伯耆国 会見郡
よなごじょう
米子城
所在地
鳥取県米子市久米町
城 名
米子城(よなごじょう)
別 名
湊山城(みなとやまじょう)…所在する湊山の山名に因む。
湊山錦城(みなとやまきんじょう)…摂津国大坂城の別名を冠する。山陰の堺(商都大坂)であることを誇った呼称と推測される。
湊山金城(みなとやまきんじょう)…難攻不落の城砦を意味するが摂津国大坂城の別名や「錦城」に対する当て字と推測される。
築城主
【小天守:型不明(1596年)⇒後の独立式望楼型三重四層の四重櫓】
吉川広家(古曳吉種に命じ城郭、城下町の基礎整備を指示。三重天守は完成とある)
築城年
1575年(天正3年)…吉川元春の指示により築城開始とある。中務大輔家久公御上京日記から同年6月以降と推定。(伯耆民談記、中務大輔家久公御上京日記)
1588年(天正16年)…吉川隆久による築城開始とある。天正16年丑年とすることから同年11月頃と推定。(伯耆民談記)
1599年(慶長4年)…小田原征伐から出雲国へと戻った吉川広家によって築城が開始されたとする。(中村記)
廃城年
1869年(明治2年)…5月の朝廷への返上を以て廃城とする。
1872年(明治5年)…大四大隊への払い下げを以て廃城とする。
形 態
梯郭式平山城、海城
遺 構
石垣※、郭跡、土塁、切岸、登り石垣、横堀、竪堀、水濠、虎口、井戸、礎石、城門他
※1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)にかけて石垣の修復を実施。
現 状
山林、丘陵、公園、市街地、米子城跡三の丸広場、テニスコート、湊山球場※、道路、鳥取医大
※令和2年9月22日をもって廃止。
備 考
市指定文化財(昭和52年4月1日指定) ※本丸、二の丸、内膳丸のうち民有地を除く市有地部分。
国指定文化財 史跡(平成18年1月26日指定)
国指定文化財 史跡(令和3年3月26日追加指定)※旧湊山球場部分。
縄張図
米子城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
毛利
吉川
吉川広家
出雲、伯耆、安芸、隠岐14万石(西伯耆、出雲、備後など12万石)の領主とする広義での城主。
吉川氏の代官として城番を務めた。
古曳吉種の朝鮮出兵に伴い城番を命じられた部将のひとり。
古曳吉種の朝鮮出兵に伴い城番を命じられた部将のひとり。
城 主
中村
初代城主。
城 主
加藤
加藤貞泰
二代目城主。
城 主
徳川
中村家の改易に伴い城を引き取り在番した部将のひとり。
中村家の改易に伴い城を引き取り在番した部将のひとり。
西尾光教
中村家の改易後、加藤貞泰が伯耆入りするまで在番する。
加藤貞泰の移封に伴い幕府から派遣され在番する。
城 主
池田
池田光政の因幡、伯耆移封に伴い城番となる。
池田由成
城 主
池田
荒尾
初代城代とされるが実際は弟の荒尾成政が城代の役目を務める。
荒尾成政
2代目の城代。
3代目の城代。
4代目の城代。
5代目の城代。
6代目の城代。
7代目の城代。
8代目の城代。
9代目の城代。
10代目の城代。
11代目の城代。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
因伯記要(明治40年5月 鳥取県)
復刻発刊 因伯記要(昭和56年1月 ㈱矢谷印刷)
出雲私史(明治25年7月 博広社出版部 桃好裕)
出雲文庫第三編 和譯出雲私史(大正3年9月、大正13年9月第2版)
中務大輔家久公御上京日記(1575年(天正3年)6月21日)
萩藩閥閲録(吉川家文書、戸田幸太夫覚書など)
雲陽軍実記[河本隆政 著](明治44年11月 松陽新報社)
中村記[全](昭和44年7月 稲葉書房)
中村記[弐](昭和49年6月 稲葉書房)
米子毎夕新聞「米子城捨売り秘話」油木熊次郎談(昭和8年3月 山陰毎夕新聞社)※写し
郷土研究 第一輯(昭和8年4月 鳥取縣女子師範學校)
百年の鯉(昭和33年4月 火野葦平 筑摩書房)
わが郷土 米子とその周辺の郷土誌(昭和58年1月)
