武 将 列 伝 帖

ゆきまつ ひょうぶのしょう まさもり

行松兵部少輔正盛

【氏】不明【姓】不明【名】行松【通称】兵部少輔【諱】正盛

別 名

行松左馬亮(ゆきまつ さまのすけ)

行松入道(ゆきまつ にゅうどう)

行松和泉守(ゆきまつ いづみのかみ)

出 身

不明

官 途

兵部少輔、和泉守、左衛門尉、左馬亮

所 属

伯耆山名氏⇒大内氏⇒毛利氏

生 年

不明

没 年

1563年(永禄6年)

 

武 将 列 伝

伯耆山名氏に仕えた有力国人(伯州衆)、行松氏の一族で伯耆国尾高城、伯耆国八橋城の城主。

文書によっては「幸松」とも記され伯耆民談記では行松左馬亮。行松入道と恐れられたともある。

 

後家が毛利興元の娘であると福山市史には記されている。

 

永正年間頃から始まる尼子氏の西伯耆侵攻、反守護勢力の山名澄之尼子氏と結び伯耆守護へ就任、1524年(大永4年)の大永の五月崩れによって伯耆守護の山名尚之が力を失うと同時に家城の尾高城を追われている。

 

尾高城からの退去後は但馬国の山名祐豊を頼ったとも云われているが1542年(天文11年)、大内氏に従い第一次月山富田城の戦いに参戦。

 

1546年(天文15年)6月28日、橋津川の戦い(武田国信・伯耆国人衆の連合軍と尼子氏の戦い)においては伯耆国人衆の連合軍の一将として参陣。

武田国信・山田重直らと渡り口に5,000余騎を率いて布陣し尼子国久尼子豊久の父子が率いる3,700余騎と対峙した。

 

1562年(永禄5年)、本城常光が再び尼子方に降ると大内氏を見限り毛利氏へと通じた。

同年の夏、毛利氏に与して尼子方から尾高城を奪還。38年ぶりに一族の家城を回復している。

 

1563年(永禄6年)に病没。死因は中風(脳梗塞、脳卒中など脳に関する病気)と云われている。

遺児は後家と再婚した杉原盛重によって養育されたとある。 (陰徳太平記 巻三十七 杉ノ原盛重入伯州泉山城附弓濱合戦之事)

 

 

行松氏の遺児については諸説あるが九郎二郎が杉原盛重の長男で徳若(後の杉原元盛)、十郎二郎が次男の松千代(後の杉原景盛)とし、三女は伯耆国泊城の城主、川口刑部の妻(室也)としている。(伯耆民談記)

 

藤井皓玄らが造反した神辺合戦では子の杉原元盛杉原景盛杉原盛重に従軍していることから、自身も何らかの形で戦に参加していた可能性がある。

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