伯耆国 汗入郡

かわらやまじょう

香原山城

鳥取県西伯郡大山町宮内 香原山城

所在地

鳥取県西伯郡大山町宮内

城 名

かわらやまじょう

香原山城

陰徳太平記の表記

別 名

かわらやまじょう

河原山城

宮本家文書(福頼左衛門感状)での表記

 

かわらやまじょう

香春山城

汗入史綱での表記

 

てんしゅやまじょう

天守山城

汗入史綱に別名とする

 

こうれいさんじょう

孝霊山城

孝霊山への所在に因む名称

山 名

かわらやま

香原山

陰徳太平記の表記

 

かわらやま

河原山

宮本家文書

 

かわらやま

香春山

汗入史綱での表記

 

てんしゅやま

天守山

汗入史綱に香春山の別名とする

 

かわらやま

加和良山

和名抄で瓦の音読の当て字

 

かわらやま

瓦礫山

大山寺の古図で孝霊山を示す

 

こうれいやま/こうらいやま/こうらやま/こーらやま など

高麗山

民話、伝承など 「やま」を「さん」とも読む

 

こうれいさん

高霊山

1797年(寛政9年)の大山眺望絵図(片山楊谷)に図示

 

こうれいさん

孝れい山

1843年(天保14年)の会見郡大庄屋村支配図に図示

 

かわらやま

瓦山

1879年(明治12年)の古地図に高麗山と併記

 

こうれんさん

光廉山

1907年(明治40年)の古地図に図示

 

こうれんさん

光霊山

1909年(明治42年)の鳥取県全図に図示

 

からやま/かあらやま/かーらやま など

韓山

民話、伝承で朝鮮半島から運んだとする

 

こうれいさん

孝霊山

現在の地名で標高751.4m(頂上碑より)の呼称

 

こうらさん

高良山

古代史で高良神を信仰したとする仮説

築城主

不詳

築城年

不詳

廃城年

不詳

形 態

山城

遺 構

郭跡、土塁、虎口、土橋、切岸

 

上要害ケ平、中要害ケ平、下要害ケ平、古館、観音平など

現 状

山林、原野

備 考

史跡指定なし

縄張図

城 主

名和

1333年(元弘3年/正慶2年)、船上山の戦いには参加せず中立を堅持(名和氏紀事)

城 主

毛利

1585年(天正13年)、行松次郎四郎に敗れる(陰徳太平記)

城 主

毛利

1585年(天正13年)、行松次郎四郎を迎撃するが討死(陰徳太平記)

城 主

南条

福頼藤兵衛を討ち取り一時在城(陰徳太平記)

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)

陰徳太平記(香川正矩 合本巻之四 明治44年5月 犬山仙之助)

宮本家文書(天正13年7月)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

田蓑日記(文政5年 衣川長秋)

御巡見様御廻手鏡

出雲文庫第三編 和譯出雲私史(大正3年9月、大正13年9月第2版)

汗入史綱(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)

宇田川村史(大正4年9月 鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)

郷土誌 長田 -1974-(昭和49年 郷土誌長田編さん委員会)

文化財シリーズ 高麗山麓(長田篇)-1974-(昭和49年 大山町教育委員会)

大山町誌(昭和55年10月 大山町誌編さん委員会)

続大山町誌(平成22年9月 大山町誌編集委員会)

名和町誌(昭和53年 名和町誌編さん委員会)

続名和町誌(平成22年 名和町誌編集委員会)

大山町の文化財 孝霊山(2002年3月 大山町教育委員会)

淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)

新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

年 表

不明

中国大陸や朝鮮半島から渡海してくる船舶の監視を行った施設が始まりとされる。

1333年

元弘3年/正慶2年

林元親の居城とする。(名和氏紀事、伯耆民談記)

戦国時代

高尾谷より水道が通じる要衝を福頼元秀が守備とする。

1585年

天正13年

8月4日(旧暦7月9日)

南条元続の支援を受けた行松次郎四郎が伯耆国尾高城の奪取を称して西伯耆(汗入郡)へと侵入する。

同日夜には福頼藤兵衛を破り当城を落城させるが尾高城へは向かわず1,000騎を駐屯させている。

毛利方の牛尾春重吉田元重は出雲国月山富田城毛利元康に援軍を要請している。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