成実の歴史(昭和61年3月25日)
泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊(慶長7年)
年 表
1575年
天正3年
京都から薩摩へと戻る島津家久の一行が米子を通過したとある。(中書家久公御上京日記)
「よなこといへる町」との記述が見え、この頃の米子に「町」が形成されていた根拠とされる。
異説には中村一忠が移封された頃の米子は松林が広がる未開の地であり、大名が住めるような居館どころか町すら無かったとされる。そのため城が完成するまでの間、中村一忠は伯耆国尾高城に居城したとある。(中村記、泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊)
1588年
天正16年
天正16年丑年(1588年11月15日以降)、吉川隆久によって湊山へ築城が開始とある。(伯耆民談記)
1590年
天正18年
小田原征伐のため普請が中断とする。(伯耆民談記)
1591年
天正19年
小田原征伐より帰陣した出雲国月山富田城の城主、吉川広家が古曳吉種に湊山への築城を命じている。普請奉行は山縣春佳。
同年12月、吉川広家が米子の城下町を14の区に区切ったとされる。
※この説は1575年(天正3年)に既に町が存在した場合が考えられる。
1592年
天正20年
1598年
慶長3年
吉川広家が月山富田城へと戻り中断していた湊山の築城が再開とある。普請奉行は祖式長好。
同時に米子港(深浦)の整備も始まったとされる。
1600年
慶長5年
9月15日、関ヶ原の戦いが始まる。
合戦は西軍が敗れ毛利輝元が総大将であったことから毛利家は改易の危機に直面するが、東軍へ内通していた吉川広家は自身が岩国(三万石)へ減封となることで毛利家の改易を阻止している。
吉川広家が去るまでに築城の進捗具合は7割程度で天守(四重櫓)は完成、城下町の町割りは14町を計画していた段階であったとされる。(吉川家文書「戸田幸太夫覚書」)
1601年
慶長6年
吉川広家が岩国へと出発。
伯耆国を去る前、伯耆国七尾城の麓に鎮座する阿陀萱神社へ城主として寄進を行っている。(阿陀萱神社由緒書)
移封の際に当城の石垣など一部を破壊したとする説を唱える発表もあるが未検証で真偽は不明。
吉川広家の退去後、関ヶ原の合戦での論功行賞として中村一忠が伯耆国の領主となる。
1602年
慶長7年
1603年
慶長8年
横田村詮の子、横田主馬助を総大将に横田家の遺臣二百余名と客将の柳生宗章らが飯山城に立て籠もり抵抗したため内乱となる。(米子城騒動)
中村一忠の救援要請を受けた月山富田城の城主、堀尾忠氏、堀尾忠晴親子の援軍が到着すると翌日に騒動は鎮圧された。
※横田勢が立て籠もったのは丸山の内膳丸とする説も。
1604年
慶長9年
中村一忠の側近、安井清一郎、天野宗把は騒動の首謀者とされ一切の取調べもなく反逆罪として即刻切腹を命じられた。※天野宗把は打ち首。
同じく正室の世話係であった道家長左衛門、道家長兵衛も役務怠慢の咎により江戸にて切腹に処された。
中村一忠は品川宿止めの謹慎に留まり、お咎め無しの沙汰となる。
1609年
慶長14年
5月11日、中村一忠が20歳(史料によっては19歳)で急逝。中村家は無嫡として改易となった。
8月、中村一忠の死因の検使として朝比奈源六郎、久貝忠三郎、弓気多源七郎が派遣とある。
城の引き取りには古田重治、一柳直盛が派遣され在番したとされる。
10月、西尾光教が城番に任じられている。
1610年
慶長15年
美濃国黒野城の城主であった加藤貞泰が大坂の陣の論功行賞として米子に転封となる。
1615年
元和元年
幕府の一国一城令により当初は因幡、伯耆の両国で一城とされていたが因幡、伯耆のそれぞれに一城が認められ米子城は破却を免れている。(例外的な措置であったとしている)
1617年
元和3年
3月6日、幼少であることを理由として池田光政が因幡、伯耆32万5千石で鳥取へ転封となる。
