伯耆国 河村郡
うまのやまとりで
馬ノ山砦
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字上橋津
城 名
馬ノ山砦(うまのやまとりで)
別 名
馬之山砦(うまのやまとりで)
馬野山砦(うまのやまとりで)
馬山砦(うまやまとりで)
駒山城(こまやまじょう)…羽衣石南条記での呼称。
築城主
不詳
築城年
16世紀(1500年代)
廃城年
1581年(天正9年)頃
形 態
丘城
遺 構
郭跡、土塁、切岸
※ 残存する遺構に関してはいずれもハワイ風土記館の建設による改変が考えられる。
現 状
ハワイ風土記館、山林、畑地、公園(馬ノ山公園)、原野
備 考
史跡指定なし
縄張図
馬ノ山砦略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
陰徳太平記(明治44年5月 犬山仙之助)
因伯古城跡図志(文政元年)
萩藩閥録(吉川家文書、毛利家文書)
信長公記
羽衣石南条記 巻ノ下 (大正4年10月5日発行 活字版)
東郷町誌(昭和62年12月発行 東郷町誌編さん委員会)
年 表
天正年間
南条氏の家臣、山名氏豊の居城であったと伝える。
1580年
天正8年
8月、長和田の戦い、長瀬川の合戦に敗北した山名氏豊は逃亡中に落人狩りに遭い殺害され、以降は毛利方の所領となったと考えられる。
1581年
天正9年
10月25日、因幡国鳥取城が落城する。
鳥取城の城主であった吉川経家の弔い合戦で吉川元春(馬ノ山砦※)と羽柴秀吉(御冠山陣)が対峙とある。(馬ノ山の対峙、馬ノ山の対陣)
※吉川元春は伯耆国茶臼山城、羽柴秀吉は伯耆国十万寺城を本陣とする説もある。
11月8日、羽柴秀吉は播州姫路へと帰陣し、吉川元春も出雲(或いは芸州)へ撤収したとされる。(信長公紀)
吉川元春の撤兵を以て廃城と伝える。
概 略
16世紀の築城と伝えるが城域には多くの古墳が存在し、16世紀以前の築城も考えられる。
古くは鎌倉時代に当地で馬の放牧がされていたことが絵巻物に描かれることを由縁とし「馬山」と呼称するとしている。
戦国期には毛利氏から南条氏の臣下へと移った山名氏豊の居城であったと伝えている。
1546年(天文15年)6月、橋津川の合戦では南条宗勝への援軍として因幡山名氏の軍勢が馬ノ山に布陣とするが、総大将であった武田常信の在城があったとするかは不明。
同月、馬ノ山の合戦に於いて武田常信の部隊は敗走し、馬ノ山のスクモ塚(宿藻塚とも。上橋津西の土)にて自刃とある。
橋津川では南条宗勝と尼子方の吉田左京亮が戦闘を行っている。
南条宗勝が吉田左京亮を追い詰めるが橋が倒壊し双方水没する説、尼子方の吉田左京亮の水計によって南条方の軍勢のみ水没する説など諸説見える。
1580年(天正8年)の長和田の戦い、長瀬川の戦い以降は毛利方の領有となり、吉川元春、吉川元長が居城したと伝え、南条元周に敗れた吉川元長が当砦に退却したなどの記述が見える。
吉川元長が駐屯していた伯耆国茶臼山城と連携した運用が為され、南条氏と毛利氏による東伯耆の領有権争いでは毛利方の拠点として馬ノ山に本陣が置かれていたと伝える。
羽衣石南条記 吉川駿河守駒山在城の事
橋津馬ノ山を本陣とし北の海には数百艘の兵船を浮かべた。東には白石村に砦を構え吉川彦七郎元景を置き、西は茶臼山に要害を構えて毛利民部太輔元経に守らせた。
羽衣石南条記では「駒山城」とする記述が見え、主郭の所在地を駒山、或いは馬山としている。
当砦を本城として、北は日本海、東を白石村の砦(白石城)、西を茶臼山の要害(茶臼山城)を以って陣容を構えたとされる。
信長公記の「伯耆国南条表発向の事」の条や陰徳太平記にもほぼ同様の記述が見えるが、陰徳太平記では吉川元春の豪胆さを際立たせる記述が目立つ。
伯耆民談記 巻之第十二 河村郡古城之部 馬の山砦の事
羽合の郷橋津村にあり。其形円平にして草山なり。右は根岳として険峻の幽谷にして前は東郷の湖水漫々たり。後は橋津川迂回して流れ一筋の橋の外には往復の道を断ち、山上に登れば近郷の田野、八方の風景眼下に望むべく地の利を得、要害甚だ堅固也。天正のむかし芸州の将、吉川駿河守元春此山に砦を築き、其子治部少輔元長と代わる代わる在城して国中を鎮護せり。今に至る迄砦の跡顕然と残れり。山上は南北三丁余り、東西二丁余りも有るべし。四方かき上げ六七尺の高さにて、南北に門のあとあり。又、掻上げの極中に大きなる崖あり。往古より有る岩屋なりといえり。根岳は浜辺なり。岩壁の下に一つの洞穴あり。奥深くむかしは三徳山へ往復せしと處の古老言伝う。
伯耆民談記では南北に城門跡の存在を記しており、三徳山へ通じる洞穴の存在を伝えている。
1581年(天正9年)10月25日、因幡国鳥取城落城の報せを受けた毛利方は吉川経家の弔い合戦として吉川元春が当砦(茶臼山城とも)に、織田方は南条氏の支援と称し更なる勢力の拡大を目論んだ羽柴秀吉が御冠山(十万寺城とも)の陣に布陣し対峙したとされる。(馬ノ山の対峙、馬ノ山の対陣)
毛利方は5千~6千騎、対する織田方は3万~8万騎と約10倍以上の兵力差があったとされるが、弔い合戦に臨む毛利方将兵の士気は高く、更に吉川元春は橋津川に架かる全ての橋を落とし、日本海上の兵船を全て陸に揚げ、櫓も全て折り捨て芸州(或いは出雲)への退路を断つ背水の陣を敷いている。
この背水の陣に関して陰徳太平記では古の中国の武将、項羽のような悪戯に死地を作る戦術ではなく、漢の韓信(記述内容から蕭何の采配の事か)が敷いた活路を見出す戦術であったとしている。
吉川元春の陣中では大雪の中で炉を焚き、諸将達と鮭を肴に粕酒をすすりながら談笑し、高いびきをかいて寝ていたという。
吉川元春の陣容、陣内での振舞い、大雪による遠征側の不利を察知した羽柴秀吉は戦を始めても味方の被害が甚大になるだけと考え、吉川元春と直接刃を交えることなく播州へと撤兵したとする。
現地案内板では”吉川元春と羽柴秀吉が仮に戦っていれば日本の歴史が変わっていた”と結んでいる。
馬ノ山の対陣に於ける伝承では吉川元春と羽柴秀吉が対峙し一触即発の状況であったことを伝えているが、羽柴秀吉の主要な目的は伯耆国羽衣石城及び伯耆国岩倉城への兵糧や武具の補給とされ、補給が終わると織田方の軍勢は早々に引き揚げてしまったことから南条方の士気は大いに低下したとされる。
廃城時期については吉川元春の退陣に伴っての廃城と推定されることから1581年(天正9年)頃と考えられている。
写 真
2014年11月1日