伯耆古城図録

よなごじょう

米子城

鳥取県米子市久米町

別 名

湊山城(みなとやまじょう)、久米城(くめじょう)、湊山金城・湊山錦城(みなとやまきんじょう)

遺 構

石垣※、郭跡、土塁、切岸、登り石垣、横堀、竪堀、水濠、虎口、井戸、礎石、城門他

※1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)にかけて石垣の修復を実施

現 状

山林、丘陵、公園、市街地、テニスコート、湊山球場、道路、鳥取医大

城 主

(吉川方)吉川広家古曳吉種関祐諸加藤月岑

(中村方)中村一忠

(加藤方)加藤貞泰

(徳川方)古田重治一柳直盛西尾光教阿部正之

(池田方)池田由之池田由成荒尾成利荒尾成政荒尾成直荒尾成重荒尾成倫荒尾成昭荒尾成昌荒尾成煕荒尾成尚荒尾成緒荒尾成裕荒尾成富

築城年

1591年(天正19年)着工、1602年(慶長7年)完成

※異説に天正3年以降着工の説もあり

廃城年

1872年(明治5年)頃

築城主

吉川隆久(天正16年丑年から湊山に築城を開始したとされるが当人は天正九年の第二次鳥取城の戦いで戦死している。吉川元春の発案による湊山への築城計画に関係すると推測)

古曳吉種吉川広家の命を受け湊山の築城を開始とされ普請奉行は山縣春佳。小田原征伐後の普請再開説も。戸上山城石井城を元に水濠城砦としての基礎設計を行ったとする)

【小天守:型不明(1596年)⇒後の独立式望楼型三重四層の四重櫓】

吉川広家古曳吉種に命じ城郭、城下町の基礎整備を指示。三重天守は完成とある。

【大天守:独立式望楼型四重五層(1602年)】

中村一忠横田村詮と共に四重五層天守などの建造、城郭を完成させ城下町も整備)

形 態

梯郭式平山城、海城

備 考

市指定文化財 昭和52年指定、国指定文化財 平成18年1月26日指定

参考文献

伯耆志

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

萩藩閥閲録(吉川家文書、戸田幸太夫覚書など)

泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊(慶長7年)

因伯記要(明治40年5月 鳥取県)

復刻発刊 因伯記要(昭和56年1月 ㈱矢谷印刷)

米子毎夕新聞(昭和8年3月 山陰毎夕新聞社)※写し

百年の鯉(昭和33年4月 火野葦平 筑摩書房)

成実の歴史(昭和61年3月25日)

縄張図

米子城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

1591年(天正19年)、 豊臣秀吉より出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国の14万石(西伯耆、出雲、備後など12万石とも)を認められ、出雲国月山富田城を本城とした吉川広家であったが月山富田城は交通の便が悪く、特に冬は雪も深く、円滑な雲伯統治を行うためには新たな政庁が必要と幾つかの候補地から当地を選び、吉川氏の代官であった古曳吉種に命じて湊山へ築城を始めた城郭が当城の始まりとされる。(当城の前身とされる飯山の城砦については伯耆国飯山城の項に記載)

 

月山富田城が政庁として向かないことは吉川家の家臣団からも意見が上がっており、後の出雲国松江城の城主、堀尾吉晴月山富田城は辺鄙で出雲国の支配に不便とし、松江城を新たに築城し移っている。

 

伯耆民談記 巻之二 都邑之部

一、米子 会見郡勝田庄にあり。湊山久米の城と號す。西の尾崎を内膳丸と名付け、東の方飯の山を采女丸と名つく。本丸の左右にして掎角の勢をなせり。本丸に五重の天守閣、四重の櫓あり。此丸に城主の殿閣を建て城壁貳百間餘り三門を開けり、今は二門あり。堀は二重にして其間に侍の小路を割り当て、市町は廓外に連綿として立並ひ諸寺院は浜辺に甍を並べて建てり。或説に当城は小鷹の城を転じてこの地へ移すともいひ、又倉吉打吹山の城を此地へ引移せるなりとも云ふ。久米の城と名つくるは其故なりと。

 