7月25日、加藤貞泰の転封に伴い江戸幕府から監使として阿部正之が派遣され、加藤貞泰から城を受け取り在番とある。(西伯郡自治史)
加藤貞泰の転封後は池田光政の一族、池田由之が米子の城を預かったと伝える。
1618年
元和4年
1632年
寛永9年
池田光政の岡山国替により池田光仲が鳥取藩主となる。
家老の荒尾成利が城代となり、弟の荒尾成政を派遣し城の管理をさせる。
1652年
承応元年
1665年
寛文5年
堀の防衛機能に害を及ぼす(土砂などの堆積による埋没の恐れ)とのことから、内堀への柴積船の入船が禁止される。
1667年
寛文7年
城郭西北部の外郭を修繕とある。
1679年
延宝7年
荒尾成重(三代目)が城代となる。
1692年
元禄5年
荒尾成倫(四代目)が城代となる。
1697年
元禄10年
大風により本丸の四重櫓が1尺5寸(約45cm)程度傾く。
1720年
享保5年
三ノ丸の米蔵(約半数)を修理。
1734年
享保19年
荒尾成昭(五代目)が城代となる。
1747年
延享4年
荒尾成昌(六代目)が城代となる。
1748年
寛延元年
荒尾成熈(七代目)が城代となる。
1763年
宝暦13年
米子城修覆米積立法が制定される。
1787年
天明7年
荒尾成尚(八代目)が城代となる。
1796年
寛政8年
城下外郭堀(外堀)埋没解消のため浚渫が行われる。以後は富豪町人が受注したとされる。
1806年
文化3年
伊能忠敬が米子町の測量を行うも米子の役人(荒尾家の家人)が城郭内の測量を拒否する。(第一次測量)
1813年
文化10年
伊能忠敬隊による第二次測量が行われる。第一次測量の時とは一転、藩を上げて歓迎している。
1818年
文政元年
荒尾成緒(九代目)が城代となる。
1851年
嘉永4年
荒尾成裕(十代目)が城代となる。
1852年
嘉永5年
鹿島家の出資により四重櫓の櫓と石垣の大規模な修理が行われた。
1867年
慶応3年
荒尾成富(十一代目)が城代となる。
1869年
明治2年
1872年
明治5年
廃城となり、城は城山ごと大四大隊の士族小倉直人らに無償で払い下げられた。
1873年
明治6年
城内の建物類が切り売りされ始める。
1875年
明治8年
士族らが城の維持に窮し、土地、建物を当時の金3,500円で米子町に買取を要請するも買い手はつかず不成立となり、引き続き切り売りが行われる。
1876年
明治9年
9月、山本良種が米子で写真業を開業する。
1879年
明治12年
尾高町の古物商山本新助が当時の金37円(30円とも)で買い取ったとされる。
この金額は天守建物に残った建材(鉄、真鍮、木材)のみの査定額とされ、山本新助は建材の売却で利益を得ている。
(諸説あるが明治9年、明治13年の出来事ともされる)
1880年
明治13年
この頃までには全ての建造物が売却或いは取り壊され、石垣を残すのみとなる。
概 略
1591年(天正19年)、 豊臣秀吉より出雲3郡、伯耆3郡、安芸1郡及び隠岐一国の14万石(西伯耆、出雲、備後など12万石とも)を認められ出雲国月山富田城を居城とした吉川広家であったが、冬は雪深く通信が遮断されるなど交通の便も悪く円滑な雲伯統治には新たな政庁が必要と考えていたとされる。
政庁となり得る候補地を幾つか検討した結果、西伯耆の代官であった古曳吉種に命じて湊山へ築城を始めた城郭が当城の始まりとされる。(当城の前身とされる飯山の城砦については伯耆国飯山城の項に記載)
月山富田城が政庁として向かないことは吉川家の家臣団から度々不満として上がっており、堀尾吉晴も月山富田城は辺鄙で出雲国の支配に不便として新たに出雲国松江城を築城している。
伯耆民談記 巻之二 都邑之部
一、米子 会見郡勝田庄にあり。湊山久米の城と號す。西の尾崎を内膳丸と名付け東の方飯の山を采女丸と名つく。本丸の左右にして掎角の勢をなせり。本丸に五重の天守閣、四重の櫓あり。此丸に城主の殿閣を建て城壁貳百間餘り三門を開けり、今は二門あり。堀は二重にして其間に侍の小路を割り当て、市町は廓外に連綿として立並ひ諸寺院は浜辺に甍を並べて建てり。或説に当城は小鷹の城を転じてこの地へ移すともいひ、又倉吉打吹山の城を此地へ引移せるなりとも云ふ。久米の城と名つくるは其故なりと。
