伯耆国 汗入郡
とみしげじょう
富繁城
所在地
鳥取県米子市淀江町富繁
城 名
富繁城(とみしげじょう)
別 名
外構城(とがまえじょう)…伯耆尾高城の外構えの城であることに因む呼称。往時の外構村に因む呼称とも。
亀山城(かめやまじょう)…所在する地名に因む呼称。
築城主
伯耆山名氏(福頼藤兵衛の一族とも伝える)
築城年
不詳(室町時代~戦国時代と伝える)
廃城年
不詳
形 態
山城
遺 構
郭跡(帯郭)、堀切、土塁、竪堀
現 状
畑地、山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
富繁城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
御巡見様御廻手鏡
汗入郡川西神社御改帳(正徳6年)
在方諸事控
宇田川村史(大正4年9月 鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)
汗入史綱(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)
淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)
概 略
1773年(安永2年)、富繁村への改称前は外構村と呼ばれ、集落近くの丘陵(旧字「要害」)に所在したと伝える。
旧字「要害」は北側の「西前山」、南側の「中ノ山」、「天神山」が一列に並ぶ要衝で、「要害」と「中ノ山」、「中ノ山」と「天神山」はそれぞれ堀切で絶たれていたと推測され、字「堀越」、旧字「堀尻田(ほうじだ)」と堀跡を連想させる字名も見える。
南端には安泰寺が鎮座したとされ、旧字「寺坂」、旧字「弓坂」が大手の通りであったと伝わる。
改称前の村名は城郭の防御を担ったことに由来する外構(戸構)から来たとしており、伯耆国尾高城に属した防衛拠点と推測されている。
但し、当城からすぐ西には福頼氏の拠点と伝わる伯耆国福頼城が所在しており、築城主を福頼藤兵衛の一族と伝える伝承もあることから福頼城を防衛するための前哨施設であった可能性も推測される。
従来説では小規模な単郭城砦として扱われているが、近年の考察では主郭南側や農道を挟んだ北側の山中(西前山)にも遺構が広がるとされ、隣接する福頼城と合わせることで城域規模の認識が改められる可能性もある。
汗入郡川西神社御改帳
(一部抜粋)
一.天神、古城弓坂に鎮座 一.正八幡宮、古城に鎮座 一.荒神、村より西方に鎮座 一.花八幡、徳兵衛屋敷に鎮座
1716年(正徳6年)に記された汗入郡川西神社御改帳では天神山(弓坂)に天神社、古城跡(旧字「要害」)に正八幡宮、徳兵衛屋敷(所在地不明)に花八幡が鎮座とあり、正八幡宮は城砦鎮護のために勧請されたとしている。
天神は菅原道真、正八幡宮は誉田別命(ホンタワケノミコト)を祀っていたが1868年(明治元年)、明治維新後に富繁神社と改称し、社地は正八幡宮が所在した旧字「西ノ前」に鎮座とする。
後に宇田川神社へと合祀され、現地は八幡さんや宇堂(うど)と呼ばれる。
諸事控では城域内に八幡宮跡が所在したとしている。
八幡宮は山名澄之が城主の時に勧請とすることが1801年(享和元年)に奉納された神鏡の鏡箱の文に見えたとしている。
伯耆山名氏の没落と併せて八幡宮も荒廃したとされるが、帰農した森本家によって屋敷内に再建され氏神として再び崇敬を受けたとある。
御巡見様御廻手鏡 外構村の条
古城一ヶ所 城主不知。
御巡見様御廻手鏡では城主を始め仔細を不詳としている。
城主に伯耆国守護職の山名澄之が伝えられるが築城年は不明。福頼藤兵衛の一族による築城とも伝えている。
築城初期は丘陵の四周を削り切岸を設け、頂部を馴らした単郭城砦であったとされるが、主郭が所在したと伝わる丘陵(旧字「要害」や旧字「上田屋敷」)は土砂採取のため平削され現在は畑地へと改変されている。
採取された土砂は学校のグラウンドなどの造成に使われたとされ、主郭が所在したとされる場所の一角には1783年(天明3年)に建立(造立富繁村古城 天明三歳葵卯三月)されたと伝わる石碑(奉書写寿量品一字一石塔)が残る。
石碑には「富繁の文字に叶へよ若緑」の一句が刻まれている。
伯耆山名氏の滅亡後は家臣であった森本家と柿原家が当村へ帰農しており、森本家は森下道誉と縁があるとしている。
森下道誉が一時期在城したとも伝えているが、1581年(天正9年)、第二次鳥取城の戦いでは但馬山名氏の重臣として参戦している。
町政百周年記念 淀江風土記 外構村の条
古城并屋舗跡有り。
外構村に関する記述に1734年(享保19年)の古記録として古城及び屋舗跡の存在が伺える。
村名の改称に富繁の佳号を選んだのは村の医師、福島玄丹としている。 (宇田川村史、淀江町誌にも同様の記述あり)
1633年(寛永10年)の時点で外構村は11件(寺一、蔵一を含む)の小村であり、土地は狭い上に開発済みの区画が多かったため新田開発も行えず、生産高は殆ど増加しなかったとある。
山林が少なく水利も悪いなど条件に恵まれなかったことから戸数は増えず、村落の経営も相当に厳しかったこともあり、他村としばしば争いになることがあったとしている。
幕末の頃には村落の窮状は更に悪化していたようで、今津村の田中六郎兵衛(後の松波徹翁)や淀江村の豪農による土地買収を受け村民の生活はますます苦しくなったとしている。
写 真
2013年5月26日、2014年11月3日