伯耆古城図録

かわらやまじょう

香原山城 / 河原山城 / 香春山城 / 加和良山城 / 瓦礫山城 / 瓦山城

鳥取県西伯郡大山町宮内

別 名

高麗山城 / 韓山城(からやまじょう / かあらやまじょう)、孝霊山城(こうれいさんじょう)

別名(備考)

香原山には多くの別名が存在するが把握できる典拠は以下の通り。

・香原山(陰徳太平記)…作中での表記には基本的にこの漢字が当てられている。読み方は「かわらやま」

・河原山(宮本家文書)…福頼左衛門への感状に見える。読み方は香原山と同様に「かわらやま」

・加和良山(和名抄)…瓦の音読の当て字。読み方は「かわらやま」

・瓦礫山(大山寺の古図)…孝霊山を記している。

・高麗山(民話、伝承)…「こうれいやま」「こうらいやま」「こうらやま」「こーらやま」などと呼ばれる。

・高霊山(大山眺望絵図)…1797年(寛政9年)に片山楊谷が大山寺山内からの眺望を描いた絵図に図示。

・孝れい山(会見郡大庄屋村支配図)…1843年(寛政9年)の絵図に図示。

・瓦山(古地図)…1879年(明治12年)の古地図に高麗山と併記される。この頃は「かわらやま」と呼称したと考えられる。

・光廉山(絵図)…1907年(明治40年)の古地図に図示。

・光霊山(鳥取県全図)…1909年(明治42年)の地図に図示

・韓山(民話、伝承など)…朝鮮半島から運んだとする伝承に見える。「からやま」「かあらやま」「かーらやま」などと呼ばれる。

・孝霊山(現在の地名)…標高751.4m(頂上碑より)の孝霊山の呼称。読み方は「こうれいさん」

・香春山(不明)…一部の文献には見えるが伯耆国内での使用はあまり見られない。福岡県田川郡の香春岳に由来?

・高良山(古代史)…高良神を信仰したとする仮説を当てた呼称。

遺 構

郭跡、土塁、虎口、土橋、切岸

現 状

山林、原野

城 主

(名和方)林元親

(毛利方)福頼元秀福頼藤兵衛

(南条方)行松次郎四郎

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

陰徳太平記(香川正矩 合本巻之四 明治44年5月 犬山仙之助)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)(昭和35年3月 印伯文庫)

田蓑日記(文政5年 衣川長秋)

宇田川村史(大正4年9月 鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)

宮本家文書(大正13年7月)

郷土誌 長田 -1974-(昭和49年 郷土誌長田編さん委員会)

文化財シリーズ 高麗山麓(長田篇)-1974-(昭和49年 大山町教育委員会)

名和町誌(昭和53年 名和町誌編さん委員会)

大山町誌(昭和55年10月 大山町誌編さん委員会)

大山町の文化財 孝霊山(2002年3月 大山町教育委員会)

続大山町誌(平成22年9月 大山町誌編集委員会)

続名和町誌(平成22年 名和町誌編集委員会)

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

大山町文化財ガイドマップ

縄張図

香原山城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

口碑では古代、城山と呼ばれる場所に宇田川湾へ漂着する大陸からの船を監視した施設が所在したと伝わる。

城山は孝霊山の東峰、免賀手山の頂上500m余の地にある古城跡が推定され、城砦の始まりはチャシ(古代監視塔)としている。

 

チャシとはアイヌ語、或いは古代朝鮮語で見張の施設を意味する。

平時は祭事の場、戦時は山城として外敵を防ぐ役目を持った先住民族の遺跡とされ、北海道や東北地方、千島列島や樺太地方に多く分布する築造物だが山陰地方では稀な存在とされている。

中国大陸や朝鮮半島との交易には必要な施設であり、海上交通を監視するために築城されたとも推測されている。

 

山頂部の平坦地が主郭と推測され、主郭法面は切岸の加工を行った上で周囲を帯郭で囲み、更に防柵を配したと考えられる。

南側、北側には出丸として腰郭が置かれ、それぞれ数段の段丘を構えており、出丸に到達するまでの道中の傾斜は急勾配、谷も深く急峻な地形を利用した堅固な要害は白兵戦やゲリラ戦にも強い構造となっている。

頂上からの眺望は絶佳で東は因伯国境、西は雲伯国境に中海や美保関、南は大山、北は日本海と隠岐ノ島と全方位が一望でき、見張施設としても十分な機能を備えている。

 