(略)当城、古へは飯の山を本城として湊山へは外廓の如く構えしと見えたり。
(略)天正十六年丑年吉川式部少輔隆久始めて湊山に本城を築き、同十八年従小田原役打捨をかれしを慶長四亥年吉川蔵人佐広家再興し、翌年関原役に吉川南条相共に上方へ一味し、家康公へ逆心ありしに依て領地悉く召上られ、同六年中村伯耆守忠一へ当国一円を賜ひ米子を以て居城とせしむ。
伯耆民談記 湊山城之事
昔は此山に城なくして飯の山にあり。古戦書に云う米子城は多くは飯山城の事也。当城は吉川元春天正年中に雲州富田を本城として築き玉える処の城也と云う。故有て湊山久米城と云う。山名治部大輔之秀、飯山城に於て自害しその後、吉川領と成りて元春代官として古引長門守吉種暫らく在城す。然るに湊山城成て後、飯山を転じて吉種当城へ移る。蓋し吉種米子へ居ること永禄年中より文禄元年に至り、其後関備前守祐諸及び加藤左近入道月岑、次に中村伯耆守一忠居住す。伯耆守に到り城郭普請専に成就す。
中務大輔家久公御上京日記(1575年(天正3年)6月21日)
廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ軈而大仙に參、其より行て緒高といへる城有。其町を打過、よなこといへる町に着、豫三郎といへるものの所に一宿。
伯耆民談記(巻之二 都邑之部)では湊山への築城主を吉川隆久としている。
築城の開始を天正16年丑年(1588年11月15日以降)とするが吉川隆久は1581年(天正9年)11月、第二次鳥取城の戦いで自刃しているため記述の内容には一部齟齬が見られる。
吉川隆久が打吹城を攻略した後、天守閣の建物を湊町に移したことに因み別名を「久米城」と称することから吉川隆久の久米郡における一連の功績を引き続き評価されたものとも推測される。
同じく伯耆民談記には吉川広家の父、吉川元春の頃から湊山へ築城する計画が進められていたとする記述も見え、西伯耆の代官として古曳吉種が飯山城に在城し、湊山の城砦が完成した後に移ったとしている。
湊山の城砦に古曳吉種が移ったとする記述は麓の居館(二ノ丸や三ノ丸、覚応院浄昌寺)と推測され、詰めの城として四重櫓(後の小天守)の管理が行われたと考えられる。
吉川広家が岩国へ移封となる頃に城郭の七割(七つ)と天守のみ完成したとする説の補強にもなっている。
伯耆民談記 湊山城の条
昔は此山に城なくして飯ノ山にあり。古戦書に云ふ米子城は多くは飯山城の事也。当城は吉川元春天正年中に雲州富田を本城として築き玉へる処の城也と云ふ。故有て湊山久米城と云ふ。山名治部大輔之秀、飯山城に於いて自害し、其の後吉川領と成りて元春代官として古引長門守吉種暫く在城す。
吉川元春が築城を開始したとする説を採る場合、島津家久の伊勢参詣道中記を記した「中務大輔家久公御上京日記」に於いて伯耆国尾高城の存在は明記されているが、米子には町の存在を伺わせるものの城砦について一切触れられておらず存在の確認ができないことから1575年(天正3年)6月以降の築城開始が推測される。
伯耆民談記 古引長門守吉種米子居城並本教寺草創事の条
山名治部大輔之秀亡命の後、元春より飯山へ据え置かれ。其後、湊山他成りて飯山を転じて湊山に在城す。広家の下知にて伯州代官となり食地六万石を賜ふ。
伯耆民談記(古引長門守吉種米子居城並本教寺草創事の条)の古曳吉種が飯山城から米子城へ移る記述に於いて、往時に城郭が所在したと推定される現在の飯山(英霊塔の屋敷跡)から湊山(本丸旧天守)へ居館が移ったとするかは不明。記述を頼れば飯山の城砦は湊山(お立山)を除いた飯山(当時は現在の飯山、湊山、丸山、出山を総称して”飯山”と呼称していた)の何れかに城郭が所在したと推測される。(湊山の名称は築城の際に大山寺の僧、豪円によって名付けられたとしている)
通説では吉川広家の指示により古曳吉種、山縣春佳が築城を開始したのは1591年(天正19年)からとしている。
