所 属
伯耆山名
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但馬山名
▶
毛利
吉川
杉原
▶
南条
よみがな
人物名
やまな ぎょうぶのしょう ひさうじ
山名刑部少輔久氏
別 名
かわぐちぎょうぶのしょう ひさうじ
河口刑部少輔久氏
陰徳太平記での表記
別 名
かわぐち ぎょうぶたいふ ひさうじ
河口刑部大輔久氏
伯耆民談記での表記
別 名
かわぐち ぎょうぶたいふ うじひさ
川口刑部大輔氏久
羽衣石南條記での表記
官 途
刑部少輔、刑部大輔(伯耆民談記、羽衣石南條記)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1615年(元和元年)
氏
源
姓
朝臣
諱
久氏
列 伝
伯耆国戸磨利城の城主。
弓の名人で四人張の剛弓を軽々と扱う剛勇の士。
陰徳太平記では河口刑部少輔、伯耆民談記では刑部大輔(太輔)、羽衣石南條記では川口刑部太輔氏久(諱が逆)。
伯耆民談記 河村郡古城之部 河口城之事
久津賀の庄泊村に在り。山名の一族山名刑部太輔久氏累代の家城なりしが、彼の大永の五月崩れに尼子経久が為に没落して因州の方へ漂泊せり。
1524年(大永4年5月)
尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)を受け家城の戸磨利城は落城し因州方面へ落ち延びたとある。(伯耆民談記)
伯耆民談記 河村郡古城之部 河口城之事
然るに大永五月崩れの時敗北せし諸浪人南条宗元を始め、此処に乗じて旧領を取返さんと談り合せ因州の屋形山名氏へ加勢を乞い、武田山城守を大将として七千余人の人数にて、同十日当国へ切り入り、先手なれば一番に当城を攻立つる。尼子誠久も芸州へ出陣し留守居の士、加藤兵蔵、福原彌吉等百余人にて楯籠りしが寄手猛勢なる故防ぎ戦ふ事叶はず両人討死して落城に及びけり。寄手凱歌を唱へ、山名久氏なればやがて居住し、夫より永く当城に居り後には南条家の旗下となり山名の苗字を断ち城地を号して河口刑部太輔と名乗りける。然るに刑部太輔始めは小鷹の行松入道が聟なりしが行松滅亡の後は杉原播磨守盛重が娘を娶る。然るに天正七年南条勘兵衛上方に一味し杉原と仇敵と成る。是に依て刑部太輔も夫人を杉原へ送り返えし、南条に無二の志を顕し忠節を尽くしけり。慶長五年羽衣石滅亡の時、当城も同じく没落して浪人の身と成りけり。
1540年10月9日(天文9年9月10日)
武田山城守ら率いる7,000余騎が伯耆国へ侵入する。(伯耆民談記)
芸州遠征で手薄になった戸磨利城を攻撃し、尼子方の城番であった加藤兵蔵と福原彌吉が討ち取られている。
尼子方より戸磨利城を奪還すると城主へ復帰している。(伯耆民談記)
陰徳太平記では武田山城守、南條己下6,000余騎としている。(陰徳太平記 巻第十一 尼子国久伯州発向之事)
1546年8月14日(天文15年7月18日)
武田国信、南条宗勝の因伯連合軍に合流し戸磨利城を奪還し城主へと復帰している。
武田山城守らの侵入以降は東伯耆を巡る争いが激化し、尼子氏と対抗する勢力で激しい攻防戦が繰り広げられたと推測され、武田国信、南条宗勝の因伯連合軍と共に奪還した戸磨利城も時を置かず逆襲を受け再び尼子氏が領有している。
1562年(永禄5年)
毛利氏によって伯耆国から尼子氏が駆逐されると再び城主として復帰している。
陰徳太平記 巻第三十七 杉ノ原盛重伯州泉山城入付弓濱合戦之事
(略)先陣は入江大蔵ノ少輔、同左衛門ノ進、河口刑部ノ少輔、五百餘騎。(略)吉田八郎左衛門、福山肥後守二人、三保関勢泉山へ働なば一定大合戦有可。杦原が軍立聞しに劣ずか。名を聞んより面見如ずと云い、いざ行て見可とて三百許にて馳来りけるが早三保関に合戦有と覚えて鉄砲の音山岳を崩し湖水を動して聞えければ此合戦に逢んと駒に鞭て進み来り。味方の勢を脇に見て、つど翔抜、河口等が扣たる所々討ち蒐る。(略)