(略)当城、古へは飯の山を本城として湊山へは外廓の如く構えしと見えたり。(略)

 

(略)天正十六年丑年吉川式部少輔隆久始めて湊山に本城を築き、同十八年従小田原役打捨をかれしを慶長四亥年吉川蔵人佐広家再興し、翌年関原役に吉川南条相共に上方へ一味し、家康公へ逆心ありしに依て領地悉く召上られ、同六年中村伯耆守忠一へ当国一円を賜ひ米子を以て居城とせしむ。

 

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)では湊山への築城主を吉川隆久としている。

築城の開始を天正十六年丑年(1588年11月15日以降)とするが、吉川隆久は1581年(天正9年)11月の第二次鳥取城の戦いで自刃しているため故人の名が挙げられる意図は不明だが、早い段階で設計に関るなど功績があった可能性も推測される。

 

1590年(天正18年)には小田原征伐のため一時的に普請が中断し、1591年(天正19年)に吉川広家月山富田城へ戻ると普請を再開とある。

 

伯耆民談記では吉川広家の父、吉川元春の頃(天正年間)から出雲国月山富田城を本城とする湊山への築城計画が進んでいたことが記述に見え、代官として古曳吉種飯山城に在城、湊山に城砦が完成すると古曳吉種は当城へ移ったとある。

完成した湊山の城砦に古曳吉種が移ったとする記述は居館か四重櫓(後の小天守)が推測され、吉川広家が岩国へ移封となる頃には城郭の七割と天守のみ完成とする説の補強となっている。

 

吉川元春が築城を開始したとする説を採る場合、島津家久の伊勢参詣道中記を記した「中務大輔家久公御上京日記」では伯耆国尾高城の存在は明記されているが、米子には町の存在を伺わせるものの城砦について一切触れられておらず、存在の確認ができないことから1575年(天正3年)6月以降の築城開始が推測される。

 

中務大輔家久公御上京日記(1575年(天正3年)6月21日)

「廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ軈而大仙に參、其より行て緒高(尾高)といへる城有。其町を打過、よなこ(米子)といへる町に着、豫三郎といへるものの所に一宿」

 

伯耆民談記 湊山城の条

「昔は此山に城なくして飯ノ山にあり。古戦書に云ふ米子城は多くは飯山城の事也。当城は吉川元春天正年中に雲州富田を本城として築き玉へる処の城也と云ふ。故有て湊山久米城と云ふ。山名治部大輔之秀飯山城に於いて自害し、其の後吉川領と成りて(吉川)元春代官として古引長門守吉種暫く在城す」

 

古曳吉種飯山城から米子城へ移る記述に於いては現在の飯山(英霊塔の屋敷跡)から湊山(米子城本丸旧天守)へ移ったとするかは不明。伯耆民談記の記述を頼れば飯山の城砦は湊山(お立山)を除いた飯山(当時は現在の飯山、湊山、丸山、出山を総称して”飯山”と呼称していた)の何れかに城郭が所在したと推測される。(湊山の名称は築城の際、大山寺の僧、豪円によって名付けられたとしている)

 

伯耆民談記 古引長門守吉種米子居城並本教寺草創事の条

山名治部大輔之秀亡命の後、元春より飯山へ据え置かれ。其後、湊山他成りて飯山を転じて湊山に在城す。広家の下知にて伯州代官となり食地六万石を賜ふ」

 

郷土史「成実の歴史」(昭和61年発行)では古市の牧野家に伝わる「牧野家古文書」などの引用から古曳吉種を築城に長けた人物と評しており、自身の居城で水濠を利用した伯耆国石井城石井要害)を参考に、当城の築城についても同じく水濠要塞としての設計を行なったとしている。

近年発掘された登り石垣の存在からも水軍の運用を想定した海城であったことが推測できる。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いへと臨む際に6割の兵を城下に集めたことが記されており、1598年(慶長3年)から整備が行われたとする深浦の軍港など軍事拠点が整っていたことも読み取れる。