福頼藤兵衛は山中で討死し、福頼元秀は落延び尾高城或いは備中に援軍を求めている。(宇田川村史)

 

8月9日(旧暦7月14日)

早朝、毛利方は牛尾春重吉田元重の援軍要請に応じ、毛利元康を大将とした援軍800騎を派遣している。

牛尾春重吉田元重の部隊は合流地点への到着が遅れており、毛利元康は連携無しに攻めるは自軍の損害も大きくなると判断したことから攻撃には出ず待機して陣を敷くに留めている。

同日夜、牛尾春重の部隊は戦場へと到着するが援軍とは合流せず単独で攻撃を仕掛ける一方、吉田元重は募兵が不十分として街道で陣を敷き部隊の再編を行っている。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

 

8月10日(旧暦7月15日)

吉田元重の率いる部隊が戦場へと到着する。

既に戦闘を開始していた牛尾春重の勇姿を見て中国の秦末期の猛将、項羽のようだと評している。

同日、毛利元康吉田元重の着陣と牛尾春重の活躍を聞き及ぶと出陣し、行松次郎四郎の撤兵を以て再び毛利方が城砦を奪還している。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

概 略

口碑では古代、城山と呼ばれる場所に宇田川湾へ漂着する大陸からの船を監視した施設が所在し、この施設が城砦の始まりと伝える。

古代の城山とするならば標高がより高い孝霊山の山頂(751.4m)にチャシ(古代監視塔)などが置かれたと推測されるが、当城は戦国時代、孝霊山の東峰に位置する免賀手山の山頂(598m)に置かれた古城跡と推定されている。

 

チャシとはアイヌ語、或いは古代朝鮮語で見張の施設を意味する。

平時は祭事の場、戦時は山城として外敵を防ぐ役目を持った先住民族の遺跡とされ、北海道や東北地方、千島列島や樺太に多く分布する築造物だが山陰地方では稀な存在とされている。

中国大陸や朝鮮半島との交易には必要不可欠な施設であり、海上交通を監視するために築城されたとも推測されている。

 

免賀手山の山頂部(字「上要害ケ平」)の平坦地が主郭と推測される。

主郭の法面は切岸として加工が成され、周囲を帯郭で囲み戦時は防柵を配したと考えられる。

南側、北側には腰郭が置かれ、それぞれ数段の段丘を構えているが、各出丸に至るまでの傾斜は急勾配で谷も深く、急峻な地形を利用した堅固な要害は白兵戦やゲリラ戦にも強い構造となっている。

頂上からの眺望は絶佳で東は因伯国境、西は雲伯国境に中海や美保関、南は大山、北は日本海と隠岐ノ島と全方位が一望でき、見張施設としても十分な機能を備えている。

長田邑付近には向山古墳群(方墳1基、前方後円墳2基、円墳21基)が存在し、古墳時代頃(弥生時代頃とも)には既に有力な豪族が一帯を支配していたことが伺え、郷原千軒の一角が当城の城下町と推定されている。

 

文化財シリーズ 高麗山麓(長田篇)-1974-では山頂の荒松家の墓周辺を当城としている。(五輪の位置は不明)

五輪の北東に「蛇の尾」という地名があり、「城の尾」を指すのではないかとしている。

 

その他、城跡に関係しそうな地名(字名)が多く残る。

宮内地内)的場、馬乗馬場、白辻(城辻)、千人斬、刀洗い

長田地内)城山、上要害ケ平、中要害ケ平、下要害ケ平、古館(ふるだて)、観音平(観音ケ平)、堂山、太刀洗い、切首(首切)、大首、首潟(首かた)、斬伍、伍五郎、馬渡り

 

免賀手山の山頂(主郭)、字「上要害ケ平」(かみようがいがなる)から尾根を北に下ると二ノ丸、字「中要害ケ平」(なかようがいがなる)、字「下要害ケ平」(しもようがいがなる)へと続く。