長田邑付近には向山古墳群(方墳1基、前方後円墳2基、円墳21基)が存在し、古墳時代頃(弥生時代頃とも)には既に有力な豪族が一帯を支配していたことが伺え、郷原千軒の一角が当城の城下町と推定されている。

 

文化財シリーズ 高麗山麓(長田篇)-1974-では五輪の北東に「蛇の尾」という地名があり、「城の尾」の事ではないかとしている。

頂上には荒松家の墓があり、当城をこの墓の周辺としている。(五輪の位置は不明)

 

その他、城跡に関係しそうな地名が多く残る。

(宮内地内)的場、馬乗馬場、白辻(城辻)、千人斬、刀洗い

(長田地内)城山、上要害ケ平、中要害ケ平、下要害ケ平、古館(ふるだて)、観音平(観音ケ平)、堂山、太刀洗い、切首(首切)、大首、首潟(首かた)、斬伍、伍五郎、馬渡り

 

主郭は免賀手山の上要害ケ平(かみようがいがなる)に所在し、尾根に沿って北に進むと中要害ケ平、下要害ケ平となる。

更にその先は観音ケ平(かんのんがなる)となり、比較的広い郭跡が見えることから平時の居館が所在した場所と考えられる。

古くは玉簾山清見寺の跡地で北側は急峻、後方の免賀手山に続く道には基壇や列石、溝状の遺構が遺るとされるが、遺構や遺物については近年まで御大師山として地蔵が祀られていたとし、山城に関する遺構とは断定できないとしている。

 

玉簾山清見寺は前身を夕陽山朝頭妻寺(朝妻寺)とし、1083年(永保3年)に長田村の玉田文六なる信仰家の夢想により、朝妻寺の本尊であった千手観音を字「観音ケ平」に廃頽するを概し玉谷の堂山に移祭したとされる。※1082年(永保2年)とする記述も見える。

註釈では観音ケ平を古城跡とし、東西谷深く、上平かにして二段の平地を造り、宇堂建立の跡二ヶ所、塞路の一部も残り礎石二間、四面に残り、孝霊山当方、免賀手を背景に半島形の平坦地としている。(郷土誌 長田 -1974-)

 

字「観音ケ平」から北に降ると字「堂山」があり、朝妻寺の千手観音が移されたとする場所で城跡と推定され、削平された台地や墓石が遺る。古墳も200基余が存在するとされている。

麓には長田神社が鎮座しており、明治初年頃に末社の山ノ神、熊野権現、天神を合祀したと云われている。

神社周辺は古代の住居跡も多数発掘されており、鳥取県内で最も標高が高い集落跡とされている。

 

名和氏紀事

元弘三年、香原玄蕃允元親なるもの香原山に在り。

 

伯耆民談記の記述では南北朝時代に林元親が居城し、船上山の合戦では中立を堅持し動かなかったとされる一方、名和町誌では名和氏に従ったとしている。

 

宮本家文書(毛利輝元 吉川元春 感状)

村上天皇二十七代の後胤、村上遠江守始め大内義隆公御下に罷成。度々戦功有。伯州汗入郡香原山の城主なり。即ち山下の福頼と申所に居住す。故に里の名を名字に改め福頼左衛門と号す。即ち天正の頃、同国久米郡にて千七百石知行。

 

御巡見様御廻手鏡 宮内村の条

古城主福頼左衛門尉

 

御巡見様御廻手鏡や宮本家文書では福頼元秀を城主としている。

陰徳太平記の香原山の戦いでは福頼元秀の存在は見えず、城主であった福頼藤兵衛は1日も持ち堪えることができず敗走している。

その後、牛尾春重吉田元重の活躍が大きく描かれる。(陰徳太平記)

 

宇田川村史では福頼元秀を城主とするが圧倒的な戦力差に怖気づくと城に火をかけ遁走し、部下であった福頼藤兵衛は戦死している。

また、落ち延びた福頼元秀毛利元康の援軍を引き連れてきたこととなっている。

 

陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事

伯耆ノ国香原山の城には福頼藤兵衛、僅か百騎許にて籠居ける。

南條伯耆守元続、秀吉公の威光を奉り頼みて本国羽衣石に帰入しけるが今、吉川、小早川の四国渡海の隙を窺い行松入道が次男、次郎四郎を将として一千騎を以て攻たりければ福頼、僅か一日戦いて敵の多勢にや臆しけん。

