所 属

大内

尼子

毛利

よみがな

人物名

やまな ぶんごのかみ ただおき

山名豊後守理興

 

別 名

すぎはら くないのしょう ただおき

杉原宮内少輔忠興

陰徳太平記での表記

官 途

宮内少輔(陰徳太平記)、豊後守

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1557年(弘治3年)

朝臣

理興

列 伝

大内氏の家臣で備後国八尾山城の城主。

山名師氏の子孫とされ、父は伯耆国尾高城の城主、山名時興

後に大内氏を見限り尼子方に降るが、大内氏の滅亡を機に残存勢力を掌握した毛利氏へと恭順している。

 

1538年(天文7年)

備後国守護の山名忠勝の侵攻によって備後国神辺城を奪われるが、大内義隆の協力を得て神辺城を奪還し回復している。

山名忠勝討伐の功により山名姓を名乗ったとされるが、杉原姓として記述が見えるのは江戸時代中期以降に記された軍記物語からとされる。

神辺城の奪還後は城主となるが、山名忠勝によって城を奪われる以前から備後南部の一帯を支配していたことが判っており、杉原氏ではなく元より山名氏の一族であった可能性も推測されている。

一説には父を杉原匡信杉原盛重の父)とする説もあるが信憑性は低いようである。

 

陰徳太平記 巻第十三 尼子経久逝去 並に 大内義隆雲州発向之事

(略)伊豫守経久、老病頻りに起りて天文十年十一月十三日、行年八十四歳にて卒せらる。(略)天文十一年正月十二日、正四位下行兵部権太輔兼太宰大貳多々良義隆、嫡子左衛門佐従五位上晴持、防州山口筑山の館を発足し給う。相従う人々には(略)已下三萬餘騎安芸の国府に着陣せしかば当国の御家人毛利右馬頭元就、同備中守隆元(略)杉原宮内少輔忠興(略)等、吾も吾もと勢を集めて馳せ参ず。

 

陰徳太平記 巻第十三 備雲石の武士志を変する事

富田の八幡山に陣を並べて居たりける。備後出雲石見の武士、三澤、三刀屋、宮、杉ノ原、出羽、本庄等十三人の者共、合戦の暇有る時は各々一所に会合して敵味方合戦の勝敗、将士強弱の評論などしけるが、後は夜毎に酒呑み茶翫び、倭歌を詠し連歌を賦し乱舞今様に興て寄せ互いに心の奥をも隠ず打語らい共に兄弟の莫逆の交わりをなす。或る時、杉ノ原宮内少輔忠興餐應の席也しに、今日は殊に熟々と降り暮したる長雨晴れ間なく、軒の玉水音澄みて空しき山の雲間より山杜鵑音信て如く水雉も物寂ければ何となく感情も起りかたえには五月雨に木岨の御坂を越佗てかけ路に柴の庵をぞさすと俊成卿の歌を吟ずれば愁は深し楚猿の夜、夢は断越鶏の農と柳子厚が句を誦するも有て肱を曲げて枕とい四序の交代世間の無常など物語りしけるに、忠興内々思う仔細の有りければ次で面白しとや思いけん。(略)忠興の評論をこそ承わり候わめと辭す。忠興然らば某しが愚なる批語を述べ、其れを餌と成して各々賢慮の趣を承わり候なんず。抑々両家軍法の善悪を見るに唯だ尼子家こそ将も兵も心深く存じ候え。大内家は義隆の代に替りて今は心浅く覚え候。(略)

 

1542年1月27日(天文11年1月12日)

大内義隆による出雲国の尼子氏攻めには安芸の御家人衆の一角として大内方に与力する。

大内方は富田川合戦で敗戦を喫し、自身や備後、出雲、石見の国人衆は八幡山へと布陣する。

陣中では国人衆の頭目らと評論の場を持ち、大内方と尼子方のどちらに与するべきかを評論している。

昨今の大内家の家中の状況、今後中国地方の覇権を取るのはどの勢力かなど細かく語り合い、最終的に大内義隆を見限り尼子方に与するが上策と国人衆らと共に反旗を翻し尼子氏へと寝返ることとなる。

 

1543年(天文12年)

尼子方へ寝返ったことから大内義隆による追討の軍を興され、神辺周辺での合戦が始まる。

開戦当初から兵力差は圧倒的に不利であった上、大内義隆毛利元就弘中隆兼ら智将、勇将を指揮官として派兵しており、尼子方であった神辺城の支城は次々と陥落している。

 

