伯耆古城図録

おだかじょう

尾高城 / 小鷹城 / 小田加城 / 緒高城

鳥取県米子市尾高

別 名

泉山城(いずみやまじょう)、小鷹泉山城(おだかいずみやまじょう)

遺 構

掘立柱建物跡、礎石建物跡、郭跡、腰郭、土塁、虎口、堀切、空堀、切岸、石垣、井戸跡

(本丸、二ノ丸、中ノ丸、天神丸、南大首郭、越ノ前郭、Ⅳ郭、方形館、伝倉庫跡)

※2018年9月より本丸及び二ノ丸の米子市所有分に関しては立ち入りが可能となりました。

現 状

山林、原野、舗装道路、商業施設、駐車場

城 主

(伯耆山名方)山名時興行松正盛

(尼子方)吉田光倫山中幸盛

(毛利方)行松正盛杉原盛重杉原元盛杉原景盛木梨中務少輔吉田元重吉川元春

(中村方)中村一忠

築城年

不明

鎌倉時代の築城が始まりとされる。

この頃は岡成城と呼ばれていた可能性も。

廃城年

1601年(慶長6年)頃

築城主

不明

形 態

連郭式平山城

備 考

米子市指定文化財:昭和52年指定

参考文献

伯耆志

伯耆民談記

陰徳太平記

雲陽軍実記

伯耆志捜図

萩藩閥閲録(森脇覚書)

天保14年田畑地続全図

因伯古城跡図志

尾高城址発掘調査概報・尾高城址Ⅰ&Ⅱ

尾高の里~各巻~(野口徳正 著)

縄張図

尾高城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

西伯耆の諸城を一望できる丘陵に所在し、城下には大山寺方面、山陽方面へと通じる街道が通っていたことから交通の要衝として栄えたとある。

1601年(慶長6年)、中村一忠が伯耆国の領主となり湊山に伯耆国米子城が築城されるまでは西伯耆随一の規模を誇ったと云われる。

 

別名「泉山城」とも呼ばれ、城の興りについては定かでないものの鎌倉時代、南大首郭に築城された城砦か居館が始まりとされている。(この南大首郭跡に所在した建物跡を「岡成城」とする考察も見える)

古くは弥生時代~古墳時代まで遡る遺構や出土品も発見されていることから太古から近畿地方との交流も伺える。

 

伯耆志 尾高村の条 城跡の項

村の東一丁許に在て尾高岡成の地堺なり東北中間村の傍迄差続きたる岡山の首にて此地以東は田土漸く高く以西俄に低し三山あり。北を本丸と云い、中を二ノ丸、南を天神丸と云ふ。皆松樹繁茂せり五十年前は四方に石垣有しを村民取て敷石などに用ふるに幾人持と記せるか明に見えしと云へり。城の廣周回五丁許にて東に隍(ほり)の跡あり。東南に古井あり。城跡年を追て田畑となり漸く狭小になりしと云へり。

 

1524年(大永4年)、大永の五月崩れでは尼子氏の西伯耆への侵攻によって伯耆国の支配が伯耆山名氏から尼子氏へと移り、戦国時代には尼子氏毛利氏が西伯耆を巡り争っている。

当城でも伯耆山名氏麾下の行松正盛、毛利方の杉原盛重、尼子方の羽倉元蔭山中幸盛など伯耆国内外の戦場でも活躍した武将の多くが合戦を繰り広げたと伝わる。

 

1570年(元亀元年)に尼子再興の軍を挙兵した山中幸盛が1571年(元亀2年)、伯耆国末吉城の戦いで捕縛されると当城まで連行され、一時幽閉(幽閉場所は現在のⅣ郭と呼ばれる郭と推定されている)されたと云われるが赤痢と偽り番兵を欺き厠から脱出したとする話は有名。(伯耆志、雲陽軍実記、森脇覚書、萩藩閥閲録など多数の文献に記述)

山中幸盛が捕虜となったのも当城の内情を調べるためわざと捕虜になったとする説、捕縛後に杉原盛重の虚を突き一時的に当城を奪取する話など多岐にわたる物語や言い伝えも残る。

 

中務大輔家久公御上京日記

廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ軈而大仙に參、其より行て緒高といへる城有。其町を打過、よなこといへる町に着、豫三郎といへるものの所に一宿。

 

島津又七郎家久の伊勢参詣道中記を記した「中務大輔家久公御上京日記」では、1575年(天正3年)6月21日の出来事に当城砦の存在が記されている。また、この日の時点で米子城が存在していないことも読み取れる。

 

1591年(天正19年)までに毛利氏が伯耆に有した四城(五城)のうちの一城として小田加城の記述も見える。 (萩藩閥閲録)

 

関ヶ原の戦いの後に中村一忠が伯耆入りし、米子城の築城が行われる間は中村一忠の仮住まいとして利用され、米子城が完成すると城下町及び政治機能は米子へと移され当城は廃城と伝わる。

廃城となった当城は解体され再利用可能な建材などが米子城の旧天守へ移築されたとする伝承もある。

 

当城の廃城後、尾高城下の有力商人らは米子城下へと移り商いに注力し城下の発展に貢献したとある。

尾高城下から移った町民が多く居住した場所は「尾高町(おだかまち)」となり、茣蓙(ござ)、畳表、後に呉服なども町禄に加えられている。

 