 

同七月九日の夜、城を落しける間、行松、頓て入代りぬ。

近辺に在ける牛尾大蔵左衛門吉田肥前守、此由を聞て「香原山を敵に取られて一日も足を溜めさせん事、吾々が勇拙き所也」と、諸人の嘲難を逸け押寄て討つなりと犇めきける。

二人が勢合する共は三百に足りず、雲州富田に元秋の死後、弟元康在城なれば彼所に囃し合せばやとて云々の通り云送りける。

元康、来たる十四日、香原山へ出張すべきと約諾したれける間、両人も其日を待ち打出んとす。

元康、十四日の早朝に八百騎を帥いて香原山近くへ打出られしに、両人いまだ出張せざれば元康、吾、僅かの勢にて戦を挑み敵に利を付けん事重きて軍せんに害なるべしと頓て討入被たり。

同日の晩景に至て牛尾、相図違わずと七十許にて打出れば大坪甚兵衛境與三右衛門も近辺に在ける故、牛尾と一手に成て馳来り。

各香原山近き所にて里人に様体問えば云々にて候と答ふ。

是を聴て牛尾、吾、泉山を出しより香原山を陥さずば二度と立帰らじと思定めたれば、設使敵百萬騎在共一足も引く事はあらず。

百騎にも足らん小勢にて一千騎の敵を山上に引受けながら少しも臆せず屯を張ける。心の程こそ不敵なれ。

吉田肥前守尾高の城を出て約束の日を違わずと急けれ共。餘に小勢なれば近辺の味方共を催促する程に爰、彼所にて猶豫し其日は路上に行暮れし。香原山を避けること三里許にして一夜陣をぞ居ける。

牛尾は家人共をば陣具を求め山野村里に遺し、吾身は大坪を相共に十四、五人にて小さき固屋の中に居たりけるを城中より此れを知りて百人許りが押寄たり。

牛尾等、少も疼ず鉄砲四、五挺を前に立て、持かけけるに野山に在ける家人共、遥に之を見て敵こそ寄れとて吾も吾もと馳帰ける間、敵一堪も堪ず引けるを追蒐て三人討ちとり、軍神の血祭にせよと物初めよしとぞ勇みける。

明れば十五日の早天に吉田、百五十許にて着陣し、牛尾、七、八十許にて在けるを見て哀れ至剛の者哉。吾に十倍したる敵を而も頭上に置て一夜堪えける事は項羽の勇を肝膽に蓄へたる者哉と。

 

甚威称し立入て昨日の合戦の様を聞き、三ノ首を見て弥威歎し覚ず吐舌絶倒する程に城中には牛尾吉田が出張すと聞れなば昨日の元康も亦引返し出被なり、然ば近辺の敵勢共、漸々に重なりて味方大事に及ばず。

先ず急に吉田牛尾を切崩せよや。一陣破れなば残党は多也と雖も矢の一つでも放らず逃走すべきぞとて。五百騎にて打出只一に討取らんと進んだり。

吉田牛尾、二百五十許にて渡り合い、一戦の間に追立直付入に乗っ取らんとする勢いを見て、敵叶い難しやと覚えけん。

螺吹いて逃げたりける。かかれば牛尾吉田も後陣の勢続を待てこそ城をぞ乗っ取りけれ。其間は藉使弱敵たり共侮ること非ずとて吾先に陣を堅固にして居たりけるに、行松とても叶わずもの故に長居せんは身の大事也と思い同夜半許忍て城を出て羽衣石へと入りにける。

 

寄手の忍を物聞を出し置きたれば、敵こそ落れと告げる程に吾先にと乗入けれ共に足早に退きける。

其間、引後れたる兵共百餘人を討ち取りけり。爰に坂手新允と云ふ者あり。初めは杉原元盛が家人也し故、常に中原彌介と先を争ひしが今、南條を頼て在ければ今日も打て出たり。新允人は皆引けれ共、中原に逢て勝負を挑んと思ひ、一村薄の陰に隠れ居て中原や来ると待居たる。

彌介、其此は風気を煩ひて四国へ渡らず己が宿處に在ければ香原山へ押寄ると聞て吉田が館へ赴き同道して打出る味方に下知して落行く敵を討取けるを見て、坂手、驚破あれこそ中原なけれ天の輿へを得たりと悦んで唯今其許に大音揚て物宜ふは正しく中原彌介殿と聞えし候はいかに。

