よみがな

人物名

あまご いよのかみ つねひさ

尼子伊予守経久

出身

出雲国

生年

1458年12月25日(長禄2年11月20日)

没年

1541年11月30日(天文10年11月13日)

朝臣

尼子

通称

伊予守

経久

官途

民部少輔、伊予守

幼名

又四郎(またしろう)

別名

尼子民部少輔(あまご みんぶのしょう)…官途「民部少輔」に因む。

 

佐々木伊予守(ささき いよのかみ)…当人の在地は確認できないものの支配が及んでいたとする地域(伯耆国内)の文書に見える。

所属

京極

大内

尼子

列 伝

出雲国の守護代であった尼子清定の嫡男。母は真木朝親の娘とする。

1458年(長禄2年)に出雲国で生まれたとされ、幼名は父と同じ又四郎

 

1474年(文明6年)、京極氏への人質として京極政経の元へと送られ5年ほどを京都で過ごす。

在京中に元服を迎え、この頃に京極政経の偏諱を賜ったとされる。

 

1478年(文明10年)、人質としての生活を終えると出雲国へ下向し、同年までには父の尼子清定より家督を譲られている。

家督を継承して暫くは京極氏の意向に沿った施政を施していたが、後に京極政経の寺社領を押領し、美保関の段銭徴収を拒むなど独立色を強めている。

並行して雲伯の国人衆とは誼を結び勢力の拡大を計っている。

 

1484年(文明16年)、性急すぎる権勢の拡大が一部の国人衆に留まらず、幕府や守護職からも反発を受け始める。

出雲国西部に基盤を持った塩冶氏と対立したために勢力の拡大が進まず、一時は守護代の職を剥奪されている。

この頃の動向には諸説あり、守護代の職を剥奪されただけに留まる説に加え、守護代の職の剥奪に加えて出雲国から追放されたとする説も見える。

出雲国から追放される説では出雲国の守護代に塩冶掃部介が充てられている。

 

1486年(文明18年)元旦、出雲国月山富田城では恒例の新年を祝う祭が催されている。

祝賀の舞を奉納する芸能集団、鉢屋衆の鉢屋弥之三郎と謀り、参加者の注目が舞に集まった頃合いを見計らうと一党を率いて城内へと放火する。

火の手を合図に鉢屋衆も隠し持った武器で民衆に襲い掛かかっており、城中が混乱する中、城主であった塩冶掃部介を殺害へと追いやっている。

塩冶掃部介を自刃させると月山富田城を奪取している。

 

1488年(長享2年)、出雲国の国人であった三沢氏を降伏させる。

この戦に於いて相当な戦力を保持していることから、先の守護代の職の剥奪に於いて出雲国を追放されたとする説は考えにくいとするが、月山富田城の奪取から時間が経っており、2年の間に軍備を増強し直すことも十分に可能と判断できそうである。

 

1500年(明応9年)、京極氏の家督相続争いに敗れ近江国から出雲国へ下向した京極政経を保護している。

京極政経を保護することで、親京極氏の勢力と一定の関係修復を行ったと推測される。

 

1508年(永正5年)、京極政経はこの年までに吉童子丸へと家督を譲り、同年死去。(異説に1502年(文亀2年)とも)

何れの没年の説でも和解をして晩年を出雲国で過ごしたとある。

吉童子丸の後見を託されるが、暫くの後に吉童子丸は所在不明となる。

この頃は出雲大社の造営に力を入れ、宍道氏との婚姻関係を進めるなど勢力基盤の拡大に努め、塩冶氏に対する戦備拡充を図っている。

同じ頃、伯耆国の伯耆山名氏への介入を始め本格的に伯耆国への侵入を進めたとされるが、既に伯耆国日野郡周辺では鉄の産出を確保するため在地国人と誼を結んでおり、蜂塚氏などとは文明年間(1484年より前か)頃からの接触も伺える。

 

伯州六郡郷村帳では時期不詳であるが伯耆国小松城の城主を「佐々木伊予守」と記している。

但し、本人の現地への居住は考え難いため広義の意味合いと捉えられ、伯耆山名氏の凋落に併せて段階的に伯耆国内への調略や実効支配が行われていたことが推測される。

 

1511年(永正8年)、大内義興の上洛に従い京都の船岡山合戦に参加したと伝える。

 

1512年(永正9年)、大内氏へと反旗を翻した古志為信を支援している。

 

1513年(永正10年)、弟の尼子久幸に伯耆国の南条宗勝を攻めさせている。

嫡男の尼子政久には桜井宗的の熾した反乱の鎮圧に向かわせるが、戦場受けた矢傷が元で尼子政久は命を落としている。

 

