯耆国飯山城と仮定する根拠のひとつとする。
横田村詮の改修により武器庫(武具、火薬など)と見張櫓が配置され、横田氏が管理を担ったとされる。
南方向には米子城の主郭北側直下の遠見張へと登り石垣で接続され、東側には山下通路によって二ノ丸との連携が図られている。
一部の絵図では登り石垣は遠見櫓まで繋がらず意図的に切られた作図が成されていることから門跡、或いは誘引のための袋小路が設けられていた可能性がある。(武者溜まり、或いはどん詰まりと考えられる平場が見える)
1603年(慶長8年)、横田村詮の暗殺を発端にした中村騒動(横田騒動)が勃発し、横田方の籠もった飯山城は騒動の後に見せしめとして徹底的な破壊が行われたと推定されているが、米子城の絵図を見る限り当城の施設の一部(櫓、土塀)は江戸時代後期まで存続していることがわかる。
飯山城(采女丸)の破壊は内乱後の見せしめではなく、横田氏の政敵で暗殺の黒幕とも囁かれる野一色氏への報復として騒動の最中に破壊されたとも仮定できる。
伯耆民談記では横田勢が立て籠もったのは二ノ丸の居宅とされ、中村方の部隊は内膳居宅の表口から、堀尾方の部隊は裏口となる台所口を取り囲み鉄砲を打ち出したとしている。
続いて丸山を飯山城と推定する根拠には以下を挙げる。
① 1471年(文明3年)の境松合戦の撤退戦からの考察。
境松合戦に敗れた伯耆山名氏の軍勢が当城へ退却し立て籠もったことが記されている。(出雲私史、出雲私記)
丸山は陸上城域の北限・西限に立地しており、北の湿地帯に対しては亀島を前線の城砦、或いは緩衝帯として利用が出来る。
西の中海方面(海上)からの追撃に対しても出山との連携を維持できる限りは深浦側の防御も取りやすい。
逆に飯山城へ籠もり、丸山が敵方に取られた場合、深浦の港が押さえられることで亀島、粟島、萱島の諸港との連携も絶たれる上、陸上の橋頭堡まで与えてしまうこととなり戦術的には下策となる。また、海路からの援軍が封鎖されることで士気の低下も避けられない。(出雲勢に連戦連敗したことを考えると指揮官の能力が足りず無策で飯山城へ籠もった可能性も考えられるが…)
湊山(お立山)への米子城の築城以前、永禄~天正年間頃は吉川氏の代官として古曳吉種が6万石(3万石の異説あり)を拝領し飯山城に在城している。古曳吉種は築城の名人とされ、前任地の伯耆国石井城(石井要害)では周囲に水濠を配した水砦を、伯耆国戸上城では日野川水系の法勝寺川(尻焼川)を川濠に利用し、東側の丘陵に登り土塁を配した水濠城砦を築いている。(牧野家文書などより推測)
石井城や戸上城で培った登り土塁など海城の技術を飯山城(現在の米子城)へ取り入れ、中海側(西方)の防衛力強化に利用したことが推測される。
古曳吉種は文禄の役にも参加していることから朝鮮半島に残る倭城の登り石垣は朝鮮での造作が発祥ではなく、古曳吉種などによって既に国内の一部で考案されていた施設であった可能性も考えられる。(登り土塁を石垣造りへの改修)
文禄の役では吉川方で築城技術に長けた山縣春佳も参加しており、この2将が朝鮮半島での築城方式に影響を与えた可能性も考えられる。
登り土塁の造作が朝鮮より撤兵した吉川氏による事業であれば普請は山縣春佳によるものと推定され、吉川氏は既に石垣の建造技術を有していたことから登り土塁と石垣を併せた原初の登り石垣が吉川氏による造作とする考察もできそうである。
更に後の横田村詮の改修を以て現在の形に近い登り石垣へ変化した可能性も考えられる。
③ 豪円がお立山を湊山と名付ける以前は飯山、丸山、出山の全てを総称して飯山と呼称した。
豪円(当時は円智を称する)が湊山を命名するまで丸山も飯山と呼ばれたため、当城域を「飯山の城」と総称することができる。
お立山は古来より入山が制限、禁止された山であり、古曳吉種が築城を始めるまで現在の米子城の主郭周辺(湊山)に本格的な城砦が所在したとは考えにくい。
①で記述のように戦略拠点としての立地を鑑みると中海方面に対する海城としての機能を集中する場合は当城が適当と推測される。
④ 1575年(天正3年)6月の中務大輔家久公御上京日記では米子の町から城郭が確認できなかったことが判る。
中世の山城は比高の一番高い場所に主郭を置くのが一般的とされる。
定石に倣えば当城が所在した丸山は現在の飯山や湊山に比べ比高は低いため、内膳丸に主郭を置いたとする仮説は否定される。
しかし③で記述の通り湊山については入山禁止であったため、引き続き城砦が所在した可能性は低い。
