伯耆国 会見郡
おだかじょう
尾高城
所在地
鳥取県米子市尾高
城 名
尾高城(おだかじょう)
別 名
小鷹城(おだかじょう)…音読みの当て字。
小田加城(おだかじょう)…毛利氏が伯耆に有した四城(五城)のひとつとして記述される。
緒高城(おだかじょう)…中務大輔家久公御上京日記での記述。
泉山城(いずみやまじょう)…所在する泉の地名に因む名称。伯耆民諺記や陰徳太平記にも見えるが出雲私史では別の城として扱っている。
泉の城(いずみのしろ)…粟屋勘兵衛家文書で尾高周辺とする。
小鷹泉山城(おだかいずみやまじょう)…現地の城跡碑にある刻印。
築城主
不詳
築城年
不詳(鎌倉時代頃の築城が始まりと伝える)
廃城年
1601年(慶長6年)頃
形 態
連郭式平山城、丘城
遺 構
郭跡※、切岸、堀切、空堀、土塁、虎口、石垣※、掘立柱建物跡、礎石建物跡、井戸跡※
※ 本丸、二ノ丸、中ノ丸、天神丸、南大首郭、越ノ前郭、Ⅳ郭(伝・山中幸盛幽閉郭)、方形館、伝・倉庫跡、鎌倉時代建物跡など。
※ 本丸と二ノ丸の間に露出する石垣は田畑の境界とされる。埋没部は戦国期の造作とする。
※ 天神丸に所在した井戸は舗装され消滅。
(2024年4月1日現在)本丸、二ノ丸は無許可での立入が禁止されています。
現 状
山林、原野、舗装道路、商業施設、駐車場
備 考
市指定文化財 史跡(昭和52年4月1日指定)※国史跡指定範囲以外
国指定文化財 史跡(令和6年2月21日指定)
縄張図
尾高城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
伯耆山名
山名理興の父。城主であったことのみ記述される。
行松氏累代の家城であったが大永4年、大永の五月崩れを受けて国外へと退去する。
城 主
日野山名
毛利氏と尼子氏が泉、河岡周辺で争う頃に在番とする。
城 主
尼子
大永4年、大永の五月崩れ以降は城代として任じられ西伯耆の指揮官となる。
山中幸盛
陰徳太平記では尼子残党を率いて杉原盛重から一時的に城を奪ったとする。(陰徳太平記)
城 主
毛利
毛利方に与して36年ぶりに家城を取り戻す。
天正13年、行松次郎四郎を迎撃するため泉山の城から出陣とある。
城 主
毛利
杉原
行松正盛の家督を相続。
杉原盛重の家督を相続。
杉原元盛を殺害し家督を奪う。
杉原景盛より城番へと任じられる。
城 主
毛利
吉川
大山寺や山中幸盛への対応の為、一時的に在城とする。
杉原景盛の誅殺後、杉原氏の後任として任じられる。
城 主
中村
伯耆米子城が未完成の為、仮住まいとして居城とする。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)
雲陽軍実記[河本隆政 著](明治44年11月 松陽新報社)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻一 大正5年6月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆志捜図(因伯叢書 伯耆志巻一 大正5年6月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
因伯古城跡図志(文政元年 鳥取藩)
出雲文庫第三編 和譯出雲私史(大正3年9月、大正13年9月第2版)
萩藩閥閲録(森脇覚書など)
天保14年田畑地続全図
尾高城址発掘調査概報・尾高城址Ⅰ&Ⅱ
尾高の里~各巻~(野口徳正)
尾高城跡Ⅳ -本丸・二の丸発掘調査報告書-(令和5年(2023年)1月 米子市教育委員会)
年 表
鎌倉時代
鎌倉時代に城砦あるいは居館が当城の始まりとされる。(この建造物が伯耆国岡成城とも推測される)
1524年
大永4年
尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)を受け落城した城のひとつとされる。(伯耆民談記など)
1562年
永禄5年
毛利氏が西伯耆周辺に拠った尼子方の城砦を攻略。
毛利方の管理下ではあったが当城は伯耆山名氏の支配へと戻り、軍功のあった行松正盛が再び城主として任じられている。
1564年
永禄7年
1569年
