伯耆古城図録

つつみじょう

堤城 / 津々見城

鳥取県東伯郡北栄町北条島(字城ノ内)

別 名

本丸さん(ほんまるさん)…地元での呼称。

遺 構

郭跡

現 状

住宅地、田圃、畑地

城 主

(紀方)長田頼母山田秀員

(伯耆山名方)山田高直山田重直

(毛利方)山田重直山田信直

(吉川方)山田盛直

(南条方)山田重直※、一条市助由良大蔵十六嶋遠江守十六嶋宗太郎

※毛利方より南条家臣として送り込まれていた時期は羽衣石城下に屋敷を構え居住とする。

築城年

935年(承平5年)

廃城年

1600年(慶長5年)

築城主

長田頼母

形 態

平城、丘城、海城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

萩藩閥閲録(山田家文書、山田氏覚書)

伯耆国久米郡嶋村田畑地続全図

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

北条町誌(1974年)

新修北条町史(2005年 新修北条町史編纂委員会)

ふるさと物語 北条町島の歴史(昭和54年11月 鳥取県東伯郡北条町島 島部落史編さん委員会)

縄張図

堤城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

島集落に所在し往時は要害足りえる比高を持つ小丘であり、湿地帯に囲まれ移動には舟が必要な地であったと伝える。

城としての役目を終えた後、次第に宅地化や農作地の拡張に伴って切り崩され、僅かな高低差を残して平坦な地へと改変されている。

城砦に関する小字として「城之内」「馬場先」「的場」「越前」「兵岡」「門崎」などが見え、本丸と伝える郭の輪郭が確認できる。

 

伯耆民談記では平城と明記されるが、東側には大卑川(大冷川、おうべ川とも呼ばれる現在の北条川)が流れ、周囲は湿地帯に囲まれていたことから海城に近い運用が想定される。

郷土史「ふるさと物語 北条町島の歴史」では主郭とする「本丸さん」が小丘に所在としており、高低差を殆ど有しなかった平城と伝える伯耆国田後城や伯耆国今倉城とは異なり、丘城と海城の両機能を備えた独特の城砦であったとする説を補強している。

 

城域については当城を本城として周辺に要害が幾つか備えられていたことが伯耆民談記に見える。

各要害は南条氏から攻撃を受けた際に機能したとしており、北東の北尾集落に所在する伯耆国堤屋敷、北西の山田八幡宮(現在の北条八幡宮)など周辺の山中に幾つかの城砦が所在ことも推測されるが、本城の防衛と併せて百人程度で守ることが可能な範囲となると数は多くないと考えられる。

 

伯耆民談記 巻之五 山田八幡宮の条

一、山田八幡宮 久米郡八幡島村

祭る神は石清水八幡宮なり。古時当所の領主山田山城守、京都より勧請し奉る。以前は此地を山田と云いしが此神を鎮座してより八幡村という。社の傍に一の梵鐘あり。其銘に曰く、

大日本国山陰道伯州久米郡北條郷山田八幡宮推鐘此鐘者平司舎兄左金吾紀秀員法名真観在主之時以所蓄量之用途所奉鋳也仍大願主紀秀員真願 弘安六年癸未三月十五日

或記に当社は後一條帝の朝、寛仁二年、上総之介平忠常の造営に係ると云う。忠常は東国の人。何ぞ遥々当地に神社を造営する事あるべき。その説信ずるに足らず。防州岩国の領主、吉川氏の家人、山田何某は昔時当地の領主たりし山田氏末葉なるか。家に旧き伝記を所持せり。其の文に、

承平五年伯州山田別当下向八幡大菩薩奉遷 当所号開発願主此子孫により山田を以て氏とす云々

此記と鐘の銘と照し見れば山田氏の造営たるや明かなり。山田家承平の頃より天正年中まで連綿として続きたりとせば、誠に久しき家柄なり。合戦の事は別に古城の巻に述ぶ。

当社は會して炎上によりて古き神宝記録も無し。元和の頃、当国の流人里見安房守忠義、造営の棟札あり。

 

伯耆民談記 巻之第十四 久米郡古城之部 堤之城之事

北条の郷島村にあり。当城は山田出雲守重直の累代の居城なり。 山田は紀姓当国無二の旧家なり。

大祖長田山城入道頼母、朱雀帝の御宇承平の頃より当国に居住し連綿として子孫代々当城にあり。古代は長田を氏とせしが中頃に至って山田と称し其家は当所今は島村と称すれとも本名山田にて昔時山田村と称しけるにより山田を氏と改む。庶流には長田を以て称せしむ。

