伯耆古城図録

ふくよりじょう

福頼城

鳥取県米子市淀江町福頼

別 名

左衛門邸(さえもんてい)

遺 構

消滅(郭跡、土塁など館跡があったと云われる)

現 状

畑地、宅地

城 主

(伯耆山名方)福頼上野守福頼氏

(尼子方)福頼氏

(毛利方)福頼藤兵衛福頼左衛門尉福頼氏

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

形 態

丘城

備 考

史跡指定なし

参考文献

宇田川村史(大正4年9月 鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)

汗入史綱(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)

淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)

米子史談

大山雑考

町政百周年記念 淀江風土記(平成元年12月 淀江町役場)

角川日本地名大辞典 31 鳥取県(昭和57年12月 角川書店)

縄張図

不明

 

概 略

伯耆福頼氏累々の居城、或いは居館と伝えられる。

 

御巡見様御廻手鏡 福頼村の条

古城主、福頼左衛門尉

 

大山雑考

福頼上野守沙弥、宇田川村福頼の城主なるべし。

 

御巡見様御廻手鏡では城主を福頼左衛門尉としているが、福頼元秀とするか福頼左衛門とするか詳細は不明。

大山雑考では伯耆福頼氏の祖とする福頼上野守が城主としている。

 

汗入史綱

高麗山下には毛利方の福頼藤兵衛が居り交通路を守っていた。毛利氏の四国遠征に際して伯耆国内の毛利勢が手薄になったところを伯耆国尾高城の奪還を切望していた行松二郎四郎によって当城は攻められ陥落。福頼藤兵衛は逃亡したと云われる。当城の落城後、天正13年7月14日早朝から香春山の合戦が行われた。

 

宇田川村史

大永四年の五月崩れで福頼城に居た福頼左衛門も大敗した。後に福頼氏は毛利氏を頼って此の城を回復せんと香原山に尼子氏と戦うが得る所なくてこの地を去ったとされる。

 

汗入史綱では香原山合戦の前哨戦に関する記述が見え、南条氏の文書にも1585年(天正13年)、南条元続行松二郎四郎福頼の城を攻めさせたことが記述に見える。

宇田川村史では毛利氏を頼り尼子氏と戦ったとしていることから、山中幸盛が率いた尼子再興軍との戦が伯耆国淀江城、伯耆国稲吉城、伯耆国寺内城、伯耆国末吉城の他、当城にも及んでいたことが伺える。

 

一部の資料では城跡として現地が推定されている。

福頼村の地名に字「村屋敷」が見え、城砦の所在した有力な場所と推定される。

また、平岡村にも古城跡があったと伝わり、当城が福頼と平岡に跨っていた可能性も推測される。

 

福頼村(汗入郡)と平岡村(会見郡)の村境には堂社があり、その境内の石の宝殿内に宝篋印塔が3基安置してあると記される。

(3基の宝篋印塔は現在、福平公民館に移されている)

伝説には宝篋印塔を福頼左衛門の墓碑とした出陣に臨んでの逆修とも伝えられる。(宇田川村史)

150年前までは福頼左衛門の邸宅の跡があり、土塁の一部が残っていたと記している。(淀江町誌)

 

年 表

不明

福頼上野守が在城とされる。

不明

在地豪族福頼氏の城砦、或いは居館が所在したとされる。

1569年~1570年

永禄12年~元亀元年

尼子再興軍によって占拠されている。

福頼氏は当城の回復を図り、毛利方の助力を得て伯耆国香原山城周辺で戦うが戦果なく撤兵している。(宇田川村史)

1585年

天正13年

毛利方の福頼藤兵衛が当城に拠り街道の監視・防備を担ったとされる。

伯耆国尾高城の奪還を目指す行松二郎四郎の攻撃を受け落城したとされるが、この戦が香原山の合戦の前哨戦とも云われる。

地 図

 

写 真

訪城日 2014/11/03

平岡側からの眺め

福平公民館の宝篋印塔

宝篋印塔周辺

産土神を祀った社

伝・福頼左衛門逆修墓

宝篋印塔周辺

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