所 属
毛利
行松
▶
杉原
よみがな
人物名
すぎはら やはちろう もともり
杉原弥八郎元盛
陰徳太平記での表記で彌八郎とも記す
幼 名
とくわか
徳若
行松正盛の嫡男とする
別 名
よこやま かもんのすけ もともり
横山掃部亮元盛
伯耆民談記での別名
別 名
すぎはら またさぶろう
杉原又三郎
別 名
すぎはら やさぶろう もともり
杉原彌三郎元盛
伯耆民談記巻之第十二 河村郡古城之部 松ヶ崎の城の事
別 名
ゆきまつ くろうじろう
行松九郎二郎
行松正盛の長男とする
官 途
掃部亮(伯耆民談記)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1582年(天正10年)
氏
平
姓
朝臣
諱
元盛
列 伝
杉原盛重の嫡男とする記述も見えるが尾高城の前城主、行松正盛の長子とされる。
行松正盛の死後、行松正盛の後家と再婚した杉原盛重に養育され、後に「横山掃部亮元盛」を称している。(伯耆民談記)
父親譲りの剛力で、武力に優れ忠節にも篤かった人物と評される一方、欲の深い人物であったとも伝えている。
1569年7月31日(永禄12年6月18日)
山名理興の遺臣、藤井皓玄らの叛乱により備後国神辺城が落城する。
同年8月3日から5日の神辺城奪回戦では弟の杉原景盛と共に軍功を挙げている。
1580年(天正8年)
吉川軍による因幡国鳥取城後詰戦に杉原景盛と共に従軍する。
伯耆民談記 巻之第十二 河村郡古城之部 松ヶ崎の城の事
(略)天正八年、伯耆守籠城によって和泉守も同籠せしが元来山田出雲と入魂なる故、山田逆意を企て高野宮夜討の後は南条を始め諸人何となう心を置けり。八橋の杉原彌三郎元盛是を聞て密かに小森方へ使者を遣わし味方に引入れんと勧めたりけるに和泉やがて同意しけるが返り忠の手始めに東郷小鹿谷上山を固め進ノ下総が陣處に夜討の事を彌三郎に内通す。和泉が属兵の中に下総と入魂の者ありて此者件の密計を下総に告げし故、頓て是旨本城へ注進せり。南条驚き家老の輩を呼び集め内談一決して下総が陣処へ加勢を遣わし大砲を合図に定め待ちたりける處に和泉は謀計の洩れたるをば夢にも知らず杉原より加勢を乞い、同年九月廿日の夜、二百余人忍び寄り伺いけるに陣中物静かにて沈睡の体に見えたり。(略)
1580年10月20日(天正8年9月20日)
伯耆国松崎城の城番であった南条方の小森方高を毛利方へと寝返らせる。
小森方高は南条方の進免之が布陣する小鹿谷の上山(伯耆国上山砦)に夜襲を仕掛けたが、内通者により計画が南条方へ露顕していたため逆襲に遭い多数の部下を失っている。
陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事
(略)元春は徒に後陣の勢を待つベからずとて九月二十日伯州八橋の城に著給い盛重と軍議有て安否の一戦と定られ所に播磨守時節風気に侵され前後不覚の体也ければ嫡子彌八郎元盛、次男又二郎景盛、諸軍勢の兵糧菜肴等を奉る。
1581年10月17日(天正9年9月20日)
因幡国鳥取城を攻める織田軍と備中国の宇喜田家の動きに対し吉川元春が伯耆国八橋城へと入り杉原盛重と軍議を持つ。
杉原盛重は重病であったため、自身と杉原景盛が諸将の接待から軍勢の兵糧管理に至るまでの采配に当ったとする。
1582年1月19日(天正9年12月25日)
一説に伯耆杉原家の家督を受け継ぐが、相続した知行の殆どを自らの手に収め杉原景盛には僅かの財産しか与えなかった(全く与えなかったともされる)ことが兄弟間の確執へ繋がったとされる。
1582年(天正10年)
杉原景盛と菖蒲左馬允の謀略(織田方への内通を理由とする)により尾高城へ誘い出されると本丸付近で襲撃に遭ったとしている。
待ち伏せしていた刺客を幾人も斬り伏せるが最期は二ノ丸の門付近で討たれ、二人の子供も一緒に殺害されたと伝える。