所 属
毛利
吉川
よみがな
人物名
きっかわ しきぶのしょう たかひさ
吉川式部少輔隆久
別 名
いちかわ たかひさ
市川隆久
別 名
いちかわ たかひさ
市川高久
官 途
式部少輔、兵部少輔
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1581年11月21日(天正9年10月25日)
氏
藤原
姓
朝臣
諱
宗幸
列 伝
吉川家の家臣、市川経好の三男。
1581年(天正9年)
因幡国鳥取城の戦いでは吉川経家への援軍として因幡国鳥取城へ入城とする。
1581年11月21日(天正9年10月25日)
織田方の兵糧攻めにより鳥取城は陥落し、落城に際して自刃する。
伯耆民談記 巻之二 都邑之部
一、米子(略)天正十六年丑年、吉川式部少輔隆久、始めて湊山に本城を築き、同十八年、従小田原役打捨をかれしを、慶長四亥年、吉川蔵人佐広家再興し、翌年関原役に吉川南条相共に上方へ一味し、家康公へ逆心ありしに依て領地悉く召上られ、同六年、中村伯耆守忠一へ当国一円を賜ひ米子を以て居城とせしむ。然れども米子の城営未だ全備せざるにより暫らく尾高に町を置き、飯の山と日向山との間に一町の堀をほり、惣柵をつき、内膳丸、采女丸を定め普請尽く成就せしかば。
伯耆民談記 巻之二 都邑之部
1588年11月15日頃(天正16年丑年)
伯耆民談記では湊山へ伯耆国米子城の築城を始めた人物としている。
天正年間に伯耆国打吹城から天守閣を米子湊山へ移築した事に因み久米城とも呼ぶとしている。
因伯紀要では天正年間に打吹城を攻略し、天守閣を米子湊町へ移したとする表現となっている。
何れも築城を開始したとされる日付が1588年11月15日以降(天正16年丑年)と死亡した数年後の出来事となっていることから、因伯紀要に記される打吹城の移築や1575年(天正3年)以降、吉川元春の指示による築城に関係した記述であると推測される。