この時に集められた兵員は約3,000名とされ、会見郡周辺には5,000名程度の毛利軍が駐屯していたことも判る。

但し文書には直接”米子城”と明記する記述は見られず、兵卒を束ねた指揮官も不明だが推定では普請奉行の山縣春佳が推測される。

 

関ヶ原の戦いへの従軍による普請奉行の山縣春佳が不在となると祖式長好が普請を引き継ぎ、住民6,000人を動員するなど築城作業は中断せず進められていたようである。

 

天守や城郭の築城に当たっては伯耆国倉吉城打吹城)や尾高城(或いは伯耆国小鷹城)から移築したとする伝承もあるが、建材を再利用した程度に留まると推測される。

別名に「久米城」と呼ばれる所以としては久米郡の伯耆国岩倉城の天守を移築したとする伝承や難工事のため人柱となった村娘の名前を由縁とする伝承が見える。

 

関ヶ原の戦いの戦後処理に於いて吉川広家は岩国へ転封となる。

この時の築城の進捗状況について戸田幸太夫は城郭が7割程度完成、城下町については14町の町割を計画していた段階であると記述している。(戸田幸太夫覚書)

町割りについての記述は計画段階と解釈できることからこの頃の吉川氏による城下町の形成・成立は考え難く、尾高城岩倉城の町民のが誘致され14町の城下町が既に成立していたとする説には疑問が残る。

尚、以前より現在の灘町周辺にはいくつかの漁村が存在していたことが伝えられる。

 

また、近年では城主として吉川広家の名前が見えるが、これは雲伯領主として広義の意味であり、吉川広家が当城に入ったとする記録は現時点で一切確認できない。

(米子の昔話に伝えられる飯山の白蛇(城蛇)伝説に吉川広家の娘が米子城下に住んでいたとするが、西伯耆で吉川氏の館の存在は明言も確認もされておらず、飯山に蛇が多く棲んでいた話に蛇足的に付け加えられた創作話と考える)

吉川氏の統治下では伯耆国の代官で3~6万石を拝領した古曳吉種を城主、城代とする記述が見える。

 

吉川氏の移封後、関ヶ原の戦いの功績により駿府から中村一忠が伯耆国へ入ると家老の横田村詮と共に建設途中であった城郭と城下町の整備を行い、1602年(慶長7年)に完成とある。

中村家の執政家老であった横田村詮は城下町の整備に傾注し、この頃に伯耆国内各城下から有力な商人などが集められ城下町を形成したと推測される。

吉川氏の頃に完成とする四重櫓(小天守)も中村一忠横田村詮による改築・改装とする考察もあり、石垣のみ吉川氏の遺構と推定している。

中村氏以降の別名で湊山錦城(或いは金城)と記述されが、これは中村一忠の新造した天守が摂津国大坂城を模した姿(劣化コピーと酷評される)となっており、「湊山(伯耆)の大坂城」と誇るため大坂城の別名である金城、或いは錦城を記したと考えられる。

(「金城」は難攻不落も意味するが、当城が篭城戦に適した城とは到底考えられないため大坂城の別名が適当と考える)

徳川氏の治世に於いて豊臣家のシンボルである大坂城の別名を敢えて記していることから堺方面との交易が活発であったことも伺わせる興味深い記述である。

 

中村氏の頃、当城は現在に近い形へと整えられたようで城砦は湊山頂上の本丸、北東山腹の二ノ丸(現:テニスコート)、北東山麓の三ノ丸(現:湊山球場)、北尾根の内膳丸(丸山)、国道9号線を挟んだ東の飯山(現:英霊塔)、西の出山などで構成されている。

加茂川を利用した外堀、中海から海水を引き込んで作られた内堀の二重の堀は防衛力強化を図りつつ、同時に城下町流通の効率化をも図った設計がなされており、横田村詮が前任地の駿府で培った城下町整備の手腕が存分に発揮されている。

本丸や内膳丸の石垣を始め、内膳丸から遠見櫓へ伸びる登り石垣、南東の桝形虎口、鉄御門や裏御門など多くの遺構や痕跡が残る。

 