飯山については1575年(天正3年)~1591年(天正19年)にかけて新たな城砦の築城が考えられるが岩盤地質の性質上、飲み水の確保、物資運搬の接続の悪さに課題が残る。
湊山は凡そ内膳丸程度の高さからは湧き水が至る所から湧き出る。
兵糧庫は現在の二ノ丸(三ノ丸の説もあり)にあったとされるが、当城からは東の山下通路を通れば難なく二ノ丸を抑えることができる。
⑤ 米子城騒動(横田騒動)で中村方の兵だけでは鎮圧できなかった⇒予め武器庫を制圧される。
「徳川実紀」及び「藩翰譜」では中村騒動で横田方は飯山に籠もったと記述が見える。
④で記述の通り飯山城に籠もった場合、将兵の質と数、武具兵糧の物量で勝る中村方が鎮圧できない理由が乏しくなる。
冬であり、兵糧も二ノ丸(或いは三ノ丸)に備蓄されていたことを考えると、二ノ丸、三ノ丸との接続の悪い飯山では相当の事前準備を講じなければ籠城戦はままならない。
横田村詮暗殺後の横田方の動きは素早く、中村方の兵だけでは鎮圧が出来なかったとするなら、先ずは武器庫を制圧したことが推測され、当城には横田氏の管理する武器庫があったとされている。
米子城の天守にも幾許かの武具や銃砲は備えていたはずだが火薬まで置くことは考えられないため制圧能力が失われていたことが考えられる。
また、二ノ丸の兵糧庫へは当城から射撃の範囲内であり、武器庫だけでなく兵糧庫も押さえられ継戦能力を殺がれていた可能性も推測される。
中村家の家臣、野一色采女が居館を置いたことから飯山城は別名に采女丸と呼ばれる。
中村一忠が伯耆国入りした1600年(慶長5年)頃、米子城周辺は松林で大名が住まうに相応しい居館は存在しないとしていることから采女丸と呼ばれる施設が完成するのは慶長5年以降と推測できる。
(一部に吉川広家の居館が建造され、岩国転封の際に破却されたとする説もある)
中村騒動では横田方が飯山城(采女丸)に立て籠もったとしているが、一説に野一色采女は横田村詮の政敵と囁かれ、騒動の発端となった暗殺事件の黒幕ともされている。
飯山籠城説を採る場合、横田方は野一色采女の居館に拠って中村方を退けたという形になるが、勝手の判らない城館に籠もり戦い続けるなら野一色氏の一族を人質に取ったことも考えられる。(但し、野一色采女は中村氏にも恨みを持っていたと推測されている)
中村騒動以降、絵図に建物の建造された形跡が図示に見えないことから、定説では横田方が籠もり叛乱を行った見せしめに破壊、放棄されたとしている。
見方に拠っては叛乱の際、横田氏の報復によって徹底的に破壊されたと考えることも出来る。
上記の考察群を以って、往古の飯山城を内膳丸と見立てる説とするが、上記考察も別面から見れば大方を覆すことが可能なため、今後も真偽問わず闊達な議論が深まることにも期待したい。
新鳥取県史 資料編 近世Ⅰ 東伯耆 大岳院由来の条 横田内膳宅之事の項
1616年5月14日(元和2年3月29日)、横田村詮の妻が内膳丸で亡くなっていることが記されている。(新鳥取県史)
見どころ
内膳丸から延びる登り石垣
内膳丸西側の石垣から米子城の主郭北側直下にある遠見櫓まで石垣と土塁が続く。
石垣が尾根伝いに高さを上げていく形状から「登り石垣」と呼ばれ、上層と下層の郭を繋ぐ防壁と通路を兼ねた防御施設のひとつ。
元来は土盛だけの「登り土塁」であったと考えられ、法勝寺川に面する伯耆国戸上城にも似た規模の登り土塁と考えられる遺構が存在する。
石垣は登るにつれ不明瞭となるが、江戸時代の絵図を頼ると高低差の表現が乏しい絵図では遠見櫓と繋がる図示、高低差を表現した絵図では繋がっていない図示が見受けられる。
吉川広家が岩国へ移る際、後任の利になるからと頂部を破壊したとする説も一時期見えたが、吉川広家が米子城に在城した記録が無いため吉川広家による破城とする説は妄言の域をでない。
西側の横矢
内膳丸は周囲を石垣で囲まれるが西側の石垣はL字状に段々となっている。
これは「横矢」「横矢掛(よこやがかり)」と伝える形状で、侵入してくる敵に対して正面と側面の2面から弓矢や鉄砲を射掛けることが可能となり、射撃範囲の拡大と死角を減少させる効果を持つ。
この形状は西側にしか見ることが出来ないため、内膳丸が中海側からの襲撃を意識して備えられた城砦であることが解る。
写 真
2013年3月23日、2016年9月24日、2016年10月10日、2017年11月5日、2018年11月24日