武将列伝帖
きっかわ しきぶのしょう たかひさ
吉川式部少輔隆久
【氏】藤原【姓】朝臣【名】吉川【通称】式部少輔【諱】隆久
別 名
市川隆久/市川高久(いちかわ たかひさ)
出 身
不明
官 途
式部少輔、兵部少輔
所 属
吉川氏
生 年
不明
没 年
1581年(天正9年)11月
- 列 伝 -
吉川家の家臣、市川経好の三男。
1581年(天正9年)、第二次鳥取城の戦いでは吉川経家への援軍として因幡国鳥取城へ入城とある。
同年11月、兵糧攻めによる鳥取城の落城に際して自刃している。
因伯紀要では天正年間に伯耆国打吹城を攻略し、天守閣を米子湊町へ移し築城した事を伯耆国米子城が久米城とも呼ばれる所以としている。
伯耆民談記では湊山への米子城築城を始めた人物としている。
但し、築城を開始したとされる日付が「天正16年丑年」(1588年11月15日以降)と死亡した数年後の出来事となっていることから、因伯紀要に見える打吹城の移築説や1575年(天正3年)以降、吉川元春の指示による築城に関係した可能性が推測される。