陰徳太平記 巻第十七 備後の国神邊城の合戦之事

爰に備後の国神邊道の上の城主、杉ノ原宮内少輔忠興と云う者あって山名師氏の末孫也けるが累代攻取の名に富んで忠興殊に大力の大弓なれば近国甚はだ震恐せり。一年義隆朝臣、雲州富田発向の時より尼子に属せし故、備後の国人等渠れが武威に恐れ従いて悉く大内を背き尼子の命に奔走す。之に依りて義隆より忠興退治の為め、陶中務ノ権ノ大輔隆房を大将として防長の軍士五千餘騎を差上せらる。(略)天文十七年六月二十日、神邊表へ出張す。忠興聞ゆる勇士なれば多勢の敵をも恐怖せず足軽を出して防戦す。同二十三日、吉川治部少輔元春、吉川家相続の後、今度始めての合戦なれば諸人の目を驚かす一戦せんと手勢一千餘騎を引率して城の麓へ押し寄せ(略)所々の在家を放火せらる。忠興城中には伯父、弾正ノ忠を残し置き、吾が身は一千餘騎を二隊に別け同名左衛門太夫に三百餘騎を添えて放火させじと防せく体にて寄せ手の足軽に渡し合せ散々に力戦す。(略)盛重、手負いて少し引き退けば是に力を得、吉川勢彌々進んで戦う故、杉ノ原忠興終に戦利を失い一つに成って引きけるを頻りに追懸けければ忠興、城の柵際にて取って返し暫し支えて防ぐ所に今田上野介経高、森脇内蔵大夫定光、鑓を入れて突き立て(略)忠興、爰でも破られて城中へ逃げ入りけり。(略)其後仕寄りて付け日夜攻めけれ共、地の利険難に将兵剛強にして而かも一千五百人籠りけえば容易く落つ可きとは見えざりけり。かかりける所に平賀太郎左衛門隆宗、陶隆房に向い予め忠興と仔細有って遺恨少からず候。餘に憎く覚え候間、渠れが所領悉く賜り候ばば隆宗一身の知略を以て当城を抜き忠興が頸を取って鬱懐を散す可きにて候。哀れ望む所に任せられ候えかしと云いければ、隆房頓がて領掌せらる。平賀大に悦びさらば向い城を構え候わんに(略)

 

陰徳太平記 巻第十七 平賀杉ノ原合戦之事

去る程に平賀隆宗、杉ノ原忠興は日々足軽を出してせり合いけるが互いに劣らざる勇強なれば勝負時に相変ず。同じく霜月十九日、杉ノ原播磨ノ守、同じく左衛門ノ太夫興勝、七百騎を率して平賀が向い城へ押し寄せ(略)然れ共戦いは決する事もなく徒をに日数を送られ候て。

 

1548年7月25日(天文17年6月20日)

備後南部における尼子方の本拠地、神辺城への総攻撃が始まると落城は必至とされたが、家老の杉原盛重ら諸将の活躍もあり寡兵ながら城を保っている。

自身も戦場を駆け、杉原盛重ら諸将の活躍もあり短期決戦での攻略を断念した陶隆房であったが、平賀隆宗は遺恨を理由とし、神辺城落城の暁には所領として全て拝領できるなら知略の限りを以て神辺城を落として見せると上申する。

陶隆房は熟考の上に了承すると主力を撤退させ、平賀隆宗神辺城の対岸に要害山城(秋丸砦)を築き、この後、約一年の間は小競り合いの続く膠着状態となった。

この合戦で杉原盛重の活躍が大内方にあった吉川元春に評価され、後に杉原盛重が山名家(行松家)の家督を継ぐ要因となった。

 

1548年12月18日(天文17年11月19日)

平賀隆宗と戦闘は膠着状態となる。

 

1549年7月27日(天文18年7月3日)

平賀隆宗が陣没するも平賀勢は弔い合戦を称し攻撃を継続する。

 

1549年9月24日(天文18年9月4日)

力攻めに耐え兼ねると尼子氏を頼って出雲国月山富田城へと逃れ、神辺城は落城する。

 

陰徳太平記 巻第十八 備後ノ国神邊ノ城明渡す 付 目黒最後之事

(平賀隆宗は)忠興へ使を遣わし(略)かく士卒を労せしめ、民を苦しめんより、吾が運を司命星に任せ御邊の矢二筋申し受く可き間、中り候なば隆宗の運の極めにて候べし。若し射外され候わば速に当城を明け渡され候えと云い送りければ忠興弓は蚊の睫、蟻の眼なりと云う共目にさえ見えば射中てんと自賛して甘蝿養由基にも劣らぬ筈射なりければ斜めならず悦んで頓て約をぞ定めける。かくて頃は天文十九年十月十三日、忠興、隆宗二人、わざと人一人も召し具せず城の尾崎へ出逢いたり。隆宗、床几に腰を懸け、九字護身法を行い満々と弓を引いて射れども著らずと念じて待ちかけたるは誠に垜成って矢を待つ風情なり。忠興、弓の弦阻締し矢二筋取添え揺て立向い(略)其時隆宗十間許り立退き約束の如く当城を明け渡され候べしと云いたりければ、忠興も誓約金石よりも堅くしける故、季布が二諾なく、楚王の一言を重んじて城中の掃除粲然にして同じく十四日、城を平賀に渡し、吾身は尼子を頼み出雲へこそば越えにけれ。