築城開始時期には諸説あり、1590年(天正18年)の小田原征伐のため一時的に普請が中断したとする説では出征以前に築城が行われていたと考えられる。
この説では1591年(天正19年)、小田原征伐から帰還した吉川広家が月山富田城へ戻り普請を再開とある。
中村記では吉川広家による築城開始時期を1599年(慶長4年)であるとしている。
普請に当たっては古曳吉種による築城が考えられている。
郷土史「成実の歴史」(昭和61年発行)では古市の牧野家に伝わる「牧野家古文書」の引用から古曳吉種を築城に長けた人物と評しており、自身の居城であった水濠を利用した伯耆国石井城(石井要害)を参考にし、当城についても同じく水濠要塞としての設計を行なったとしている。
古曳吉種は伯耆国戸上山城の城主も務めており、この城砦に登り土塁が見えることから当城の登り石垣は古曳吉種或いは山縣春佳が考案した可能性もあり、元来より水軍の運用を想定した海城として建造されたことが推測できる。
湊山への築城と併せて飯山の城砦の麓(現在の枡形からやや南東の国道9号付近)には古曳吉種の母、浄昌院の追善供養の為、日蓮宗の京都妙顕寺末寺を建立しており、開山を実報院日窓上人、寺名を母の名から浄昌寺と称したとしている。
古曳吉種が在城した天正年間には湊山の天守から東側に位置したとしているが、文禄の役にて古曳吉種が戦死した後は吉川広家によって灘町近くの高砂山へと移されてる。
この頃から寺名を覚應山本教寺と称したと伝わり、古曳吉種と妻、母の墓位牌を祀るとある。(わが郷土 米子とその周辺の郷土誌)
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いへと臨む際に6割の兵を城下に集めたことが記されており、1598年(慶長3年)から整備が行われたとする深浦の軍港など一部の軍事拠点は既に整っていたことも読み取れる。
この時に招集された兵員は約3,000名とされ、会見郡周辺には5,000名程度の毛利軍が駐屯していたことも判る。
文書に直接”米子城”と明記する記述は見られず、兵卒を束ねた指揮官も不明だが普請奉行であった山縣春佳が推測される。
関ヶ原への出征によって普請奉行であった山縣春佳の不在には祖式長好が役職を引き継ぎ、住民6,000人を動員するなど築城作業は中断せず進められていたようである。
天守や城郭の築城に当たっては伯耆国倉吉城(打吹城)や尾高城(或いは伯耆国小鷹城)から移築とする伝承もあるが、建材を再利用した程度に留まると推測される。
別名に「久米城」と呼ばれる所以としては打吹城の移築に因むとする他、久米郡の伯耆国岩倉城の天守を移築したとする伝承や難工事のため人柱となった村娘の名前を由縁とする伝承が見える。(岩倉城の移築説は吉川元春によるもののため飯山城の別称とするのが適当)
関ヶ原の戦いの戦後処理に於いて吉川広家は岩国へ転封となる。
戸田幸太夫はこの頃、築城の進捗状況について城郭が7割(7つ)程度完成、城下町については14の町割を計画と記述している。(戸田幸太夫覚書)
町割りについては計画段階と解釈できることから吉川氏による城下町の形成や成立は考え難く、尾高城や岩倉城の町民のが誘致され14町の城下町が既に成立していたとする説には疑問が残る。
この頃は現在の灘町周辺にはいくつかの漁村が存在していたことが伝えられることから吉川氏による城下町の形成は漁村部の再編が推測される。
また、城主として吉川広家の名が見えるが、これは雲伯領主として広義の意味であり、吉川広家が当城に入ったとする記録は現時点で一切確認できない。
(米子の昔話に伝えられる飯山の白蛇(城蛇)伝説に吉川広家の娘が米子城下に住んでいたとするが西伯耆で吉川氏の館の存在は明言も確認もされておらず、飯山に白蛇が棲んでいたとする伝承へ蛇足的に付け加えられた創作話と考えられる)
吉川広家の統治下では西伯耆の代官として3~6万石を拝領した古曳吉種や吉川氏の家臣を城主、城代としている。