1609年(慶長14年)5月、中村一忠の急逝により中村家は断絶。

同年8月、検使として朝比奈源六郎久貝忠三郎弓気多源七郎が、城の引き取りのため古田重治一柳直盛が代官として幕府より遣わされ在番している。

同年10月からは西尾光教が城番へと任じられている。

 

1610年(慶長15年)、大坂の陣の功績により加藤貞泰が六万石で移封。

 

1617年(元和3年)、加藤貞泰が伊予国大洲へ移封となり、同年7月25日より阿部正之が監使として在番、加藤貞泰から城を受け取っている。

 

以降は池田氏の統治となり池田由之池田由成が在番。

1632年(寛永9年)から家老の荒尾氏が代々当城を管理したとされる。(1631年(寛永8年)からとする説もあり)

荒尾氏の頃、大手門は南に所在したと因伯記要に記述が見える。

 

1872年(明治5年)に廃城となり、1880年(明治13年)頃までに石垣を残して建物は取り壊されたとある。

 

取り壊された建物は風呂の薪にされたと広くに語られるが、この話は1933年(昭和8年)3月から数日に渡って米子毎夕新聞に掲載された「米子城捨売り秘話」が初見であり、新聞という媒体で多くの市民の目に止まったことから一説として語られ始めたと考えられる。

 

1958年(昭和33年)4月に発行された火野葦平の小説「百年の鯉」に「蛇體新助」という話が収録されており、城の材木を風呂屋へ薪として売り払った話が描かれている。この話は米子城捨売り秘話との共通点が多く元になったと考えられ、作者の火野氏も創作であると語ったとされる。

この本の発刊された頃から米子城が風呂の薪にされた話が急速に広まり「米子城の材木全てが風呂の薪になった」という説が定説化したものと推測される。

 

建物については大天守の望楼が風雨により腐食し戸板で覆われていたこと(現存する古写真より)からも管理は悪く、風雨で朽ち再利用に耐えない建材については燃やされたと考えるのが自然である。風呂屋の薪以外にも暖を取るため道端で燃やされたとする古老の話も伝わる。

使える建材(資材)は極力再利用する古くからの精神は明治時代も受け継がれていたことが伝わっており、現在に語られる全ての木材が風呂屋に売られ薪にされたとする説は当時の風習と照らし合わせても合致しない。

現在も米子市や南部町の古民家や商店の柱や梁、寺の山門や日吉津村の個人宅に移築された門など米子城の建材を転用したと伝わる造作物が残っている。(嘘か真か不明ながら、近年その数が増えつつある)

 

見どころ

内膳丸から延びる登り石垣

内膳丸から主郭直下へと繋がる登り石垣。

頂上部の接続の有無は不明ですが、武者溜りのような平削地と思われる平坦地が見えることから接続はされていなかったことが考えられます。

敢えて接続しないことで下から見上げた際、入り口と錯覚した敵兵を誘引し、武者溜りの伏兵で討つ構造が考えられます。もちろん接続されていた可能性もあり、堅牢さを見せることで攻めてくること自体を牽制したことも考えられます。

一部に吉川広家が転封の際に頂上部を破城したとする説もあるようですが、同じ規模を破壊するのであればもっと重要な部分(現在の門跡付近など)を破壊すると思われるので、頂上部は自然崩壊と思われます。

桝形

築城時期が不明な桝形です。

普請された位置から二ノ丸御殿を守るための施設と考えられます。

現在は球場などが埋め立てにより嵩上げされているため本来の高低差が体感できず、防御力の高さや有用性がいまいち認識し難いですが、推定される数メートルの高低差が出る場合、堅牢な防衛施設であると見直されそうです。

天守台

2基の天守台を備えたことが判ります。

当初から2基を並べる設計ではなく、吉川氏が政庁として建てた旧天守を中村氏が覆い隠すような配置で新天守を建てたとする政治的な駆け引きがあったことも推測されます。

大天守直下の腰郭は古絵図には見られず、元々は高石垣であったものがいつの時代かで段々に分割されたようです。

大横堀

天守台に対して垂直配置になっていることから一部に竪堀と呼ばれ、十分な議論が進まないうちに呼称が定着してしまいました。

普請時期が判らないうちから竪堀としてしまうのは拙速で、古曳氏が城代の頃の遺構であれば浄昌寺に対する横堀となります。

城下町の眺め

米子市内が一望できます。

空気の澄んだ晴れの日に登城されることをおススメします。

年 表

1575年

天正3年

京都より薩摩へと戻る島津家久の一行が米子を通過したとある。(中書家久公御上京日記)