 

1550年11月21日(天文19年10月13日)

膠着状態のまま長引く戦況を打開すべく、平賀隆宗から神辺城を賭けて弓を使った一騎打ちを提案される。

内容は打ち合いではなく、自身の放つ矢を平賀隆宗が落命せず受けきった場合は天運は平賀隆宗を選んだとし、城を明け渡すように提案している。

矢も一筋ではなく二筋用意するように要求し、中国無変の精兵と評された弓の名手に対して2度も射殺の機会を与えることは仮に将兵の命に代わるものとしても平賀隆宗の心中は測れず、大胆不敵さに驚嘆している。

平賀隆宗の提案を承諾し、お互いに付き添いを付けず二人のみで城の尾崎で対峙する。

 

平賀隆宗は床几に腰かけ九字護身法(臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・前・行)を唱え、垜(弓矢の的を固定する土塁)の如き佇まいで戦いの時を待った。

対して弓と矢を2本用意し立ち向かうと平賀隆宗は胸板に扇を当て、受け止めてみせると挑発する。

1~2町(100~200m)程度の距離で獣や燕であれば十中八九射貫ける腕前を誇り、月の光が甲冑の金箔を照らしたことも格好の標的となり、1町(100m)程の距離に居た平賀隆宗を一射目から捉え射貫いている。

しかし平賀隆宗は騒ぐどころかカラカラと笑い始め、籠城が長引き腕が鈍ったのではと更に挑発を行う。

一射目で確かな手応えを感じていたためか心を乱し、二射目は平賀隆宗の肩を掠っただけで外してしまう。

このため平賀隆宗の勝利となり、約束通り城を明け渡すと出雲へ退いたとする。

 

但し、この一騎打ちは創作とされている。

平賀隆宗は前年に死去しており、平賀隆宗の弔い合戦とする大内方の猛攻を受け神辺城も既に落城しているため、合戦の見せ場とする物語が付け加えられたとも考えられる。

似た逸話として後漢の劉玄徳(劉備)紀霊の仲裁に呂奉先(呂布)が介入し、呂奉先が轅門付近に立てた戟に矢を射当てたなら両軍は兵を引くようにと提案し、見事射止めたため紀霊(袁術軍)は大人しく軍を引いた話がある。

 

1550年11月22日(天文19年10月14日)

神辺城から下城し出雲国月山富田城を目指すが、この報せを聞いた尼子晴久目黒秋光に500騎を付けて神辺城の奪還に向かわせる。

帰城の道中に目黒秋光と出合い、神辺城への攻撃に機も利も無いことを諭す。

目黒秋光は進退に窮したが、一人で平賀隆宗の元へと向かい自害することを選んだため、目黒秋光の足軽500騎を引き取り月山富田城へと引き揚げたとする。

 

陰徳太平記 巻第三十二 杉原忠興死去 付 妾貞順ノ事

備後州神邊の道の上の城主、杉原宮内少輔忠興は一年、平賀が為に城を去て雲州へ立退。尼子晴久を頼み居られけるが毛利、陶矛盾に及びし此、忠興、同名播磨ノ守盛重を以て元就へ申されけるば忠興事元就に対し全く心疎て在ず候。(略)忠興は先年、晴久吉田へ発向の時、城中へ使を差越たり。其志忘べからずとて平賀隆宗に断り給。忠興家城再入の儀を免じられ、忠興悦に堪えず。弘治元年に神邊道の上城へ帰入、軈て備中国へ打て上り国中を切従えんと深謀密策日夜に怠らずし所に忠興、其比より癆気のようにふらふらと煩けるが弘治三年の春に至て中風発して竟に卒去せられにけり。

 

1555年(弘治元年)

毛利元就の許しを得て毛利方へと恭順し、再び神辺城の城主に任じられ旧領の安堵も認められている。

 

1557年(弘治3年)春

中風(脳卒中)により死去する。

臨終の際、山名豊清の娘が妾であったとしている。

嫡男の杉原直良も既に亡くなっており、吉川元春の推薦もあって家督は家老の杉原盛重へと受け継がれた。(陰徳太平記 巻第三十二 播磨守盛重杉原家継事)

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