1564年(永禄7年)
弓浜合戦では毛利方の将として参戦。この頃から山名の名を改め河口を名乗っている。
尼子方の森脇久仍、本田家吉が率いる第一陣1,000騎に対し、入江大蔵少輔、入江左衛門進ら杉原家の家臣団と共に第一陣500騎を率いて対陣している。
合戦では杉原盛重の娘婿とする記述が見えないことから姻戚関係の成立は行松正盛の死後と推定される。(陰徳太平記 巻第三十七 杉ノ原盛重伯州泉山城入付弓濱合戦之事)
この頃に杉原盛重の娘を娶り毛利方と姻戚関係を結んだとされている。
行松正盛の病没後は杉原盛重が遺児を養育していることから杉原盛重の娘は養女で行松正盛の娘とも考えられる。
1570年11月2日(元亀元年10月5日)
出雲国末次城に小鴨四郎次郎らと在番し尼子再興軍による攻撃を受けた際は頑強に抵抗しており、出雲国月山富田城の吉川元春に援軍を求めている。(出雲私史)
1578年(天正6年)
尼子残党の立て籠もる播磨国上月城へ軍役。
陰徳太平記 巻第六十三 伯州戸磨利合戦事
伯州戸磨利ノ城には杉原播磨守盛重が聟河口刑部ノ少輔久氏僅百五十騎にて盾籠りるが、従来大弓手利の勇士にてややもすれば南條が兵とかく合追立ける間、元続兄弟戸磨利へ押寄せ一夜討せんと僉議して武田源三郎を相伴。其勢三千餘騎。同十二月二日、河口が城へぞ押寄ける。当城元より険難の地に非ず。然を久氏己が勇を頼て纔の勢にて籠りける間、元続、元清、此城何程の事が有ん。早蹈潰せと下知すれば南條が六組の頭、山田越中守、南条備前守、一條市ノ助、赤木兵太夫、山田佐介、同畔介など先に進て攻上り門櫓の下へ漬々を付、一時に乗崩さんとする所を久氏わざと敵を思い圖へ引寄時分能きぞと下知しける程に弓鉄砲雨雹の如く射出しければ寄手々負死人時の間に数十人出来て。少漂う体に見ゆるや否や城中より百餘人、門を開て突て出ける程に寄手一積りも積ず一度に崩れて引にけり。城兵小勢なれば追かけず。頓て引返しけるを南條勢、山田佐介、豊岡左京ノ亮、一條市ノ助、武田が手の者中原彌介、同市太夫等一番に取て返し引敵を追て城中へ付入にせんとしけれ共、名高久氏、諸士を下知し大弓を取て在ければ渠が矢先に廻らば裘身失命は疑いなしと恐怖して皆岸陰に傍て扣ける所に中原市太夫唯一人門の前迄追詰引後れたる敵一人突伏頭を打。是を見て久氏、四人張の大弓取て番せ続けて三條迄射たりけるに何れも中原に中りたりけれど市太夫武田の家重代の鎧、南蛮鉄のかなめ物を著たりける故思う許りは徹ず少々裏をかきて身に五分一寸許りは立けれども市太夫大剛の者なれば少も疼ず静に頭打て高く差挙。日来雲伯因但の間、大精兵と名を得し。河口刑部殿の大矢を受ながら分捕して帰る大剛の者は武田源三郎が郎等、中原市太夫也と名乗り罵りて帰けり。是に機を得て武田が勢どっと懸りければ南條が者共も吾劣じと塀へ乗たりけり。され共内よりの働は強し。殊更其夜は雪煩りに降、寒風烈しくて面を截、骨に徹しければ手亀まり身凍えて兵仗を舞すに自由あらずして各力及ず重てこそとて引去けり。武田源三郎、市太夫が勇を威称し、さて久氏が矢は如何にと問うに市太夫、三條ながら中を而も鏃五分乃至一寸許は裏かき候つと答ければ源三郎、此鎧は先祖国信五人張の精兵に射させしに一矢も裏かく事無りしかば此上ば異域は知ず。吾扶桑州裏に於て此鎧著たらんは楯を衝に及ず。哀れ勇士の重寶やと秘蔵せられつると云伝たりしに。今久氏が矢の裏かく事古今無類の精兵哉と舌を巻、心を寒して恐歎す。河口久氏はかくとは知ず。夜中の事なれば皆外しつると思、目前の敵十間の中にして三條迄射外す事吾生涯の恥辱なり。重ねて弓取上て詮無とて弓段々に切折て捨けるとかや。