更に北へ下ると三ノ丸とする字「観音ケ平」(かんのんがなる)へと続き、比較的広い郭跡は平時の居館群とも考えられる。

古くは玉簾山清見寺の跡地で北側は急峻、後方の免賀手山に続く道には基壇や列石、溝状の遺構が遺るとされるが、近年まで御大師山として地蔵が祀られていたことから山城に関する遺構とは断定できないとしている。

玉簾山清見寺は前身を夕陽山朝頭妻寺(朝妻寺)とし、1083年(永保3年)に長田村の玉田文六なる信仰家の夢想により、朝妻寺の本尊であった千手観音を字「観音ケ平」に廃頽するを概し玉谷の堂山に移祭したとされる。※1082年(永保2年)とする記述も見える。

註釈では観音ケ平を古城跡として東西谷深く、上平かにして二段の平地を造り。宇堂建立の跡二ヶ所、塞路の一部も残り、礎石二間四面に残り。孝霊山当方免賀手を背景に半島形の平坦地であったとしている。(郷土誌 長田 -1974-)

 

字「観音ケ平」から北に降ると字「堂山」があり、朝妻寺の千手観音が移されたとする場所で同じく城跡と推定され削平された台地や墓石が遺る。古墳も200基余が存在するとされている。

麓には長田神社が鎮座しており、明治初年頃に末社の山ノ神、熊野権現、天神を合祀したと伝えている。

神社周辺は古代の住居跡も多数発掘されており、鳥取県内で最も標高が高い集落跡とされている。

 

名和氏紀事

元弘三年、香原玄蕃允元親なるもの香原山に在り。

 

1333年(元弘3年/正慶2年)

伯耆民談記では南北朝時代に林元親が居城し、船上山の合戦では中立を堅持し動かなかったとされる一方、名和町誌では名和氏に従ったとしている。

 

宮本家文書(毛利輝元 吉川元春 感状)

村上天皇二十七代の後胤、村上遠江守。始め大内義隆公御下に罷成。度々戦功有。伯州汗入郡香原山の城主なり。

 

御巡見様御廻手鏡 宮内村の条

 

御巡見様御廻手鏡や宮本家文書では福頼元秀を城主としている。

 

陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事

伯耆ノ国香原山の城には福頼藤兵衛、僅か百騎許にて籠居ける。

南條伯耆守元続、秀吉公の威光を奉り頼みて本国羽衣石に帰入しけるが今、吉川、小早川の四国渡海の隙を窺い行松入道が次男、次郎四郎を将として一千騎を以て攻たりければ福頼、僅か一日戦いて敵の多勢にや臆しけん。同七月九日の夜、城を落しける間、行松、頓て入代りぬ。近辺に在ける牛尾大蔵左衛門吉田肥前守、此由を聞て「香原山を敵に取られて一日も足を溜めさせん事、吾々が勇拙き所也」と諸人の嘲難を逸け押寄て討つなりと犇めきける。二人が勢合する共は三百に足りず、雲州富田に元秋の死後、弟元康在城なれば彼所に囃し合せばやとて云々の通り云送りける。元康、来たる十四日、香原山へ出張すべきと約諾したれける間、両人も其日を待ち打出んとす。

元康、十四日の早朝に八百騎を帥いて香原山近くへ打出られしに、両人いまだ出張せざれば元康、吾、僅かの勢にて戦を挑み敵に利を付けん事重きて軍せんに害なるべしと頓て討入被たり。

同日の晩景に至て牛尾、相図違わずと七十許にて打出れば大坪甚兵衛境與三右衛門も近辺に在ける故、牛尾と一手に成て馳来り、各香原山近き所にて里人に様体問えば云々にて候と答ふ。

是を聴て牛尾、吾、泉山を出しより香原山を陥さずば二度と立帰らじと思定めたれば、設使敵百萬騎在共一足も引く事はあらず。百騎にも足らん小勢にて一千騎の敵を山上に引受けながら少しも臆せず屯を張ける。心の程こそ不敵なれ。

吉田肥前守尾高の城を出て約束の日を違わずと急けれ共。餘に小勢なれば近辺の味方共を催促する程に爰彼所にて猶豫し其日は路上に行暮れし。香原山を避けること三里許にして一夜陣をぞ居ける。

