武将列伝帖

やまな さがみのかみ すみゆき

山名相模守澄之 / 山名相模守澄幸

【氏】【姓】朝臣【名】山名【通称】相模守【諱】澄之

別 名

出 身

不明

官 途

相模守

所 属

伯耆山名氏

生 年

不明

没 年

1533年(天文2年)

 

- 列 伝 -

山名之弘の子で伯耆国の守護職。伯耆国打吹城、伯耆国富繁城の城主とする人物。

伯耆国の守護職に就任した際に足利義澄より偏諱を受けたとされている。

 

伯耆国の守護職であった山名之弘だが、東軍に属した赤松氏らの影響を受けたことにより守護職を解任されている。

このため一族は反守護の立場を取ることとなり、父の代からの抗争を引き継ぎ伯耆国守護職の座を巡って山名尚之と内乱状態に陥る。

援助を称した尼子経久の介入もあり、内乱に勝利すると山名尚之の勢力は衰退していくこととなる。

 

1506年(永正3年)、12月までには伯耆国の守護職に就いたとされるが、守護代として尼子晴久を送られていることから守護職とは名ばかりの飾りであったことが伺える。

 

1515年(永正12年)、この頃は富繁城外構城)に居城したと伝わる。

同年2月19日、尼子経久とともに在地土豪の大曽祢才徳丸大曽祢修理亮らと戦いこれを討つが、この頃には尼子氏が西伯耆への調略を水面下で大方完了させている。

尼子氏は日野郡を直轄領とし日野衆に好待遇を与え懐柔、山名尚之の被官であった有力国人衆(伯耆衆)は次々と国外へと追放、或いは退去となり、尼子氏の政治基盤が強固になると同時に伯耆山名氏の影響力は急速に殺がれていった。

 

1521年(大永元年)1月、久坂山瑞泉寺へ自身の名義で相見郡柏尾村を寄進しているが、既に尼子氏伯耆山名氏を凌ぐ影響力を持っていたとされることから尼子経久の意向に沿った上での寄進であったと考えられる。

長年の傀儡的な待遇に不満を募らせると尼子氏との決別を模索し、南条宗勝が率いる東伯耆の国人衆や美作国の国人衆など反尼子勢力への支援を行っている。(東寺百合文書)

 

1533年(天文2年)4月28日の記録を最後に消息が途絶えることからこの頃に死去したものと推定される。

死後、支援した反尼子勢力も解体され、伯耆国のほぼ全土が尼子氏の支配下となっている。

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