よみがな
人物名
すぎはら やはちろう もともり
杉原弥八郎元盛
出身
不詳
生年
不詳
没年
1582年(天正10年)
氏
平
姓
朝臣
名
杉原
通称
弥八郎
諱
元盛
官途
掃部亮
幼名
徳若(とくわか)
別名
杉原又三郎(すぎはら またさぶろう)
杉原彌三郎元盛(すぎはら やさぶろう もともり)※伯耆民談記巻之第十二 河村郡古城之部 松が崎の城の事
行松九郎二郎(ゆきまつ くろうじろう)
横山掃部亮元盛(よこやま かもんのすけ もともり)
所属
毛利
杉原
列 伝
杉原盛重の嫡男とする記述も見えるが尾高城の前城主、行松正盛の子で「行松九郎二郎(幼名は徳若)」とされる。
行松正盛の死後、行松正盛の後家と再婚した杉原盛重に養育され、後に「横山掃部亮元盛」を称している。(伯耆民談記)
父親譲りの剛力で、武力に優れ忠節にも篤かった人物と評される一方、欲の深い人物であったとも伝えている。
1569年(永禄12年)6月18日、山名理興の遺臣、藤井皓玄らの叛乱により備後国神辺城が落城する。
同年8月3日から5日の神辺城奪回戦では弟の杉原景盛と共に軍功を挙げている。
1580年(天正8年)、吉川軍による因幡国鳥取城後詰戦に杉原景盛と共に従軍する。
1581年(天正9年)、伯耆国八橋城で杉原盛重が没すると杉原家の家督を受け継ぐが、相続した知行の殆どを自らの手に収め、杉原景盛には僅かの財産しか与えなかった(全く与えなかったともされる)ことが兄弟間の確執へ繋がったとされる。
1582年(天正10年)、杉原景盛と菖蒲左馬允の謀略により尾高城へ誘い出されると本丸付近で襲撃に遭ったとしている。
待ち伏せしていた刺客を幾人も斬り伏せるが最期は二ノ丸の門付近で討たれ、二人の子供も一緒に殺害されたと伝える。