牛尾は家人共をば陣具を求め山野村里に遺し、吾身は大坪を相共に十四、五人にて小さき固屋の中に居たりけるを城中より此れを知りて百人許りが押寄たり。牛尾等、少も疼ず鉄砲四、五挺を前に立て、持かけけるに野山に在ける家人共、遥に之を見て敵こそ寄れとて吾も吾もと馳帰ける間、敵一堪も堪ず引けるを追蒐て三人討ちとり、軍神の血祭にせよと物初めよしとぞ勇みける。

明れば十五日の早天に吉田、百五十許にて着陣し、牛尾、七、八十許にて在けるを見て哀れ至剛の者哉。吾に十倍したる敵を而も頭上に置て一夜堪えける事は項羽の勇を肝膽に蓄へたる者哉と。

甚威称し立入て昨日の合戦の様を聞き、三ノ首を見て弥威歎し覚ず吐舌絶倒する程に城中には牛尾吉田が出張すと聞れなば昨日の元康も亦引返し出被なり、然ば近辺の敵勢共、漸々に重なりて味方大事に及ばず。

先ず急に吉田牛尾を切崩せよや。一陣破れなば残党は多也と雖も矢の一つでも放らず逃走すべきぞとて。五百騎にて打出只一に討取らんと進んだり。吉田牛尾、二百五十許にて渡り合い、一戦の間に追立直付入に乗っ取らんとする勢いを見て敵叶い難しやと覚えけん。螺吹いて逃げたりける。かかれば牛尾吉田も後陣の勢続を待てこそ城をぞ乗っ取りけれ。其間は藉使弱敵たり共侮ること非ずとて吾先に陣を堅固にして居たりけるに、行松とても叶わずもの故に長居せんは身の大事也と思い同夜半許忍て城を出て羽衣石へと入りにける。

寄手の忍を物聞を出し置きたれば、敵こそ落れと告げる程に吾先にと乗入けれ共に足早に退きける。

 

和譯出雲私史 巻之七 毛利氏 輝元附吉川廣家の条

(天正十三年)七月、南条元続、行松次郎四郎をして、一千騎に将として伯耆の香原山城を攻めしむ。福頼藤兵衛兵百を以て城を守りしが其の敵す可らざるを度り、夜遁る。次郎四郎乃ち入つて居る。時に牛尾春重泉山城に在り。吉田肥前守尾高城に在り。兵凡そ三百、相議して曰く「吾輩此に在り。敵をして城を奪わしむるは豊深辱ならずや」と、乃ち援を元康に請い、十四日を以て興に惧に香原山を攻めんと期す。期に及んで元康八百騎を率いて之に赴きしに二人出でず。元康引き還る。暮に至つて二人乃ち出で元康の還れるを聞き、敢て城を攻めずして焉に宿す。明日次郎四郎、元康の未だ出でざるに及んで撃つて之を却けんと欲し五百騎を以て来り攻む。二人拒ぎ戦つて大に之を破る。即夜次郎四郎遁れ出でて種石城に入り遂に香原山を復す。

 

1585年8月4日(天正13年7月9日)

南条元続の支援を受けた行松次郎四郎が伯耆国尾高城の奪取を称して西伯耆(汗入郡)へと侵入する。

城主の福頼藤兵衛は100騎で城内へと立て籠ったが、行松次郎四郎との圧倒的な戦力差に敵わず城を捨て遁走している。

行松次郎四郎尾高城へ向かわず1,000騎を当城に駐屯させている。

同日夜、行松次郎四郎によって当城が陥落の報せを受けた牛尾春重吉田元重は出雲国月山富田城毛利元康へと援軍要請を行っている。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

陰徳太平記では福頼元秀が登場せず、福頼藤兵衛も撤退後の詳細な描写は見られない。福頼元秀福頼藤兵衛に係る詳細は宇田川村史や準ずる書物に見える)

 

宇田川村史では福頼元秀を城主とし、福頼藤兵衛は部下としている。

福頼元秀行松次郎四郎との圧倒的な兵力差に怖気づくと城に火をかけ遁走している。

福頼藤兵衛は山中で討死、福頼元秀は落延び尾高城或いは備中に援軍を求め、毛利元康の援軍を引き連れてくることとなる。(宇田川村史)