吉川氏の移封後、関ヶ原の合戦後の論功行賞により駿府から中村一忠が伯耆国へ入ると家老の横田村詮と共に建設途中であった城郭と城下町の整備を行い、1602年(慶長7年)に完成とある。
中村家の執政家老であった横田村詮は城下町の整備に傾注し、この頃に伯耆国内各城下から有力な商人などが集められ城下町を形成したと推測される。
吉川氏の頃に完成とする四重櫓(小天守)も中村一忠、横田村詮による建造或いは改築、改装とする考察もあり、石垣(土台部分)のみ吉川氏の遺構と推定している。
中村氏以降、別名として「湊山錦城(或いは金城)」と記述されるが、これは中村一忠の新造した天守が摂津国大坂城を模した姿(劣化コピーと酷評される)となっており、「湊山(伯耆)の大坂城」と誇るため大坂城の別名である金城或いは錦城を記したと考えられる。
(「金城」は難攻不落も意味するが、当城が篭城戦に適した城とは到底考えられないため大坂城の別名が適当と考える)
徳川氏の治世に於いて豊臣家のシンボルである大坂城の別名を敢えて記していることから堺方面との交易が活発であったことも伺わせる興味深い別称である。
中村氏の頃に当城は現在に近い形へと整えられたようで城砦は湊山頂上の本丸、北東山腹の二ノ丸(現:テニスコート)、北東山麓の三ノ丸(現:三ノ丸広場)、北尾根の内膳丸(丸山)、国道9号線を挟んだ東の飯山(現:英霊塔)、西の出山などで構成されている。
加茂川を利用した外堀、中海から海水を引き込んで作られた内堀の二重の堀は防衛力強化を図りつつ、同時に城下町流通の効率化をも図った設計がなされており、横田村詮が前任地の駿府で培った城下町整備の手腕が存分に発揮されている。
本丸や内膳丸の石垣を始め、内膳丸から遠見櫓へ伸びる登り石垣、南東の桝形虎口、鉄御門や裏御門など多くの遺構や痕跡が残る。
1609年(慶長14年)5月、中村一忠の急逝によって中村家は断絶となる。
同年8月、幕府より朝比奈源六郎、久貝忠三郎、弓気多源七郎が中村一忠の死因の検使として、古田重治、一柳直盛が城の引き取りのため代官として在番している。
同年10月からは西尾光教が城番へと任じられている。
1610年(慶長15年)、大坂の陣の功績により加藤貞泰が六万石で移封。
1617年(元和3年)、加藤貞泰が伊予国大洲へ移封となり、同年7月25日より阿部正之が監使として在番、加藤貞泰から城を受け取っている。
以降は池田氏の統治となり池田由之、池田由成が在番する。
1632年(寛永9年)から家老の荒尾氏が代々当城を管理したとされる。(1631年(寛永8年)からとする説もあり)
荒尾氏の頃、大手門は南に所在したと因伯記要に記述が見える。
1872年(明治5年)に廃城となり、1880年(明治13年)頃までに石垣を残して建物は全て売却されるか取り壊されたとある。
建物は古物商の山本新助によって30円で買い取られたとしているが、解体した建物から回収した金属(鉄釘や真鍮)の売却だけで元を取ったとされる。
取り壊された建物の木材が風呂の薪にされたと今日まで語られるが、この話は1933年(昭和8年)3月から数日に渡って米子毎夕新聞に掲載された「米子城捨売り秘話」が初見とされ、新聞という媒体であったことから多くの市民の目に止まり、諸説あるうちの一説として語られ始めたと考えられる。
「米子城捨売り秘話」では建物売却に携わった油木熊次郎の談話として、売却の話は廃城以前の1868年(明治元年)から進められていたとしている。
1875年(明治8年)、油木熊次郎は村尾定雄から土地建物を合わせて3,500円で米子町が買ってくれないかと打診を受けている。
当時の相場としては問題のない価格であったとされるが米子町の会議では
一、小修繕と番人に年70円を要すること。
一、現形を立派に保存するには年300円を要すること。
上記の討議が集中して行われたが、「米子の財政はかかる不生産的な尤物を買い取る程豊かでない」との結論が出され、「華やかであった久米城も今は草木と石ころの価値にすぎない」と結んでいる。
談話の終わりに城は37円で山本新助に買われ、当初は材木として売却されていたとする。