1515年(永正12年)、伯耆国の守護職であった山名澄之とともに在地土豪の大曽祢氏を討伐する。

同じ頃、伯耆国の守護代として尼子晴久が送られ、伯耆山名氏尼子氏の傀儡政権となっている。

 

1517年(永正14年)、石見国の前守護職、山名氏と結び、石見国の大内氏に対する攻撃を支援する。

同年には備中国北部の国人、新見氏と結び三村氏を攻撃している。

 

1520年(永正17年)、この頃には出雲国西部の支配権を確立するが未だ大内氏の影響力も残っており、以降は大内氏に対する備えを進めていくこととなる。

伯耆国も水面下では掌握が整っており、後に「大永の五月崩れ」と呼ばれる抵抗勢力の掃討を残すのみとなった。

 

1521年(大永元年)1月、山名澄之の名義で久坂山瑞泉寺へと相見郡柏尾村を寄進しているが尼子氏の意向に添うものであったとされる。

傀儡的な扱いに山名澄之は不満を募らせ、反尼子氏の勢力であった東伯耆の南条宗勝や美作国の国人衆を支援したとある。(東寺百合文書)

同年、石見国への侵攻を開始する。

 

1523年(大永3年)、安芸国への侵攻を開始する。

傘下であった安芸国の国人、毛利氏大内氏の安芸国鏡山城を攻めさせ落城させている。

 

1524年(大永4年)、軍勢を率いて西伯耆に侵攻する。

南条宗勝を始めとする反尼子派であった伯耆国の国人衆を敗走させ、山名澄之の降伏を以て伯耆国内の要衝を大方掌握している。

伯耆民談記では「大永の五月崩れ」として、一夜にして伯耆国内の諸城が陥落した電撃戦を伝えているが、解釈としては伯耆山名氏の軍勢が抵抗する力を失い、伯耆国平定のために尼子方が仕掛けた掃討戦を呼称したものであったと推測される。

 

1525年(大永5年)、昨年に勃発した相合元綱毛利元就の内紛と併せ、尼子方に与した安芸国の国人が大内氏に敗北すると毛利氏大内氏へと所属を変えている。

 

1526年(大永6年)、大永の五月崩れによって伯耆国を手中に収めたが、伯耆国の守護職、山名澄之による反尼子勢力への支援の継続、毛利氏の離反による安芸国及び大内氏の勢力再編による備後国の情勢変化により雲伯国境線に対する包囲が一段と厳しいものとなる。

 

1527年(大永7年)、軍勢を率いて備後国へ出兵するが陶興房に敗走する。

尼子方の敗走を受け備後国内の尼子方国人衆の大半が大内氏へと寝返ることとなり、遠征によって敗戦以上の更なる事態の悪化を招いてしまう。

 

1528年(享禄元年)、再び備後国へと出兵し、此度の遠征では多賀山氏を撃破している。

 

1530年(享禄3年)、三男の塩冶興久が反乱を熾し内乱となる。

双方が大内氏へと援軍を要請する事態となったが、内乱の副産物として大内氏との和睦が成っている。

 

1534年(天文3年)、塩冶興久による内乱は鎮圧され塩冶興久は自害したとされる。

同時期、隠岐国の国人、隠岐為清による反乱が起きるも早期の内に鎮圧されている。

 

1537年(天文6年)、家督を孫の尼子晴久へと譲っている。

 

1541年11月30日(天文10年11月13日)、月山富田城に於いて死去。

 

謀聖と渾名される程の策略家と称される一方、武芸、芸術に長けた文武両道の人物とも伝えられ、自身の自画像も残している。

家臣に対しても気配りのできる優しい人物とされ、財物に対する頓着もなく家臣にすぐ与えてしまうといった逸話も見られる。

三国志に登場する夏候元譲のような性格が見え「天性無欲正直の人」とも評される。

一方では倹約家(ケチ)とする一面もあり、家臣が瓜の皮を剥く際、厚く切る(皮に実が残る)ことに我慢できず自ら薄く切っていたとする話も見える。

 

俗説には「中国地方十一ヶ国の太守」などと登場し、十一ヶ国(出雲、石見、隠岐、安芸、備後、備前、備中、美作、伯耆、但馬、播磨)を治めたと誇張されるが、実情は安定して治めることができたのは石見東部~伯耆国の山陰地方と備中北部の限られた地域であったとしており、太守とするよりは十一ヶ国に亘って戦跡を残したとする方が妥当としている。

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