一説には毛利元康湯原春綱矢田某も同行し戦果を挙げたとしている。

 

汗入史綱では福頼藤兵衛が交通の要衝を守っていたが毛利方の四国遠征で伯耆が手薄となった隙を狙われ、南条方の行松次郎四郎の攻撃を受け家城の伯耆国福頼城が落城したため、福頼藤兵衛は逃亡したとしている。(汗入史綱)

三輪神社の社伝にも福頼元秀が交通の要衝を抑えていた事を伝えている。

 

1585年8月9日(天正13年7月14日)

早朝、毛利方は牛尾春重吉田元重の援軍要請に応じ毛利元康を大将とした援軍800騎を派遣している。

牛尾春重吉田元重の部隊は合流地点への到着が遅れており、毛利元康は連携無しに攻めるは自軍の損害も大きくなると判断したことから攻撃には出ず待機して陣を敷くに留めている。

同日夜、牛尾春重の部隊は戦場へと到着するが援軍とは合流せず単独で攻撃を仕掛ける一方、吉田元重は募兵が不十分として街道で陣を敷き部隊の再編を行っている。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

 

1585年8月10日(天正13年7月15日)

吉田元重の率いる部隊が戦場へと到着する。

既に戦闘を開始していた牛尾春重の勇姿を見て中国の秦末期の猛将、項羽のようだと評している。

同日、毛利元康吉田元重の着陣と牛尾春重の活躍を聞き及ぶと出陣し、行松次郎四郎の撤兵を以て再び毛利方が城砦を奪還している。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

 

陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事

寄手の忍を物聞を出し置きたれば、敵こそ落れと告げる程に吾先にと乗入けれ共に足早に退きける。

其間、引後れたる兵共百餘人を討ち取りけり。爰に坂手新允と云ふ者あり。初めは杉原元盛が家人也し故、常に中原彌介と先を争ひしが今、南條を頼て在ければ今日も打て出たり。新允人は皆引けれ共、中原に逢て勝負を挑んと思ひ、一村薄の陰に隠れ居て中原や来ると待居たる。

彌介、其此は風気を煩ひて四国へ渡らず己が宿處に在ければ香原山へ押寄ると聞て吉田が館へ赴き同道して打出る味方に下知して落行く敵を討取けるを見て、坂手、驚破あれこそ中原なけれ天の輿へを得たりと悦んで唯今其許に大音揚て物宜ふは正しく中原彌介殿と聞えし候はいかに。

斯申は坂手新允にて候。一方打破て落べき事は何より以易う候へ共。御辺当城へ御出になる間、待受一太刀打て。近年、杉原家に於て度々先の争に勝劣を決めんと存じ、今まで此に控えて候。いざ一勝負参り候。はんとて薄推分飛で出たる有様。其の長六尺許の大の男。三尺餘りの大太刀軽げ引っ提げたるは目に見ぬ鬼の姿を顕したるにや。又は側近き大山の天狗や化生しらんと。さしもの中原も寒毛卓竪する許な也。彌介鑓提て「あら珍しの坂手殿や。某も御辺に参り逢ばやとこそ存候つれとて」唯一、鎗にと突いて蒐るを見て彌介が仲間一人、主を討せじと中に隔て馳向けるを坂手、只一打に諸膝薙倒し。太刀引所を大王寺彌四郎、朋輩を討せ口惜や思けん。透間なく鎗にに突て懸るを坂手、鎗のしを頸打側め、彌四郎が眉間を太に切ける所を中原つと馳寄て、新允が草摺係て寸と付貫ける間、さしも関羽が勇を震し坂手も犬居に動と居り。太刀を振上げ鎗の柄を切らんとしけるを中原、重ねて突ける程に今は叶わずとや思わん。持たる太刀を中原に拗付て伏たりければ彌介、推へて頸をぞ掻たりける。哀れ大剛の者やと人挙て威称せり。中原、此彼頭三つ打取りぬ。彌四郎も手は負たりけれど浅手なれば落人二人を討ち取り、吾身の命は恙も無かりけり。吉田が手へも頭七十餘を討ち取り、牛尾も五十餘を得たり。

