よみがな
氏族名
ほうき やまだ し
伯耆山田氏
出身
伯耆国久米郡他
氏
紀
姓
朝臣
名
山田
別名
長田氏(ながた し)
平氏(たいら し)
所属
紀
但馬山名
伯耆山名
尼子
毛利
吉川
南条
列 伝
伯耆国久米郡北条郷山田村周辺を本拠に土着した紀氏の一族。
承平年間(931年~938年)、長田頼母が北条郷山田別宮に入部したことを一族の始まりと伝え、伯耆国堤城(伯耆国堤屋敷を含む)を累代の家城とする。
935年(承平5年)、長田頼母によって八幡山へと石清水八幡宮が勧請され、以降は山田八幡宮と称したとある。
山田八幡宮と称する前は865年(貞観7年)、豊前国から宇佐八幡宮が勧請されていたと伝える。(北条八幡宮の栞)
1283年(弘安6年)、紀秀員によって山田八幡宮へと梵鐘が奉納されており、堤城主も紀秀員であったとしている。(伯耆民談記)
北条八幡宮の栞では梵鐘の奉納を1285年(弘安8年)としている。
1522年(大永2年)3月、山田弥三郎左衛門尉が山田別宮へと入る。(奉行衆下知状)
山田弥三郎左衛門尉と山田高直を同一人物とするかの関係は不明。
1524年(大永4年)、尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け一族の家城であった堤城が落城。
城主であった山田高直は一族を頼った後、退去先で病没とある。(伯耆民談記)
但馬山名氏を頼った一族は長田姓へと改めている。
大永の五月崩れにより国外退去した一族には但馬山名氏を頼った派閥、南条氏に与した派閥、国外退去せず尼子氏へと恭順した派閥が見える。
1525年(大永5年)、山田重直が誕生。
1544年(天文13年)頃まで長田姓を名乗っていたが、1546年(天文15年)頃には平姓へと改姓している。
1536年(天文5年)12月26日付の亀井安綱から浅井備前守へ宛てた返書では山田越中守が尼子氏の支配下にあったことが伺える。(江北記)
1560年(永禄3年)の私部表合戦、1561年(永禄4年)の若桜表合戦などで戦功を挙げた山田重直に対して因幡国気多郡などに所領を与えられており、1562年(永禄5年)には毛利氏の支援を受け、尼子方に占領されていた堤城の回復を果たしている。
堤城を回復した頃、但馬山名氏に与していた一族は毛利氏の傘下へと移っている。
1565年(永禄8年)9月、毛利方の攻撃により尼子方であった伯耆国八橋城が落城。
毛利元就の命を受けた南条宗勝によって山田越中守が城番のひとりとして留め置かれている。
1566年(永禄9年)1月、毛利元就より出雲守の官途が山田重直へと与えられている。
この書状から同時期までに「出雲守」を自称していた別の「山田出雲守」の存在が推測される。
1570年(元亀元年)、南条宗勝の留守役として山田越中守が伯耆国岩倉城に在番していたが尼子勝久(尼子残党)の襲撃を受けている。
天正年間、伯耆国高野宮城に山田越中守が居城とあるが、伯耆民談記では山田佐助の居城としている。
1579年(天正7年)、山田重直は南条家の家臣として毛利家との折衝を取り持っていたが、南条元続とは折り合いも悪く変心を疑われている。
南条家の重臣であった山田越中守は山田重直の行動に不信感を持ち、羽衣石城下の山田重直の館に密偵を送るなど監視を行っている。
同年5月、毛利方の杉原盛重と謀り、高野宮城へ夜襲を仕掛けた山田重直と山田信直であったが、奇襲は山田越中守へと漏れていた上、山田佐助による万全の備えがあったため、山田重直による高野宮城の攻略は失敗している。
同年9月、山田重直と南条元続との対立が決定的となり、南条方によって堤城が攻められると防戦も及ばず落城。
山田重直と山田信直の父子は辛うじて難を逃れ、因幡国鹿野城へと撤退している。(山田家覚書)
伯耆民談記では同年5月の出来事とし、退却先も伯耆国尾高城とするなど相違が見える。(伯耆民談記)
1582年(天正10年)9月、吉川元春の部将として山田重直は山田信直と共に南条元続の籠もる羽衣石城の攻略へ加わっている。
戦の最中に山田信直が陣没するが山田重直は羽衣石城を落城させている。
この戦では恩賞の先行給付を濫発していたため、戦後に手にした領地は久米郡内の28石のみであったとするが、家城であった当城を優先的に取り返したと考えられ、城主に山田盛直の名が見えることからこの頃に家督を譲ったとも推測される。
1583年(天正11年)、杉原家が改易され八橋城が南条方の所領とされると山田越中守、正寿院利庵などが城番に任じられている。(伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部 八橋の城の事)
1584年(天正12年)、京芸和睦により領地が確定すると堤城は南条方の所領とされ、山田重直、山田盛直は共に会見郡柏尾村の伯耆国小鷹城へと移っている。
1592年(天正20年)、小鷹城にて山田重直が没する。(伯耆民談記)
1601年(慶長6年)、関ヶ原での敗戦により吉川氏が周防国岩国へ転封となると山田盛直は家臣のひとりとして付き従い、共に岩国へと移っている。
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南条家の家臣であった山田越中守は南条家の改易後、中村家に仕官した同名の人物が見える。