「よなこといへる町」との記述が見え、この頃の米子に「町」が形成されていた根拠とされる。

 

別説では中村一忠が移封された頃の米子は松林が広がる未開の地であり、大名が住めるような居館どころか町すら無かったとされる。そのため城が完成するまでの間、中村一忠は伯耆国尾高城に居城したとある。(中村記、泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊)

1588年

天正16年

天正16年丑年(1588年11月15日以降)、吉川隆久によって湊山へ築城が開始とある。(伯耆民談記)

1590年

天正18年

小田原征伐のため普請が中断。(伯耆民談記)

1591年

天正19年

小田原征伐より帰陣した出雲国月山富田城の城主、吉川広家古曳吉種に湊山への築城を命じている。普請奉行は山縣春佳

同年12月、吉川広家が米子の城下町を14の区に区切ったとする説がある。

※この説は1575年(天正3年)に既に町が存在した場合が考えられる。

1592年

天正20年

吉川広家古曳吉種とともに唐入りのため朝鮮半島へ出征。

城代であった古曳吉種に代わり関祐諸加藤月岑を城番に任じている。(伯耆民談記)

朝鮮半島の戦場にて古曳吉種は戦死。

1598年

慶長3年

吉川広家月山富田城へと戻り中断していた湊山の築城が再開とある。普請奉行は祖式長好

同時に米子港(深浦)の整備も始まったとされる。

1600年

慶長5年

9月15日、関ヶ原の戦いが始まる。

毛利輝元が総大将を務めた西軍は敗れるが、西軍に属し東軍へ内通していた吉川広家は主家の毛利家改易を回避するが岩国(三万石)へ減封となった。

吉川広家が去るまでに築城の進捗具合は7割程度で天守(四重櫓)は完成、城下町の町割りは14町を計画している段階とされる。(吉川家文書「戸田幸太夫覚書」)

 

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国の領主となる。

1601年

慶長6年

吉川広家が岩国へ出発。

伯耆国を去る前、伯耆国七尾城の麓に鎮座する阿陀萱神社へ城主として寄進を行っている。(阿陀萱神社由緒書)

移封の際に当城の石垣など一部を破壊した説を唱える発表もある。

1602年

慶長7年

中村一忠、家老の横田村詮と共に建造途中であった城砦と御殿を完成させ、それまで居城としていた尾高城から当城へ移っている。

同時に米子港や加茂川の整備、城下町を整え商都米子の礎を築く。

1603年

慶長8年

中村一忠横田村詮を誅殺。

横田村詮の子、横田主馬助を総大将に横田家の遺臣二百余名と客将の柳生宗章らが飯山城に立て籠もり抵抗。(米子城騒動)

中村一忠の救援要請を受けた月山富田城の城主、堀尾忠氏堀尾忠晴親子の援軍が到着すると翌日に騒動は鎮圧された。

※横田勢が立て籠もったのは丸山の内膳丸とする説も。

1604年

慶長9年

中村一忠の側近、安井清一郎天野宗把は騒動の首謀者とされ、一切の取調べもなく反逆罪として即刻切腹を命じられた。※天野宗把は打ち首。

同じく正室の世話係であった道家長左衛門道家長兵衛も役務怠慢の咎により江戸にて切腹に処された。

中村一忠は品川宿止めの謹慎に留まり、お咎め無しとされる。

1609年

慶長14年

5月11日、中村一忠、20歳(史料によっては19歳)で急逝。中村家は嫡男無しとして改易。

8月、中村一忠の死因の検使に朝比奈源六郎久貝忠三郎弓気多源七郎が、城の引き取りに古田重治一柳直盛が当城に在番とある。

10月、西尾光教が城番に任じられている。

1610年

慶長15年

美濃国黒野城の城主、加藤貞泰が大坂の陣の戦功として米子に転封。

1615年

元和元年

幕府の一国一城令により当初は因幡・伯耆両国で一城とされていたが因幡・伯耆それぞれに一城が認められ米子城は破却を免れている。(例外的な措置であったと云われる)