永禄12年
尼子残党の山中幸盛らによって一時、城を奪われている。(陰徳太平記)
1571年
元亀2年
2月、尼子残党が当城を襲撃するが杉原盛重によって尼子方は敗走、尼子残党の平野久基が討死とある。
3月、尼子残党の秋上久家の部将、羽倉元陰らが伯耆国米子城(飯山城)に続いて当城を襲撃するが杉原盛重によって尼子方は敗走する。この戦で尼子残党の羽倉元陰が討死とある。(秋上久家は後に毛利氏へと帰順している)
6月、伯耆国末吉城の攻防戦において吉川元春の捕虜となった山中幸盛が当城に連行され監禁されるが山中幸盛は赤痢と偽り番兵を欺くと厠の汲み取り口から脱出したと伝える。
1575年
天正3年
1581年
天正9年
1582年
天正10年
杉原盛重の家臣であった菖蒲重政と杉原盛重の二男、杉原景盛が共謀し、兄の杉原元盛を二ノ丸付近で殺害。しばらくの間、杉原景盛が当城の城主とされる。
杉原家の家督相続争いに毛利方の小早川隆景、吉川元長らは「杉原景盛は南条と結び毛利に叛意あり」とし、吉川元長は部将の香川春継、粟屋就光らを伯耆国へ派兵している。
1585年
天正13年
1601年
慶長6年
概 略
西伯耆の諸城を一望できる丘陵に所在し、城下には大山寺方面、山陽方面へと通じる街道が通っていたことから交通の要衝(尾高宿)として栄えたとある。
1601年(慶長6年)、中村一忠が伯耆国の領主となり、湊山に伯耆国米子城が築城されるまでは西伯耆随一の規模を誇ったと伝える。
因伯古城跡図志
北の方より前通、日野郡へ至る往来有。
山陽方面へ街道が続くとあるが、因伯古城跡図志では日野郡を経由する日野街道へ続くとしている。
小鷹山観音寺前交差点から県道24号線へ少し進むと路肩に道標があり、因幡道と大山道に続いていたことが刻まれている。
別名「泉山城」とも呼ばれ、城の興りについては定かでないものの、南大首郭の東側に築城された鎌倉時代の城砦か居館が始まりとされている。
この鎌倉時代建物跡が当城でも比較的古い施設と推定されることから往古に「岡成城」と呼称された可能性が考えられる。
弥生時代には古代山陰道が近くを通り、古墳時代まで遡る遺構や出土品も発見されていることから太古より近畿地方との交流を持っていたことが伺える。
伯耆志 尾高村の条 城跡の項
村の東一丁許に在て尾高岡成の地堺なり。東北中間村の傍迄差続きたる岡山の首にて此地以東は田土漸く高く以西俄に低し三山あり。北を本丸と云い、中を二ノ丸、南を天神丸と云う。皆松樹繁茂せり五十年前は四方に石垣有しを村民取て敷石などに用うるに幾人持と記せるか明に見えしと云えり。城の廣周回五丁許にて東に隍の跡あり。東南に古井あり。城跡年を追て田畑となり漸く狭小になりしと云えり。
1524年(大永4年)、大永の五月崩れと伝える尼子氏の西伯耆侵攻によって伯耆国の支配が伯耆山名氏から尼子氏へと移り、戦国時代には尼子氏と毛利氏が西伯耆を巡り争うこととなる。
当城でも伯耆山名氏麾下の行松正盛、毛利方の杉原盛重、尼子方の羽倉元蔭、山中幸盛など伯耆国内外の戦場でも活躍した武将が合戦を繰り広げたと伝える。
1570年(元亀元年)、尼子再興の軍を挙兵した山中幸盛であったが、翌年の1571年(元亀2年)、伯耆国末吉城の戦いで捕縛され、当城まで連行されたと伝える話が見える。
山中幸盛の幽閉場所は現在のⅣ郭と呼ばれる独立郭(人質郭や牢獄)が推定されている。
当城に捕らわれた山中幸盛は赤痢と偽り幾度も番兵を欺き厠から脱出したとする話が有名である。
伯耆志、雲陽軍実記、森脇覚書、萩藩閥閲録など多数の文献に記述され、それぞれ捕縛されたとする戦場、脱出方法や過程に諸説存在し、それぞれ経緯が異なる。
中には杉原盛重の虚を突き、当城を奪取してしまうといった話も見える。
Ⅳ廓は全周が切岸となる孤立した郭となっており、連絡が必要な場合のみ中ノ丸や南大首廓へと木橋などで接続されたと推測される。
山中幸盛が赤痢と偽り牢獄と厠を複数回往復したとすれば、厠はⅣ廓から離れた場所に所在したと考えられる。
山中幸盛が捕虜となったのは当城の内情を調べるためにわざと捕まったとする場合、Ⅳ廓と中ノ丸など主要施設との往復にも意味ができ、杉原盛重の虚を突き一時的に当城を奪取する物語の伏線としては回収しやすい。
