所 属

尼子

毛利

南条

南条

中村

よみがな

人物名

やまだ えっちゅうのかみ ひさきよ

山田越中守久清

 

別 名

やまだ くすけ ひさきよ

山田久介久清

南条信正外十四名連署起請文への署名

官 途

越中守(伯耆民談記)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

久清

列 伝

南条氏に仕えた伯耆山田氏の一族。伯耆国打吹城の三ノ丸とする打吹城 越中丸の城主。

伯耆国羽衣石城の城下に屋敷を持ち、山田佐助山田畔之助山田世之助を同族とし、いずれも南条家の宿将と伝える。

伯耆民談記では久米郡の伯耆山田氏の一族、山田重直も同族としており、羽衣石城下で邸宅が軒を並べていたとしている。

 

群書類従(第拾四輯 江北記)

佐々木中務少輔殿

天文五年十二月に近衛殿へ御音信之時も。

御返事案分此如候也。あつやうの紙を切御自筆也。大略摂家よりは此如遊被候也。

貴札拝見仕候。今度民部少輔備中作州罷立。両国悉落去候。雪中之儀候間先帰宅仕候。明春者早々播州へ其働致可候。聞召被及御使預候。誠恐入在候。伊豫守書状捧可候。只今聊参候間。来春是従申入可由に候。猶御使に申入候恐惶。

十二月廿六日 安綱

浅井備前守殿 参御報

天文五年十二月 出雲尼子陣所へ。

下坂村田御使為遣被候時。亀井惣四郎返礼之案分此如候。山田越中守方へも同前に候也。加様に披露状之儀也。是高清之御代也。

右江濃記一本以校合了。

 

江北記(寛政四年 賀茂季鷹 注釈)

伊与守経久也。民部少輔は政久也。此後天文七年尼子政久播磨へ出張す。小寺、明石一味す。赤松政村不叶淡州退。天文八年細川より加勢して舟にて帰国也。其時尼子も雲州に帰陣。

 

1537年2月6日(天文5年12月26日)付

亀井安綱から浅井備前守へ宛てた返書に記述が見える。

下坂村(近江国坂田郡)周辺へ亀井安綱と共に出張していることから尼子方に与した人物とする。(江北記)

 

1524年(大永4年)

尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)を受け、伯耆山田氏は国外退去となったが、自身は続けて尼子方へ与している。

 

1565年(永禄8年9月)

毛利方の攻撃により尼子方であった伯耆国八橋城が落城する。

毛利元就の命を受けた南条宗勝によって城番のひとりとして留め置かれている。

 

1570年(元亀元年)

伯耆国岩倉城の城主であった小鴨氏南条宗勝らと毛利方の遠征に従軍し出雲へと向かうと岩倉城に留守役として在番する。(萩藩閥閲録)

同年2月、岩倉城の守兵が手薄になった隙を突かれ、尼子勝久に与する一党山中幸盛の配下とも)による攻撃を受けたため開城し逃亡する。

因幡国鹿野城湯原元網を頼ると武田高信南条元続らの支援を受け、岩倉城を奪還している。

岩倉城の奪還後は再び城代に任じられている。(萩藩閥録 森脇覚書)

この頃の南条氏小鴨氏吉川氏の旗下に収められていることから毛利氏吉川氏の配下とする記述も見える。

 

天正年間

東郷町誌では伯耆国高野宮城を居城とする。

伯耆民談記では一族の山田佐助の居城としている。

 

1575年11月16日(天正3年10月14日)

同日付で起請文に「山田久介久清」として署名、血判を押印している。(南条信正外十四名連署起請文)

 

1579年(天正7年)春

南条元続が毛利家に対して変心を疑われると山田出雲守山田重直の動向を疑っている。

山田重直杉原盛重と旧知の中であり、南条家の家臣でありながら未だ毛利方と懇意にしていたことに心を許さず、山田佐助と相談し山田重直の屋敷へ常に間者を送り込んでいたとある。

 

1579年5月27日(天正7年5月2日)

同日の夜、山田重直の屋敷から不審な人物が出立するところを確認したため、家来の水野甚八に護衛の若者を添え追跡を命じている。

追跡の最中、一時だけ栗尾坂付近で不審者の足取りを見失っているが付近の民家から話し声が漏れ聞こえたために発見でき、尋問のため生け捕りを試みている。

しかし、相手の風貌などから武の心得があると感じた水野甚八の護衛の若者は不審者が態勢を整える間を与えず首を切り落としている。

水野甚八は不審者の拘束が叶わなかったことを後悔したが所持品から一通の書簡が見つかったため、羽衣石の館へと持ち帰っている。

同日の夜半、密かに書簡を携え羽衣石城へと登城し、南条元続が開封した書簡には山田佐助の居城である高野宮城に対する夜討の詳細が記してあり、山田重直杉原盛重が内通していた証拠としている。