尾高から米子城下へ移住し恩恵を受けた商人らが居た一方、これまでの主産業が全て米子城下へ移ってしまったことから尾高城下は徐々に廃れていき、城下町を田畑へと戻し生活の糧を確保したとも伝承に伝わる。

「生活は苦しく自ら命を絶つものが後を絶たなかった」と、尾高城下に残された民の過酷な歴史を物語る言い伝えも残る。

 

現在の体育館の敷地(南大首の東側)からは五輪塔が多く出土し、岡成新道を越えた南側に集められている。

 

1902年(明治35年)、天神丸の北の空堀を利用して岡成新道が建設された。

 

伯耆民談記 尾高之城の条

中間庄尾高村にあり。浅野越中守家老、尾高和泉守重朝累代の家城なり。戸田安房守、浅野越中守、両家千戈を争ふことありて既に両家共に断絶に及びけり。其後尼子の一族吉田筑前守此処の城主たりけれとも芸州毛利家起って終に尼子も断絶に及び当城落去して毛利家の杉原播磨守盛重に賜はる。然るに毛利家、関ヶ原の陣に上方に一味して家康公に逆心に依って領地召上げられ此の時に至って当城断滅せり。記事は天満峰松山の合戦に悉く述べたり。

 

伯耆民談記では序盤に伯耆闘戦記からの引用がなされ伯耆国岡成城に記した通り創作と推測される記述から始まるが、尼子氏の治めた頃に吉田光倫が在番とする辺りから伯耆志や萩藩閥閲録などに見える史実と推定される出来事に沿った記述が続いている。

このため伯耆民談記だけを参考にする場合、伯耆闘戦記の出来事が史実と混同する一因となる。

 

年 表

鎌倉時代

時期は不明だが、鎌倉時代に城砦あるいは居館が当城の始まりとされる。(この建造物を伯耆国岡成城とする説も見える)

1524年

大永4年

尼子氏の伯耆侵攻(大永の五月崩れ)により落城した城の一つとして記述が見える。(伯耆民談記など)

城主の行松正盛は当城を放棄し一族と共に国外へ退去。後に大内氏、毛利氏を頼ったと云われる。

尼子方の支配下では城番として吉田光倫が置かれている。(伯耆民談記)

1562年

永禄5年

毛利氏が西伯耆周辺に拠った尼子方の城砦を攻略。

毛利方の管理下ではあったが当城は伯耆山名氏の支配へと戻り、軍功のあった行松正盛が再び城主として任じられている。

1564年

永禄7年

城主であった行松正盛が病没。毛利家の家臣、杉原盛重が城主へ任じられている。

1569年

永禄12年

尼子残党の山中幸盛らによって一時、城を奪われている。(陰徳太平記)

1571年

元亀2年

2月、尼子残党が当城を襲撃するが杉原盛重によって尼子方は敗走、尼子残党の平野久基が討死とある。

 

3月、尼子残党の秋上久家の部将、羽倉元陰らが伯耆国米子城飯山城)に続いて当城を襲撃するが杉原盛重によって尼子方は敗走。

この戦で尼子残党の羽倉元陰が討死とある。(秋上久家は後に毛利氏へと帰順している)

 

6月、伯耆国末吉城の攻防戦において吉川元春の捕虜となった山中幸盛が当城に連行され監禁されるが山中幸盛は赤痢と偽り番兵を欺くと厠の汲み取り口から脱出したと云われる。

1575年

天正3年

杉原盛重が羽衣石城主南条宗勝を城内に招き毒殺したとある。(伯耆民諺記)

※この出来事は伯耆民諺記での創作とされ、逆に杉原盛重南条宗勝によって毒殺される伝承もある。

1581年

天正9年

伯耆国八橋城の城主となっていた杉原盛重が病没。杉原家の家督は嫡男の杉原元盛へ譲られている。

1582年

天正10年

杉原盛重の家臣であった菖蒲重政杉原盛重<の二男、杉原景盛が結託・共謀し、兄の杉原元盛を当城二ノ丸付近で謀殺。しばらくの間、杉原景盛が当城の城主とされる。

 

杉原家の家督相続争いに毛利方の小早川隆景吉川元長らは「杉原景盛は南条と結び毛利に叛意あり」とし、吉川元長は部将の香川春継粟屋就光らを伯耆国へ派兵している。

杉原景盛の居城であった伯耆国佐陀城を包囲した後、先に木梨中務少輔が守備を任されていた当城から攻略している。

 

杉原家の家督相続争いの後は杉原盛重の娘婿であった吉田元重が城番へと任じられている。

1585年

天正13年

この頃の城主は吉田元勝とされる。(瑞仙寺文書)

1601年

慶長6年

伯耆国の領主となった中村一忠が伯耆国米子城の完成までの間、仮の居城として居住したと云われる。

湊山に米子城が完成した後に当城は廃城とされるが、当城を解体した資材や建物が米子城へ移築されたとする伝承が見える。

横田村詮による米子城下の整備に合わせ、尾高城下の商人など領民の移住が行われたとある。

地 図

写 真

訪城日 2018/09/28

写 真

訪城日 2013/04/22、2014/07/20、2015/08/29、2015/08/31

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