それより年月遥に移って後宇多の帝の御宇、弘安の頃、山田左衛門尉秀員入道真観と云う人ありて此所の領主たり。真観より二百年に近き頃、山田石見守高直と号し世々国守山名家の旗下に属しける。然るに高直は大永四年五月崩れに雲州の尼子経久が為に家城を退去し流浪の客となって親族旧知の輩の方へ徘徊し遂に病死す。

其子出雲守重直は毛利家の属将、吉川元春の太刀かげを以て永禄年中再び当国に帰入安堵して其後羽衣石の南条元続の与力となり、堤の城には其子蔵人信直を置き、其身は羽衣石に在住せり。

天正七年、南条元続毛利家に背き上方へ一味する事に就き、重直是より先き、八橋の城杉原播磨守盛重と親睦なりければ潜に内通し盛重が嫡子彌三郎元盛を引出し、嫡子蔵人を案内役として同五月十一日の夜、山田佐助が居城高野宮を夜討せしが却きて寄手敗北し重直も其夜羽衣石の屋敷を逃出て堤の城に立帰り父子一所に楯籠る。(此の高野宮夜討の事は前に見えたり)高野宮夜討に付ては定めて近々羽衣石より当城へ大軍寄せ来るべしとて八橋尾高の両城へ後詰を乞いけれども杉原父子如何思いけん加勢来らず。暫らく沙汰も無し。漸く城中百餘人の勢にて所々の要害を固め楯籠る。案の如く同月十四日、南条勘兵衛元続八百餘人を卒し堤の城へ押寄せたり。

先陣は由良大蔵、一條一之助。後陣は十六嶋大和、大熊猛右衛門、津波八郎、菖蒲豊前、海老名源助、美田入道なり。城を取囲み関の聲を挙げて攻めかかる。城方も散々に鉄砲を打出し出雲守自身鑓を取て真先に進み黒部、佐々部、田中、長谷川、土井、山下等の剛の者共門を開きて突出し火花をちらして防ぎ戦う。されども寄手は大勢なでば新手を入替え入替え攻め近寄る。元来城兵小勢にて要害もまばらざる平城に後詰の頼みも無く、迚も此度勝利を見ん事叶い難し。死は安く生は難し。一旦退散して後日の本意を期し給えと老臣山田入道、大谷玄蕃等頻りに諌めける故、出雲守父子同心して然らば一方を切破り落行くべしとて。折しも五月なりしが降雨篠を突く如く降りけるにぞ。是を幸いに暗夜に紛れ北の門より一度に突き出で方々に落ち散りける。かくて重直信直父子共に恙なく、西伯耆尾高の城へ逃げ入りたり。南条は凱歌を唱えて残党悉く追い払い、当城には一條一之助、由良大蔵に三百餘人を相添えて八橋の押として入置き、其身は羽衣石に帰陣しける。

此度、敵味方の諸士、互に多年の親友旧知縁類の族、混乱しける故、共に義名を恥じて戦いける由り。討死の輩多く手負は数を知らずとかや。斯て慶長五年の一乱に南条家滅亡しければ当城も同時に泯滅し今に至りて空しく其跡のみを残しけり。

出雲守重直は伯耆の西に住居しけるが、遂に文禄元年三月十四日、会見郡柏尾村にて病死し、彼村に墓所あり。法名、長功院殿前雲州條公羽宗英大居子と号す。子孫今に防州岩国の吉川家へ仕え、当時山田平次右衛門織直と称するは重直の後胤なりとかや。

 

935年(承平5年)、長田頼母が伯耆国へと下向し山田別宮に入部とある。(伯耆民談記 山田八幡宮の条)

承平年間(931年~938年)、長田頼母が当地を治めていたとされることから、居館の存在は935年(承平5年)以降と推定される。

 

1283年(弘安6年)、紀秀員により山田八幡宮へ梵鐘が奉納されている。(伯耆民談記)

紀秀員から約200年の後、伯耆山名氏に仕えた人物として山田高直が登場する。

 

1524年(大永4年)、尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け落城。

城主であった山田高直は退去先で病死とある。

 

1562年(永禄5年)、但馬山名氏の元に居た山田重直毛利氏の支援を受け尼子方から当城を奪還している。

 

1579年(天正7年)9月、南条元続との対立が決定的となり、南条方によって当城が攻められると防戦も及ばず落城。

山田重直山田信直の父子は辛うじて難を逃れ、因幡国鹿野城へと撤退している。(山田家覚書)

伯耆民談記では同年5月の出来事とし、退却先も伯耆国尾高城とするなど相違が見える。(伯耆民談記)

 

1582年(天正10年)9月、吉川元春の部将として山田重直山田信直と共に南条元続の籠もる羽衣石城の攻略へ加わっている。

戦の最中に山田信直は急死するが山田重直羽衣石城を落城させている。

この戦では恩賞の先行給付を濫発していたため、戦後に手にした領地は久米郡内の28石のみであったとするが、家城であった当城を優先的に取り返したと考えられ、城主に山田盛直の名が見えることからこの頃に家督を譲ったとも推測される。

