よみがな
人物名
やまだ くろうどのすけ のぶなお
山田蔵人佐信直
出身
不詳
生年
不詳
没年
1582年(天正10年)
氏
紀
姓
朝臣
名
山田
通称
蔵人佐
諱
信直
官途
蔵人佐
別名
山田又五郎(やまだ またごろう)
所属
毛利
列 伝
吉川家臣覚書(抄) 東郷町誌 資料編収録(吉川家臣覚書一 覚書 山田右門差出)
(前略)永禄七年七月、尼子勢因州伯州口へ乱入に付て毛利家より被仰付。南条始め小森其外出雲守重直事も被差向、度々合戦有之。因州鹿野麓に於いて大合戦有之。雲州勢手強く責掛り味方引色見え候。付て出雲守重直同蔵人佐信直二手に分れ小森勢其外少々相加り尼子後へ備り廻し両口より切かかり申候に付。尼子勢前後ノ敵大勢と見、責掛り候付弥引色に有之間、前後左右より入乱稠くせり立。尼子勢数多諸手へ討取申候付弥不叶打入富田へ引取申候。此時諸手へ討取首百余。出雲守父子手へも三十余打取り申候。家来数人手をくだき高名仕能働候ものも末々迄も有之候。味方にも惣勢之中、浅手の者は数多有之候事。但、時々毛利吉川家より御書有之候事。
1564年(永禄7年)、因幡国鹿野城へ山田重直と共に在番。
同年7月、尼子氏との鹿野合戦では毛利方の要請を受けた南条宗勝に従い、小森久綱、山田重直と共に参陣している。
山田重直と共に奮戦し、尼子方の首級を30余り挙げたとしている。(吉川家臣覚書(抄))
1573年(天正元年)11月7日、吉川元春の軍勢が因幡へ着陣する。
鹿野城の普請など所労のため参じることができなかった山田重直の代参を務めている。(山田出雲守宛吉川元春書状(写))
1574年(天正2年)11月1日、尼子再興軍との私部合戦では焼討により敵軍を壊滅させ、比類なき働きであったと吉川元春より謝意を伝えられている。(山田蔵人宛吉川元春書状(写))
1579年(天正7年)5月、山田重直は杉原盛重と謀り、南条方の伯耆国高野宮城に対する夜討を画策する。
同月2日の夜、高野宮城への夜討の詳細が記された書状を携えた密使は山田越中守の家臣、水野甚八の護衛によって殺害され、一通の書状が内通の証拠として南条元続へと届けられている。
高野宮城への夜襲計画は南条方へと露見するが、山田越中守は露見の事実を山田重直に伏せた上で山田佐助に高野宮城の備えを指示している。
同月11日の夜半、自身が案内役となり杉原元盛と300余騎を率いて高野宮城を攻めるが、計画が露見していた上に万全の備えで待ち伏せをしていた山田佐助の軍勢に敗れている。高野宮城から勝鬨が上がると同時に山田畔之助が羽衣石城下の山田屋敷へと討ち入り山田重直の妻子を捕虜としている。
山田重直に与した残党数十人も捕えられ、長瀬の浜で悉く首を刎ねられ梟木へと懸けられたとある。
山田重直の妻子は続けて拘束され、堤城の攻撃の際に人質として利用されることとなる。(伯耆民談記 巻之第十二 高野宮の城の事)
同年9月、南条元続によって堤城が攻撃を受け落城。間一髪のところで父の山田重直と共に鹿野城へと逃れている。
1582年(天正10年)9月、山田重直と共に吉川元春の部将として南条元続の籠もる伯耆国羽衣石城の攻略へ加わるが、戦の最中に陣没する。
1584年(天正12年)、京芸和睦により領地が確定すると堤城は南条方の所領となったことから山田重直、山田盛直は共に会見郡柏尾村の伯耆国小鷹城へと移っている。
小鷹城の出城が所在したとされる小鷹神社には山田重直と共に祀られ、現在も今宮さんと呼ばれ慕われている。
その武勇を比して素益鳴尊(すさのうのみこと)と称され、若宮さんと呼ばれる山田重直は五穀豊穣の神に比して稲荷宇気持神(いなりうきもちのかみ)とし、親子共々柏尾の守り神として崇められている。