1581年1月6日(天正8年12月2日)
南条元続らが3,000余騎を率いて戸磨利城へ襲来するが150騎で籠城戦を敢行し南条方の軍勢を撤兵させている。(陰徳太平記 巻第六十三 伯州戸磨利合戦事)
南条方は戸磨利城が籠城戦を行うに適した城ではないと侮り力押しで攻め立てるが、対して寡兵ながら計略を用い戦の流れも上手く捉え南条方を食い止めている。
南条方は開戦直後、戸磨利城の城兵が寡兵であることを知らないような描写も見える。
用兵は巧みで緒戦では寡兵を悟られず、敵勢を城門付近まで引きつけると弓と鉄砲を雨霰のように討ち掛け南条方へ大損害を与えている。
これに怯み距離を置こうと退く敵兵に対しては城門を開き、追撃を加え更なる損害を与えている。
追撃も深追いはせず、迅速に城へと引き返して再び立て籠もるが、この時に南条方は城内が寡兵であると気付き再び攻め寄せている。
押し寄せる敵将に対し櫓上から名乗りを上げ、四人張の剛弓を携え矢を射掛けると牽制を行い、同時に味方を鼓舞し士気を高めるなど豪快な武将とする活躍が目立つ。
南条方が名前を聞いただけで震え上がるほどの武名が通っており、城門の櫓上で名乗りを上げると多くの敵兵が引き下がっている。
南条方の将兵が尻込みする中、唯一城門に辿り着いた中原市太夫に対し、四人張の強弓で3條の矢を射掛け全てを命中させている。
四人張の強弓から放たれた矢の命中は即ち絶命必至とされるが、中原市太夫の鎧は五人張の弓でも貫通することが出来ないと武田家に伝わる南蛮鉄のかなめ物を付けた鉄鎧とされている。
命中した3條は全て鎧を貫通していたが何れも鏃が5分~一寸許(約1.5cm~約3cm)程度で致命傷には繋がらなかったとしている。
同日の夜は雪が降り、寒風厳しいことから南条方の軍勢は撤退する。
武田源三郎、中原市太夫はこの日はよく戦ったと武勇を誇る一方、武田家伝来の鎧が裏をかかれた(貫通した)ことに於いて古今無類の剛勇と絶賛し、同時に恐ろしい相手であったと恐怖している。
そのような頑丈な鎧を着用していたとは露も知らず、寒風が吹き荒れ手も悴み、夜陰の暗闇で10間(約18m)程離れていた悪条件が重なったためとしているが、結果として中原市太夫を討ち洩らしたことは全ての矢を射外してしまったからと勘違いしている。
中原市太夫を討ち損じたことは生涯の恥辱であるとし、四人張の剛弓を破壊している。(陰徳太平記 巻ノ第六十三 伯州戸磨利合戦)
1581年(天正9年9月)
織田方の水軍を率いた松井康之により戸磨利城が攻撃され、泊浦に停泊していた毛利方の軍船65艘が沈められている。
伯耆民談記では1579年(天正7年)に南条元続が織田方に寝返るが、1580年(天正8年)の戸磨利合戦では毛利方として奮戦。
松井康之の攻撃を受けた際も毛利方であったが、この後に杉原盛重の娘を送り返すと婚姻関係を解消し、南条氏へと与している。
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いでは主家の南条氏が西軍に与したため改易され、戸磨利城も没落し浪人となった。
同じ頃、居城の戸磨利城と麓の長清寺は共に焼亡と伝える。
1615年(元和元年)
大坂夏の陣では豊臣方に与するが敗れ摂津国大坂城で自害とある。
同年、息子の河口久吉が9歳、母(杉原盛重の娘とする)と共に戸磨利城を脱出したとされる。(河口家系図)
活躍の時期に幅があり、初見となる1524年(大永4年)の大永の五月崩れでは既に戸磨利城の城主、1615年(元和元年)の大坂夏の陣で自刃するまでを同一人物とすると90年以上現役であったこととなる。
このため1524年(大永4年)の大永の五月崩れまでに登場する「刑部大輔」と1564年(永禄7年)頃から毛利方の武将として登場する「刑部少輔」は別人とも考えられる。