 

1584年~1585年(天正12年~天正13年)、京芸和睦が成立すると久米郡4万石は南条氏の領有となり、当城は十六嶋遠江守、或いは十六嶋宗太郎が城主とされる。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易されると伯耆国羽衣石城と併せて廃城と伝える。

 

伯耆民談記 巻之第十四 久米郡古城之部 山田八幡之事

堤の城の傍、北尾村に八幡の社あり。

是は山田家の大祖長田山城入道、承平年中、石清水八幡を此所に勧請し、当城鎮守の神とすといえり。今社地を八幡(やはた)と号すれども本名は山田也。八幡宮鎮守の地なるによって八幡と称し来れり。

社前の村を島というが是を八幡の島という。是も昔は山田の島と云いし也。 社号も山田八幡と称するなり。

上古より長く伝わりたる名社なれども数度の兵火に焼滅せしにや神宝什物の類いなく、唯社内に梵鐘あり。出雲守重直が中祖、左衛門尉秀員入道が鋳たる梵鐘にて今に至て三百餘年、誠に珍しき古鐘なり。銘文を見るに当城擁護祈願の為め鎮守の社に奉呈せしものなり。その文に曰く、

大日本山陰道伯耆久米郡北條郷山田八幡宮推鐘者平司舎兄左金吾秀員法名真観在主之時以取蓄量之用途取奉鋳也仍大願主紀秀員真願 弘安六年癸未三月十五日

銘文の中、蓄量の二字、字性正しからず見ゆ。此外棟札一枚有り。元和二年、此国の流人、里見安房守忠義修造の棟札なり。是も百数十年昔の事なるにより、文字も分明ならぬ処多く、城跡は社より巽の方にあり。今惣堀の跡のこりて見ゆ。表門は東向なり。一体小城にて木立もなき地城也。城内に鎮守とて一つの小社有り。八王子大明神と号す。

 

山田八幡宮については伯耆民談記では巻之五と巻之第十四にそれぞれ登場するが、紀秀員が奉納したと伝える梵鐘の銘文がやや異なっているためそれぞれ別人が記した条項と考えられる。

巻之第十四に見える山田八幡之事では当城が山田八幡宮から巽(東南)の方角に所在し、周囲を堀が巡り、大手門が東向きであったことが解る。

 

里見忠義の棟札についても存在は記されるが内容は文字が擦れ判別できず不明としている。

中村一忠の側室であった梅里氏の娘はこの嶋村の出身としている。

 

年 表

931年~938年

承平年間

長田頼母が当地を治めていたとされる。居館の存在は935年(承平5年)以降と推定される。

935年

承平5年

長田頼母が伯耆国へと下向し山田別宮に入部とある。(伯耆民談記 山田八幡宮の条)

1283年

弘安6年

紀秀員により山田八幡宮へ梵鐘が奉納されている。(伯耆民談記)

1524年

大永4年

尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け当城は落城。

1562年

永禄5年

但馬山名氏の元に居た山田重直毛利氏の支援を受け尼子方から当城を奪還している。

1579年

天正7年

9月、南条元続との対立が決定的となり、南条方によって当城が攻められると防戦も及ばず落城する。

山田重直山田信直の父子は辛うじて難を逃れ、因幡国鹿野城へと撤退している。(山田家覚書)

伯耆民談記では同年5月の出来事とし、退却先も伯耆国尾高城とするなど相違が見える。(伯耆民談記)

1582年

天正10年

9月、吉川元春の部将として山田重直山田信直と共に南条元続の籠もる羽衣石城の攻略へ加わっている。

戦の最中に山田信直が急死するが羽衣石城を落城させている。

戦後に手にした領地は久米郡内の28石のみであったとしているが家城であった当城を優先的に取り返したと考えられ、城主に山田盛直の名が見えることからこの頃に家督を譲ったとも推測される。

1584年~1585年

天正12年~天正13年

京芸和睦が成立すると久米郡4万石は南条氏の領有となり、当城は十六嶋遠江守、或いは十六嶋宗太郎が城主とされる。

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易されると伯耆国羽衣石城と併せて廃城と伝える。

地 図

 

写 真

訪城日 2020/01/11

南東からの遠望

南東からの遠望

北条川

南からの遠望

東に常夜灯

案内板から北側へ

主郭北側

主郭北側

主郭北側

主郭西側

主郭西側

主郭西側

主郭南側

主郭南側に五輪塔

主郭南側に祠

集落東側案内板

集落東側案内板

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