所 属

但馬山名

毛利

毛利

南条

よみがな

人物名

こもり もくのしょう ひさつな

小森木工允久綱

官 途

木工允(陰徳太平記)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

久綱

列 伝

東伯耆の国人。

多くの文献、書物で南条宗勝と並んで登場するため麾下の副官クラスであったか、同程度の勢力を持つ国人であったことが伺える。

毛利家と南条家に不和が生じると毛利方から山田重直と共に南条家へと派遣されるが、南条宗勝の家督を継いだ南条元続を嫌っている素振りも見える。

 

陰徳太平記 巻第十一 橋津川合戦付尼子兵部の太輔戦死並武田山城守最後之事

武田山城守は(略)伯州の在々に南條、行松等が家人共の残り留まりける者共を語らい多数を以て発向せんと羽檄を所々にぞ飛しける。(略)同十月九日、其勢七千餘騎。伯州馬野山邊へ出張し爰にて軍勢を二隊に分け、先ず橋津口へは南條豊後守宗勝、小森木工允、餅之瀬已下二千餘騎也。(略)尼子紀伊守も吉田兄弟を近付け御邊達は豫じめ約する如く南條らと一戦せられ候え。(略)吉田兄弟は二千餘騎にて南條と勇気を較ぶべしとて橋津の橋の此方に備えたり。

 

1546年11月2日(天文15年10月9日)

橋津川の戦いでは武田山城守に応じ、南条宗勝らと2,000騎を率いて尼子方の吉田筑後守吉田左京亮率いる2,000騎と橋津川を挟んで対陣する。

橋上では吉田左京亮南条宗勝が一騎打ちとなり、三度戦った末に南条宗勝吉田左京亮を退けている。

これを見た南条方の兵が手柄を求めて橋上に殺到したため、橋は重量に耐えられず倒壊している。

橋の倒壊に巻き込まれたのは南条方の300餘騎は溺れる者、浮き上がる所を突き殺される者があり一人も残らず討ち取られたとしている。(陰徳太平記)

 

陰徳太平記などから橋津川の戦いは1546年11月2日(天文15年10月9日)の出来事とされていたが、現在では史料の整合性から1546年7月25日(天文15年6月28日)の出来事と見直されている。

 

1563年(永禄6年)頃

山田重直が家城であった伯耆国堤城を奪還した頃、折衝役として山田重直と共に南条家の家臣として送り込まれる。

形式的であっても南条氏の家臣になることを山田重直と共に直前まで渋ったとしている。

 

東郷町誌(青谷町誌所収)

鳴滝村 正一位神崎大朋神 杜領

一、永禄年中伯州羽衣石之城主南条家御証文写

奉寄進因州気多郡勝部郷神崎大明神田地之事

一、壱町 東分 一参段 西分 一弐段 寺分 一弐段 綱嶋分 一壱段大 公文分 合壱町捌段大

右、意趣者武運長久如意安全、子孫繁栄、奉祈加護者也、仍寄進状如件。

于時永禄七甲子年七月十三日 小森木工允源久綱

 

1564年8月19日(永禄7年7月13日)

東郷町誌には本人名義の寄進状が収録されている。

但し、前書きに「羽衣石之城主南条家御証文」とあることから、主家である南条氏の意を受けた寄進としている。

 

1580年10月20日(天正8年9月20日)

小森方高が毛利方の杉原元盛に内通し南条方を離反する。

小森方高進免之により討ち取られ、伯耆国松崎城及び小森方高の知行所は進免之へと与えられる。

 

陰徳太平記 巻之六十五 秀吉敵城批判並退軍之事

(略)又、松之崎の城小森木工ノ允在て篝火をも焼ず大門をも鎖ず、出入の人影もなきを見給て、いか様に小森を明退たる体にもてなし敵を泛々と塀の手に付せ驀地に切て出んとの謀なる乎、又は敵に油断させ一夜討すべきなど擬する心にや。(略)

 

1581年11月24日(天正9年10月28日)

馬ノ山の対陣(吉川元春馬ノ山砦羽柴秀吉御冠山陣の対峙)では当城に在番とある。

評定での南条元続の報告から当城が吉川方の領有であり、自身は空城の計を以て城の防備に当ったとしている。

伯耆民談記では松崎城を天正年間末頃まで進免之の所領としている。

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