所 属

伯耆山名

よみがな

人物名

やまな うまのかみ ゆきひろ

山名右馬頭之弘

官 途

右馬頭

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

之弘

列 伝

山名教之の三男で伯耆国の守護職であったが後に解任され反守護勢力となる。

兄に山名豊之山名豊氏、弟に山名元之山名小太郎、子に山名澄之

 

1471年(文明3年9月)

伯耆国の守護職であった長兄、山名豊之が由良島で殺害される。

 

1472年(文明4年)

山名豊之の殺害、山名教之山名持豊の健康状態を鑑みた為とするなど詳細は不明だが、京より伯耆国へ下向するよう要請を受けたとしている。

異説には既に伯耆国へ下向したとする解釈も見える。

 

1473年(文明5年)

父の山名教之、当主の山名持豊が相次いで病没すると伯耆国の守護職を継承する。

次兄の山名豊氏山名熈幸の養子となり因幡国の守護職を継承しており、相続対象から外れていたための承継であったとする。

 

1473年10月10日(文明5年9月19日)

伯耆国への下向に先立って近江坂本に滞在。

 

1473年12月10日(文明5年11月21日)

伯耆国の円福寺等の諸役を免除し禁制を掲げている。

 

伯耆国の守護家は西軍に属していたことから美作国での赤松政則の旧領回復を防ぐ立場であったが、逆に赤松氏ら東軍の影響を受けたことにより守護家の家中から正当な家督継承とは認められず解任され、弟の山名元之が伯耆国守護職を引き継ぐこととなった。

この出来事の前後、反守護を掲げると守護家との内乱へ発展し抗争は子の山名澄之の代へと引き継がれている。

 

山名教之山名持豊の死去により家中が混乱する中で守護職を継承するが、赤松氏に通じたことから在職期間は3年程であったとされ、守護職を解かれた後の消息は不明としている。

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