斯申は坂手新允にて候。一方打破て落べき事は何より以易う候へ共。御辺当城へ御出になる間、待受一太刀打て。

近年、杉原家に於て度々先の争に勝劣を決めんと存じ、今まで此に控えて候。いざ一勝負参り候。はんとて薄推分飛で出たる有様。其の長六尺許の大の男。三尺餘りの大太刀軽げ引っ提げたるは目に見ぬ鬼の姿を顕したるにや。又は側近き大山の天狗や化生しらんと。

さしもの中原も寒毛卓竪する許な也。彌介鑓提て「あら珍しの坂手殿や。某も御辺に参り逢ばやとこそ存候つれとて」。

唯一、鎗にと突いて蒐るを見て彌介が仲間一人、主を討せじと中に隔て馳向けるを坂手、只一打に諸膝薙倒し。

太刀引所を大王寺彌四郎、朋輩を討せ口惜や思けん。透間なく鎗にに突て懸るを坂手、鎗のしを頸打側め、彌四郎が眉間を太に切ける所を中原つと馳寄て、新允が草摺係て寸と付貫ける間、さしも関羽が勇を震し坂手も犬居に動と居り。

太刀を振上げ鎗の柄を切らんとしけるを中原、重ねて突ける程に今は叶わずとや思わん。

持たる太刀を中原に拗付て伏たりければ彌介、推へて頸をぞ掻たりける。哀れ大剛の者やと人挙て威称せり。

中原、此彼頭三つ打取りぬ。彌四郎も手は負たりけれど浅手なれば落人二人を討ち取り、吾身の命は恙も無かりけり。

吉田が手へも頭七十餘を討ち取り、牛尾も五十餘を得たり。

右て香原山に軍士を込め置きて南條や寄ると待懸けれ。其元続、叶難や思けん。其後は勢を出す事も無けり。

 

陰徳太平記では伯耆国内で行われた最後の大規模な戦闘と伝わる香原山の戦いについての記述が見える。

 

前半では城主の福頼藤兵衛が100騎で行松次郎四郎の率いる1,000騎へ挑むが10倍の戦力差に敵わず城を捨て遁走している。

陰徳太平記には福頼元秀が登場せず、福頼藤兵衛も撤退後の詳細な描写は見られない。(福頼元秀福頼藤兵衛に係る詳細は宇田川村史や準ずる書物に見える)

牛尾春重吉田元重の活躍が大きく描かれ、毛利方に大した被害もなく戦は終結している。

 

後半は互いに杉原家の家臣であった毛利方の中原彌介と南条方の坂手新允の物語となっており、この章が付け加えられることで前半の香原山の合戦も創作や誇張である可能性を考えさせられる。

 

年 表

不明

中国大陸や朝鮮半島から渡海してくる船舶の監視を行った施設が始まりとされる。

1333年

元弘3年

林元親が居城。(名和氏紀事、伯耆民談記)

1585年

天正13年

7月9日、南条元続の支援を受けた行松次郎四郎が伯耆国尾高城の奪取を目指し西伯耆へ侵入。

その日のうちに当城を攻撃し落城させるが尾高城へは向かわず、1,000騎を駐屯させている。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

 

7月14日の早朝、牛尾春重吉田元重らの援軍要請に応じた毛利方の毛利元康を大将とした援軍800騎が到着するが、牛尾春重吉田元重両人の到着が遅れており、連携無しに攻めるは自軍の損害も大きくなると攻撃に出ず、待機し陣を敷くに留めている。

同日夜、牛尾春重率いる部隊が到着し、単独で攻撃を仕掛けている。

吉田元重は募兵が不十分として街道で陣を敷き、部隊の再編を行っている。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

 

7月15日、吉田元重の率いる部隊が到着し、既に到着していた牛尾春重と部隊の勇姿を見て古の猛将、項羽のようだと評している。

同日、吉田元重の着陣と先日の牛尾春重の活躍を聞いた毛利元康が出陣、行松次郎四郎の撤兵を以て再び毛利方が城砦を奪還している。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

地 図

 

写 真

訪城日 2020/02/02、2020/03/13、2020/03/21、2020/06/10

写 真

訪城日 2019/03/18(観音ケ平の列石)

写 真

訪城日 2014/11/15(孝霊山登山)

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