右て香原山に軍士を込め置きて南條や寄ると待懸けれ。其元続、叶難や思けん。其後は勢を出す事も無けり。

 

行松次郎四郎の撤兵の最中、杉原家の家臣であった中原彌介(毛利方)坂手新允(南条方)を主役に据える物語が記されている。

香原山の合戦における毛利方の大勝が南條元続の西伯耆侵攻を断念させたと結んでいる。(陰徳太平記 巻ノ七十 伯州香原山合戦ノ事)

写 真

2020年2月2日、2020年3月13日、2020年3月21日、2020年6月10日

東側からの遠望

遠望

高杉神社

高杉神社

宮内古墳(尾無ヶ原)

宮内古墳

宮内古墳(尾無ヶ原)

宮内古墳

宮内古墳の石室(尾無ヶ原)

宮内古墳

宮内古墳(田中山周辺)

宮内古墳

宮内古墳を利用した土塁(田中山)

宮内古墳

宮内古墳を利用した空堀(田中山)

宮内古墳

宮内古墳の石積場(田中山)

宮内古墳

三ノ丸(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の岩群(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の岩群(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の削平地(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の削平地(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の削平地(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の虎口(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の虎口と墓跡(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の墓跡(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸の平削地頂部(下要害ケ平)

三ノ丸

三ノ丸から二ノ丸へ

三ノ丸

三ノ丸の南側切岸(下要害ケ平)

三ノ丸南側切岸

三ノ丸の切岸と腰郭(下要害ケ平)

三ノ丸南側切岸

三ノ丸の切岸と腰郭(下要害ケ平)

三ノ丸南側切岸

二ノ丸(中要害ケ平)

二ノ丸

二ノ丸(中要害ケ平)

二ノ丸

二ノ丸の土塁(中要害ケ平)

二ノ丸

二ノ丸(中要害ケ平)

二ノ丸

二ノ丸は土橋状(中要害ケ平)

二ノ丸

主郭北側腰郭(上要害ケ平)

主郭北側腰郭

主郭(上要害ケ平)

主郭

主郭(上要害ケ平)

主郭

主郭(上要害ケ平)

主郭

主郭(上要害ケ平)

主郭

主郭(上要害ケ平)

主郭

主郭西側腰郭(上要害ケ平)

主郭西側腰郭

主郭西側腰郭(上要害ケ平)

主郭西側腰郭

主郭西側腰郭(上要害ケ平)

主郭西側腰郭

主郭西側腰郭(上要害ケ平)

主郭西側腰郭

主郭南側腰郭(上要害ケ平)

主郭南側腰郭

主郭南側腰郭の礫石(上要害ケ平)

主郭南側腰郭

主郭南側腰郭の礫石(上要害ケ平)

主郭南側腰郭

主郭南側腰郭の礫石(上要害ケ平)

主郭南側腰郭

主郭南側(上要害ケ平)

主郭南側

主郭西側腰郭(上要害ケ平)

主郭西側腰郭

主郭東側(上要害ケ平)

主郭東側

主郭西側の土塁(上要害ケ平)

主郭西側土塁

頂上からの眺望

眺望

東側谷部

東側谷部

谷部の沢の一部に石組

石組

集落の五輪塔

五輪塔

写 真

2019年3月18日(堂山周辺)

平坦地と礎石

礎石

切岸(社殿の造成のためか)

切岸

切岸(社殿の造成のためか)

切岸

巨石

巨石

竪堀状の虎口

竪堀

竪堀状の虎口

竪堀

谷部の集石

谷部集石

免賀手山の遠望

遠望

写 真

2019年3月18日(観音ケ平周辺)

堂山から

堂山から

谷部の集石

谷部集石

列石遺構

列石遺構

列石遺構

列石遺構

列石遺構

列石遺構

列石遺構

列石遺構

列石遺構

列石遺構

写 真

2014年11月15日(孝霊山登山)

登山口

登山口

孝霊無中

孝霊無中

法面は石垣造り

法面

土塁

土塁

孝霊山の山頂

山頂

孝霊山の山頂

山頂

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