最終的には叩き売りに遭い、残った端材も風呂屋の焚木にされてしまったことを言語道断としている。(米子城捨売り秘話)
1958年(昭和33年)4月に発行された火野葦平の小説「百年の鯉」に「蛇體新助」という山本新助を題材とした話が収録されており、城の材木を風呂屋へ薪として売り払った話が描かれている。この話は米子城捨売り秘話との共通点が多く話の元になったと考えられ、作者の火野葦平も創作であると語ったとされる。
この本の発刊された頃から城の建物が風呂の薪にされたとする話が急速に広まり、「米子城の材木全てが風呂の薪になった」という誇張を多分に含んだ話が定説化したものと推測される。
大天守の望楼が風雨により腐食し戸板で覆われていたことは現存する古写真から判明しており、管理が極端に悪かったか或いは全く為されていなかったことが伺える。
風雨で朽ち果て再利用に耐えない建材は燃やされたと考えるのが自然であり、風呂屋の薪以外にも暖を取るため道端で燃やされたとする古老の話も伝わる。
使える建材(資材)は極力再利用する往古からの精神は明治時代にも受け継がれていたことが伝わっており、現在に語られるような「全ての木材が風呂屋に売られ薪にされた」とする説は当時の風習と照らし合わせても合致せず、米子町民の民族性を著しく貶める俗説のひとつにすぎない。
現在も米子市や南部町に残る古民家や商店の柱、梁、寺の山門や日吉津村の個人宅に移築された門など米子城の建材を転用したと伝わる造作物が残っている。(嘘か真か不明ながら、近年その数が増えつつある)
見どころ
内膳丸から延びる登り石垣
内膳丸から主郭直下の遠見櫓へと繋がる登り石垣。
頂上部まで接続されていたのかは不明とされるが頂部付近(遠見櫓直下)には平削されたと考えられる武者溜りのような平坦地が見えることから接続はされていなかった可能性が高い。敢えて接続しないことで下から見上げた際、入口と錯覚した敵兵を誘引し、武者溜りの伏兵で迎え討つとする構造などが考えられる。
接続されていた可能性を考える場合、堅牢さを見せつけることで敵方の士気を削ぎ、攻めること自体を牽制する意図があったとも考えられる。
一部に吉川広家が転封の際に頂上部を破城したとする説も見えるが、同じ規模を破壊するのであればもっと重要な部分を破壊したと思われるため、頂上部の崩落痕は自然崩壊と考えるのが妥当か。
桝形
築城時期が不明な桝形。
普請された位置から二ノ丸(御殿)を守るための施設と考えられる。
現在は枡形の外部、内部共に埋め立てられ、石垣の比高は1.5m程度だが本来の比高は4m~6m(土塀を含めると8m程度)と推定される。
内部は国道9号を通す際の残土による埋め立てが推定されているが発掘調査に於いて目視で9層程度の地層となる。
非常に短期間のうちに重ねられており、米城窯や原牧場による埋め立ての可能性も。
現状では嵩上げされているため本来の高低差が体感できず、防御力の高さや有用性が認識し難い遺構となるが往時の比高で検討する場合、堅牢な防衛施設であったと再認識される可能性が高い。
大横堀(東竪堀)
天守台に対して垂直の配置になっていることから一部に竪堀と呼称される。
十分な議論が成されないうちから竪堀とする呼称が定着してしまい、普請時期も定まらない状態で竪堀と喧伝されてしまったことには違和感が残る。
古曳氏が城代の頃の遺構であれば浄昌寺に対する横堀となり、伯耆民談記では飯山と丸山で掎角の勢を成すと記述に見えることから竪堀ではなく横堀と捉えるのが自然か。
双搭の天守台
現存する石垣造りから2基の天守台を備えたことが判る。
並びが歪なことから当初より2基を並べる設計ではなく、吉川氏が政庁として建造した旧天守を中村氏の新天守が覆い隠すような配置で建てたとする政治的な駆け引きも推測される。
天守直下の段状の腰郭は古絵図には見られず、元々は高石垣であったものがいつの時代かで段々に分割されている。
天守台から城下町の眺め
米子市内や大山、中海や日本海も一望できるため、空気の澄んだ晴れた日の登城がおススメ。
写 真
2013年3月23日、2016年9月24日、2016年10月10日