伯耆古城図録

よなごじょう でやまとりで

米子城 出山砦

鳥取県米子市西町

別 名

荒尾砲台場(あらおほうだいば)

遺 構

郭跡

現 状

公園、山林

城 主

(池田方)荒尾氏

築城年

不明(江戸時代後期)

廃城年

不明

築城主

荒尾氏

形 態

海城、台場

備 考

市指定文化財 昭和52年指定、国指定文化財 平成18年1月26日指定 ※米子城跡として

参考文献

米子御城平面図

史跡米子城跡保存活用計画書H29年(2017年3月 鳥取県米子市教育委員会)

縄張図

不明

 

概 略

伯耆国米子城の主郭から西側に下った出山に所在する。

城域の西限で中海に面することから、古くは中海方面を警戒する見張櫓など哨戒施設、中世は海城として前線基地、深浦に軍港が整うと連携を持って運用されたことが想定される。

 

1863年(文久3年)頃から鳥取藩による台場建造として、伯耆国内に境台場淀江台場由良台場赤崎台場橋津台場が次々と建造されているが、当砲台場は鳥取藩による建造ではなく荒尾家によって独自に築かれた砲台場としている。

 

米子も台場の建造候補地に入っていたが、鳥取藩によって建造されることはなかったようである。

尚、会見郡内の候補地は米子、粟嶋、海池、和田辺、境浦の5ヶ所が意見書に見え、境台場が採用されている。

江戸後期に記された「米子御城平面図」では中海側の突部2箇所に朱色の印があり、砲壇を有していたことが読み取れる。

 

築城は1863年(文久3年)以降が推測されるが、砲壇は絵図に記されるが設置される大砲の詳細についての記録は見えず、砲台場として完成したのか、台場防衛のための訓練、演習が行われたのかなど不明な点が多い。

廃城時期についても記録は見えない。

 

1981年~1985年(昭和56年~昭和60年)にかけ、出山頂上に展望台と休憩所が設けられ、付随する工事に拠って遺構は相当の改変を受けたことが考えられる。

 

年 表

不明

中海側に対する見張の施設が始まりと推定される。

江戸時代後期

米子城の城代、荒尾氏によって独自に台場が建造され、砲壇2基の武装を有したことが米子御城平面図の図示に見える。

地 図

 

写 真

訪城日 2018/11/24

漕艇場(西側)からの遠望

公園入口

公園入口

遊歩道

西の郭跡

西の郭跡

西の郭跡

西の郭跡

西の帯郭状の腰郭

東の郭跡

東の郭跡

東の郭跡から西の郭跡

写 真

訪城日 2017/11/05、2017/11/28

西側(漕艇場)からの遠望

北東側(駐車場)からの遠望

北西側(公園)からの遠望

公園への遊歩道

公園への遊歩道入り口

遊歩道

東の郭跡

東の郭跡から西の郭跡

西の郭跡と遊歩道

西の郭跡と遊歩道

西の郭跡

西の郭跡

西の郭跡

西の郭跡

西の帯郭状の腰郭

西の帯郭状の腰郭

西の帯郭状の腰郭

西の帯郭状の腰郭

砲壇跡とされる突部

砲壇跡とされる突部

砲壇跡とされる突部

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