1617年

元和3年

加藤貞泰、伊予国大洲に転封。

 

7月25日、江戸幕府の命により阿部正之が監使として伯耆国入り。

加藤貞泰から城を受け取り在番とある。(西伯郡自治史)

 

伯耆・因幡の全てが池田光政の所領となり、池田光政の一族、池田由之が米子城預りとなる。

1618年

元和4年

3月、池田由之が怨恨から大小姓の神戸平兵衛に殺害される。

神戸平兵衛は切腹、平兵衛の子も死罪となった。池田由之の子、池田由成が米子城預りとなる。

1632年

寛永9年

池田光政の岡山国替により池田光仲が鳥取藩主となる。

家老で下津井城主の荒尾成利が米子城預りとなり、弟の荒尾成政を派遣し城の管理をさせる。

1652年

承応元年

鳥取藩主、池田光仲との対立から荒尾成利は隠居を命じられ、荒尾成直(二代目)が米子城預りとなる。

1665年

寛文5年

堀の防衛機能に害を及ぼす(埋没の恐れ)とのことから、内堀への柴積船の入船が禁止される。

1667年

寛文7年

城郭西北部の外郭を修繕。

1679年

延宝7年

荒尾成重(三代目)が米子城預りとなる。

1692年

元禄5年

荒尾成倫(四代目)が米子城預りとなる。

1697年

元禄10年

大風により本丸の四重櫓が1尺5寸(約45cm)程度傾く。

1720年

享保5年

三ノ丸の米蔵の約半数を修理。

1734年

享保19年

荒尾成昭(五代目)が米子城預りとなる。

1747年

延享4年

荒尾成昌(六代目)が米子城預りとなる。

1748年

寛延元年

荒尾成熈(七代目)が米子城預りとなる。

1763年

宝暦13年

米子城修覆米積立法を制定。

1787年

天明7年

荒尾成尚(八代目)が米子城預りとなる。

1796年

寛政8年

城下外郭筋堀の埋没解消のため浚渫を行う。以後、富豪町人が受注。

1806年

文化3年

伊能忠敬が米子町測量を行うも米子の役人(荒尾家の家人)が城郭内の測量を拒否。(第一次測量)

1813年

文化10年

伊能忠敬隊の第二次測量が行われる。第一次測量の時とは一転、藩を上げて歓迎している。

1818年

文政元年

荒尾成緒(九代目)が米子城預りとなる。

1851年

嘉永4年

荒尾成裕(十代目)が米子城預りとなる。

1852年

嘉永5年

四重櫓とその石垣が鹿島家の出資により大修理が行なわれた。

1867年

慶応3年

荒尾成富(十一代目)が米子城預りとなる。

1869年

明治2年

2月に荒尾成富が自分手政治の廃止を通告。

5月に朝廷より米子城返上の命令が下り、8月に当城を藩庁へ引き渡しが行なわれた。

1872年

明治5年

この年に廃城が行なわれ、城は城山ごと大四大隊の士族小倉直人らに無償で払い下げられた。

1873年

明治6年

城内の建物類が切り売りされ始める。

1875年

明治8年

士族らが城の維持に窮し、土地・建物を当時の金3,500円で米子町に買取を要請するも買い手はつかず不成立となり、引き続き切り売りが行われる。

1876年

明治9年

9月、山本良種が米子で写真業を開業。

1879年

明治12年

尾高町の古物商山本新助が当時の金37円(30円とも)で買い取ったとされる。

この金額は天守建物に残った建材(鉄、真鍮、木材)のみの査定額とされ、山本新助は建材の売却で利益を得ている。

(諸説あるが明治9年、明治13年の出来事であったともされる)

1880年頃

明治13年頃

石垣を残して全ての建造物が取り壊される。

地 図

写 真

訪城日 2013/03/23、2016/09/24、2016/10/10

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