よみがな

人物名

やまな ぎょうぶのしょう ひさうじ

山名刑部少輔久氏

出身

不詳

生年

不詳

没年

1615年(元和元年)

朝臣

山名

通称

刑部少輔

久氏

官途

刑部少輔、刑部大輔

別名

河口刑部大輔久氏(かわぐち ぎょうぶのたいふ ひさうじ)…伯耆民談記での表記。

 

川口刑部大輔氏久(かわぐち ぎょうぶのたいふ うじひさ)…羽衣石南條記での表記。

所属

毛利

吉川

杉原

南条

列 伝

伯耆国戸磨利城の城主。

弓の名人で四人張の剛弓を軽々と扱う剛勇の士。

陰徳太平記では河口刑部少輔、伯耆民談記では刑部大輔(太輔)、羽衣石南條記では川口刑部太輔氏久(諱が逆)。

 

1524年(大永4年)5月、尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)を受け家城の戸磨利城は落城し因州方面へ落ち延びたとある。(伯耆民談記)

 

1540年(天文9年)9月10日、武田山城守ら率いる7,000余騎が伯耆国へ侵入する。

芸州遠征で手薄になった戸磨利城を攻撃し、尼子方の城番であった加藤兵蔵福原彌吉が討ち取られている。

尼子方より戸磨利城を奪還すると城主へ復帰している。(伯耆民談記)

陰徳太平記では武田山城守、南條己下6,000余騎としている。(巻第十一 尼子国久伯州発向之事)

 

1546年(天文15年)7月18日、武田国信南条宗勝の因伯連合軍に合流し戸磨利城を奪還し再び城主に復帰している。

1540年(天文9年)以降は東伯耆を巡る争いが続き尼子氏と対抗する勢力で激しい攻防戦が繰り広げられたと推測され、1546年(天文15年)7月に因伯連合軍が奪還した戸磨利城も時を置かず逆襲を受け再び尼子氏が領有している。

 

1562年(永禄5年)、毛利氏によって伯耆国から尼子氏が駆逐されると三度、山名久氏が城主として復帰している。

 

1564年(永禄7年)、弓浜合戦では毛利方の将として参戦。この頃から山名の名を改め河口を名乗っている。

尼子方の森脇久仍本田家吉が率いる第一陣1,000騎に対し、入江大蔵少輔入江左衛門進ら杉原家の家臣団と共に第一陣500騎を率いて対陣している。

この合戦では杉原盛重の娘婿とする記述が見えないことから姻戚関係の成立は行松正盛の死後が推定される。(陰徳太平記 巻第三十七 杉ノ原盛重伯州泉山城入付弓濱合戦之事)

同年、伯耆国尾高城の城主、行松正盛が病没。

この頃に杉原盛重の娘を娶り毛利方と姻戚関係を結んだとされている。

妻は行松正盛の娘とも伝え、行松正盛の病没後は彼の子を杉原盛重が養育していることから杉原盛重の娘は養女で行松正盛の娘とも考えられる。

 

1570年(元亀元年)10月5日、出雲国末次城小鴨四郎次郎らと在番しており、尼子再興軍による攻撃を受けた際は頑強に抵抗しており、出雲国月山富田城吉川元春に援軍を求めている。(出雲私史)

 

1578年(天正6年)、尼子残党の立て籠もる播磨国上月城へ軍役。

 

1580年(天正8年)12月2日、南条元続らが3,000余騎を率いて戸磨利城へ襲来するが150騎で籠城戦を敢行し南条方の軍勢を撤兵させている。(陰徳太平記 巻第六十三 伯州戸磨利合戦)

南条方は戸磨利城が籠城戦を行うに適した城ではないと侮り、力押しで攻め立てるが、対して寡兵ながら計略を用い戦の流れも上手く捉え南条方を食い止めている。

南条方は開戦直後、戸磨利城の城兵が寡兵であることを知らないような描写も見える。

用兵は巧みで緒戦では寡兵を悟られず、敵勢を城門付近まで引きつけると弓と鉄砲を雨霰のように討ち掛け南条方へ大損害を与えている。

これに怯み距離を置こうと退く敵兵に対しては城門を開き、追撃を加え更なる損害を与えている。

追撃も深追いはせず、迅速に城へと引き返して再び立て籠もるが、この時に南条方は城内が寡兵であると気付き再び攻め寄せている。

押し寄せる敵将に対し櫓上から名乗りを上げ、四人張りの剛弓を携え矢を射掛けると牽制を行い、同時に味方を鼓舞し士気を高めるなど豪快な武将とする活躍が目立つ。

南条方の武将が名前を聞いただけで震え上がるほど武名が通っていたようで、城門の櫓上で名乗りを上げると多くの敵兵が引き下がっている。

南条方の将兵が尻込みする中、唯一城門に辿り着いた中原市太夫に対し、四人張の強弓で3條の矢を射掛け全てを命中させている。

四人張の強弓から放たれた矢の命中は即ち絶命必至とされるが、中原市太夫の鎧は五人張の弓でも貫通することが出来ない武田家に伝わる南蛮鉄のかなめ物を付けた鉄鎧とされている。

命中した3條は全て鎧を貫通していたが何れも鏃が5分(約1.5cm)~一寸許(約3cm)程度で致命傷には繋がらなかったとしている。

同日の夜は雪が降り、寒風厳しいことから南条方の軍勢は撤退。

武田源三郎中原市太夫はこの日はよく戦ったと武勇を誇る一方、武田家伝来の鎧が裏をかかれた(貫通した)ことに於いて古今無類の剛勇と絶賛し、同時に恐ろしい相手であったと恐怖している。

そのような頑丈な鎧を着用していたとは露も知らず、寒風が吹き荒れ手も悴み、夜陰の暗闇で10間(約18m)程離れていた悪条件が重なったためとしているが、結果として中原市太夫を討ち洩らしたことは全ての矢を射外してしまったからと勘違いしている。

中原市太夫を討ち損じたことは生涯の恥辱であるとし、四人張の剛弓を破壊している。(陰徳太平記 巻ノ第六十三 伯州戸磨利合戦)

 

1581年(天正9年)9月、織田方の水軍を率いた松井康之により戸磨利城が攻撃され、泊浦に停泊していた毛利方の軍船65艘が沈められている。

伯耆民談記では1579年(天正7年)に南条勘兵衛が織田方に寝返るが、1580年(天正8年)の戸磨利合戦では毛利方として奮戦。

松井康之の攻撃を受けた際も毛利方であったが、この後に杉原盛重の娘を送り返すと婚姻関係を解消し、南条氏へと与している。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは主家の南条氏が西軍に与したため改易。戸磨利城も没落し浪人となった。

同じ頃、居城の戸磨利城と麓の長清寺は共に焼亡と伝える。

 

1615年(元和元年)、大坂夏の陣では豊臣方に与するが敗れ摂津国大坂城で自害とある。

同年、息子の河口久吉が9歳、母(杉原盛重の娘とする)と共に戸磨利城を脱出したとされる。(河口家系図)

 

活躍の時期に幅があり、初見となる1524年(大永4年)の大永の五月崩れでは既に戸磨利城の城主、1615年(元和元年)の大坂夏の陣で自刃するまでを同一人物とすると90年以上現役であったこととなる。

このため1524年(大永4年)の大永の五月崩れに登場する刑部大輔と1580年(天正8年)の戸磨利合戦以降に登場する刑部少輔は世襲による別人とも考えられる。

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