武将列伝帖

ゆきまつ ひょうぶのしょう まさもり

行松兵部少輔正盛

【氏】不明【姓】不明【名】行松【通称】兵部少輔【諱】正盛

別 名

行松左馬亮(ゆきまつ さまのすけ)

行松左衛門尉正盛入道(ゆきまつ さえもんのじょう しょうじょう にゅうどう)…伯耆民談記 八橋の城の事に記述。

行松和泉守(ゆきまつ いづみのかみ)

山名左馬頭守重(やまな うまのかみ もりしげ)…伯耆民談記(萩原直正校註)に大永四年の尾高城主とある。

出 身

不明

官 途

兵部少輔、和泉守、左衛門尉、左馬亮

所 属

伯耆山名氏⇒大内氏⇒毛利氏

生 年

不明

没 年

1563年(永禄6年)

 

- 列 伝 -

伯耆山名氏に仕えた有力国人(伯州衆)、行松氏の一族で伯耆国尾高城、伯耆国八橋城の城主。

文書によっては名を幸松と記されることもあり、伯耆民談記では行松左馬亮行松入道として存在を恐れられたともしている。

 

1492年(明応元年)頃まで行松氏山名尚之に仕えていたことが記述に見え、1524年(大永4年)の大永の五月崩れで伯耆国を追われていることから一貫して守護勢力へと与していたことが伺える。

 

永正年間(1504年~1521年)の初頭頃から尼子氏による西伯耆への介入が本格化し、反守護勢力であった山名澄之尼子氏の援助を受け山名尚之と対立する。

1506年(永正3年)12月頃までに山名澄之が伯耆守護へと就任するが、山名尚之に与した勢力は一部の要地を確保し尼子方への抵抗が続けられていたようである。

 

1524年(大永4年)、大永の五月崩れによって山名尚之に与した勢力が相次いで国外へ追放、或いは逃亡する事態となり、行松氏も家城の尾高城を追われている。

尾高城からの退去後は但馬国の山名祐豊を頼ったとも云われているが1542年(天文11年)には大内氏に従い第一次月山富田城の戦いに参戦している。

 

1546年(天文15年)6月28日、橋津川の戦い(武田国信・伯耆国人衆の連合軍と尼子氏の戦い)に於いては伯耆国人衆の連合軍の一将として参陣。

武田国信・山田重直らと渡り口に5,000余騎を率いて布陣し尼子国久尼子豊久の父子が率いる3,700余騎と対峙する。

 

1562年(永禄5年)、本城常光が再び尼子方に降ると大内氏を見限り毛利氏へと通じる。

同年の夏、毛利氏に与して尼子方から尾高城を奪還。38年ぶりに一族の家城を回復している。

 

1563年(永禄6年)に病没。死因は中風(脳梗塞、脳卒中など脳に関する病気)とされる。

後家となった妻は杉原盛重と再婚し、遺児も引き取られ養育されたとある。 (陰徳太平記 巻三十七 杉ノ原盛重入伯州泉山城附弓濱合戦之事)

妻は毛利興元の娘とされる。(福山市史)

遺児については諸説あるが、九郎二郎徳若(後の杉原元盛)で杉原盛重の長男、十郎二郎松千代(後の杉原景盛)で次男、長女は伯耆国泊城の城主、川口刑部の妻(室也)で三女としている。(伯耆民談記)

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