高野宮城襲撃の計画が露見したため山田佐助を呼び寄せ、夜襲への対応と増援の指示を出している。

山田重直へは密書の内容が露見したことを伏せ、計画通り夜襲を行わせるように謀っている。

 

1579年6月5日(天正7年5月2日)

同日の夜半、山田重直の子、山田信直を案内人として杉原盛重の子、杉原元盛が300余騎を率いて高野宮城を攻めるが万全の備えを有した山田佐助の軍勢に敗れている。

高野宮城から勝鬨が上がると山田畔之助を伴い山田重直の屋敷へと討ち入り妻子を捕虜としている。

妻子の他、山田重直に与した残党数十人も捕えられており、長瀬の浜で悉く首を刎ねられ梟木へと懸けられたとある。

山田重直の妻子はそのまま人質として捕えられており、伯耆国堤城攻撃の際に利用されている。(伯耆民談記 巻之第十二 高野宮の城の事)

 

1581年8月30日(天正9年7月21日)

南条備前守と共に羽柴秀吉の陣へと赴き、吉川軍の布陣する伯耆国馬ノ山砦への攻撃を進言している。

南条元続が久米郡を領有した頃、南条元信打吹城から伯耆国田後城へ移ったことに伴い打吹城の三ノ丸、打吹城 越中丸へ移ったとしている。

打吹城 越中丸への移転に因み、打吹城の三ノ丸を越中丸と称するとしている。(伯耆民談記 巻之第十五 久米郡古城之部 一、同城(倉吉)地理の項)

 

伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部

一、八橋の城の事

(略)其後当城尾高杉原播磨守の領となり、播磨守尾高の城をば嫡子彌三郎元盛に譲り、其身は当城に有りて羽衣石の南条を押さえしが天正九年臘天下旬、当城において病死せり。二男又次郎景盛続て在城せしが悪逆無道なりし故、仝十年初夏の頃、吉川元長に攻落さる。此時毛利家と上方との和睦となり当城も南条元続の持と為り。伯父備前守元信を差置きたるが元信倉吉へ移りし後、山田越中正壽院等当城を相守る。

 

1582年1月19日(天正9年12月25日)

伯耆国八橋城にて杉原盛重が没する。

 

1582年(天正10年)夏

毛利方に叛意を抱いたとする杉原景盛伯耆杉原氏に対して討伐が行われる。

吉川元長の攻撃を受け伯耆杉原氏の領した八橋城が陥落する。

 

1582年9月1日(天正10年8月15日)

杉原景盛が拠った伯耆国佐陀城は陥落し、杉原景盛も自刃する。

伯耆民談記では杉原家の改易及び京芸和睦の割譲案などから同年頃より八橋城が南条方の領有となり、八橋城の城番のひとりに任じられている。(伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部 八橋の城の事)

但し、東伯耆3郡が南条方の所領となるのは1584年(天正12年)以降であり、この頃の八橋城は例外として吉川氏の所領となっている。

 

1584年~1585年(天正12年~天正13年)

京芸和睦の成立を以ては東伯耆3郡が南条氏の領有となり、八橋城の城番として南条元信正寿院利庵らと共に在番する。

 

1591年(天正19年)

南条元続の死去より南条元忠が家督を相続するが、幼少であったことから小鴨元清が後見人となる。

程なく南条元忠小鴨元清の関係が悪化するが、事態の収拾を図るため小鴨元清を豊臣方へ預けるよう進言し、小鴨元清小西行長へと預けられることとなった。

 

1600年(慶長5年)

石田三成から南条元忠徳川家康討伐の催促が求められると重臣を集めた評議に参加している。

広瀬隼人は上方(豊臣方)へ与するべきではなく、機を見計らって徳川家康へと与するよう主張しており、津山長門らと同調し西軍への不参加に賛同している。

一方、山田佐助は頑なに上方へ与するよう主張する。

南条元忠山田佐助の意見を採用したため、石田三成の催促に応じる形で西軍に与することとなった。(伯耆民談記 巻之第十一 河村郡 古城之部 羽衣石南條伯耆守数度合戦の事(附り滅亡の事))

 

関ヶ原の合戦に於いて西軍は敗北し、与した南条家も改易されることとなった。

南条家の改易後は中村家に仕えたと伝える伝承もあるが同名の別人とも考えられる。

関ヶ原の合戦前の評定で西軍への不参加を主張したことで南条家改易後は中村家への仕官が叶い、続けて久米郡の一部を治めることができたと推測される。

Page Top