中務大輔家久公御上京日記
廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ軈而大仙に參、其より行て緒高といへる城有。其町を打過、よなこといへる町に着、豫三郎といへるものの所に一宿。
島津家久の伊勢参詣道中記を記した「中務大輔家久公御上京日記」では、1575年(天正3年)6月21日の出来事の中に当城砦の存在が記されている。
当城については「緒高」と音に頼った記述となっており、この日の時点で「よなこ(米子)」の町に米子城が存在していないことも読み取れる。
粟屋勘兵衛家文書(萩藩閥閲録)
只今、泉、河岡一大事候。彼両城不慮候へは伯州一円無曲候条(略)七月廿三日。
毛利氏と尼子氏が西伯耆で争う頃、伯耆国河岡城と共に要所であったことが毛利元就と家臣団とのやり取りから伺える。
1591年(天正19年)までに毛利氏が伯耆に有した四城(五城)のうちの一城に「小田加城」とする記述が見え、城主として日野山名氏の山名藤幸が入ったとしている。(萩藩閥閲録)
関ヶ原の戦いの後に中村一忠が伯耆入りし、米子城の築城が行われる間は中村一忠の仮住まいとして利用され、米子城が完成すると城下町及び政治機能は米子へと移されたため当城は廃城と伝わる。
廃城となった当城は解体され再利用可能な建材などが米子城の旧天守へ移築されたとする伝承もある。
廃城後は尾高の有力商人らは米子へと移り商いに注力し城下の発展に貢献したとある。
尾高から移った町民が多く居住した場所は「尾高町(おだかまち)」となり、茣蓙(ござ)、畳表、後に呉服なども町禄に加えられている。
米子へ移住し恩恵を受けた商人らが居た一方、これまでの主産業が全て米子へ移ってしまったことから尾高は徐々に廃れていき、城下町を田畑へと戻し生活の糧を確保したとも伝承に伝わる。
「生活は苦しく自ら命を絶つものが後を絶たなかった」と、尾高の城下に残された民の過酷な歴史を物語る言い伝えも残る。
1902年(明治35年)、天神丸の北の空堀を利用して岡成新道が建設されている。
現在の体育館の敷地(南大首の東側)からは五輪塔が多く出土し、岡成新道を越えた南側に集められている。
伯耆民談記 尾高之城の条
中間庄尾高村にあり。浅野越中守家老、尾高和泉守重朝累代の家城なり。戸田安房守、浅野越中守、両家千戈を争ふことありて既に両家共に断絶に及びけり。其後尼子の一族吉田筑前守此処の城主たりけれとも芸州毛利家起って終に尼子も断絶に及び当城落去して毛利家の杉原播磨守盛重に賜はる。然るに毛利家、関ヶ原の陣に上方に一味して家康公に逆心に依って領地召上げられ此の時に至って当城断滅せり。記事は天満峰松山の合戦に悉く述べたり。
伯耆民談記では序盤に伯耆闘戦記からの引用がなされ伯耆国岡成城に記した通り創作と推測される記述から始まるが、尼子氏の治めた頃に吉田光倫が在番とする辺りから伯耆志や萩藩閥閲録などに見える史実と推定される出来事に沿った記述が続いている。
このため伯耆民談記だけを参考にする場合、伯耆闘戦記の出来事が史実と混同する一因となる。
写 真
2018年9月28日
遠望
遠望
遠望
遠望
天神丸
天神丸
天神丸
天神丸
空堀
空堀
空堀
鎌倉時代建物跡
鎌倉時代建物跡
鎌倉時代建物跡
鎌倉時代建物跡
復元木橋
復元木橋
復元木橋
南大首郭
南大首郭
南大首郭
南大首郭
南大首郭
中ノ丸空堀
中ノ丸空堀
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
中ノ丸
Ⅳ郭空堀
Ⅳ郭
Ⅳ郭
Ⅳ郭
山下通路
山下通路
船着場跡
中ノ丸空堀
中ノ丸空堀
中ノ丸空堀
本丸虎口
本丸虎口
本丸
本丸
本丸
本丸
本丸西側土塁
本丸西側土塁
本丸南側土塁
本丸南側土塁
本丸東側土塁
本丸東側土塁
本丸東側土塁
本丸東側土塁
本丸東側土塁
本丸東側土塁
本丸東側土塁
本丸北東側土塁
本丸北東側土塁
本丸から二ノ丸
堀切
堀切
堀切
伝・二ノ丸門跡
伝・二ノ丸門跡
二ノ丸石垣
二ノ丸石垣
二ノ丸
二ノ丸
二ノ丸
二ノ丸土塁
二ノ丸土塁
方形館跡
方形館跡
方形館跡
写 真
2013年4月22日、2014年7月20日、2015年8月29日、2015年8月31日