伯耆国 八橋郡
じょうやまじょう
條山城
所在地
鳥取県東伯郡琴浦町太一垣
城 名
條山城(じょうやまじょう)
別 名
太一垣城(たいちがきじょう)…太一垣村に所在したことに因む呼称。
条山城(じょうやまじょう)…比較的新しい伯耆民談記からの記述。
城山城(じょうやまじょう)…所在する城山に因む名称。
築城主
不詳(吉川元春と推定される)
築城年
1580年(天正8年)
廃城年
不詳
形 態
丘城
遺 構
郭跡(帯郭、腰郭)、土塁、虎口、堀切、切岸
現 状
山林、原野、竹林、公園(川合清丸石碑)
備 考
史跡指定なし
縄張図
條山城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
因伯古城跡図志(1818年 文政元年)
赤碕町誌(昭和49年11月 赤碕町誌編纂委員会)
鳥取縣神社誌
新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)
概 略
船上小学校(旧成美小学校)より西側の丘陵、條山の北端から山上にかけて所在したと伝える。
赤碕町誌では「太一垣城跡」の条に伯耆国箆津城の支城として地元の人は「條山城跡」と呼称するとしている。
條山の山頂周辺に城があったこと、條山と城山の音が同じ事から一部に「城山城」とも呼称されるようである。
城砦は両側に以西谷、中村谷を造り、船上山に通ずる丘陵の北側突端にあり、山頂からは成美、安田両地区の平野を眼下に見渡せることから戦国時代の武将が好んで選んだ形状の山城とされ、その後の吉川氏、南条氏による東伯耆の領有争いでも難攻不落の城であったと伝えられる。
城跡は一帯を含めて4~5町歩程あり、一部は耕され果樹園や野菜畑に姿を変えたが、土塁や堀跡は昔の面影を残している。(赤碕町誌 妙見山の合戦と成美太一垣城 より)
現地を歩くと西に黒川、東に神田川が流れており、両川を天然の川濠とし防御力を高める一方、運河として物流にも利用したことが推定される。
伯耆民談記 八橋郡古城之部 条山城の条
伯耆民談記では元々「條山城」と記述されていたが、改版を重ね編纂者が変わるにつれ「条山城」へ変化している。
1580年(天正8年)、南条方の伯耆国岩倉城に対する向城として築城されたとあり、当初は岡本大蔵、田根兵部が在番していたとする。(伯耆民談記)
1582年(天正10年)、妙見山合戦の頃は森脇越後守の居城とある。(伯耆民談記)
伯耆民談記 八橋郡古城之部 秋里新左衛門戦務書述の事
一、景盛御打果しの時、八橋郡上郷ノ妙見山を受取可攻旨森脇越後守殿より三澤備後守殿某兩人に被仰付馳向候て城にも入不申山下至。南條殿自身に被出候処、三澤殿は岸中に逗留城より南條殿方に末の仕手、近藤と申仁罷出候を道にて岩垣何助私兩人申合取すすめ速時に彼城へ入受取申事森脇具に可被存知事。
一、同月船上山細木原の城に行松殿被出候に付(略)
一、明春赤崎の原にて八橋より南條衆罷出候処、箆津の城山より此方の衆罷出渡合(略)
伯耆民談記 八橋郡古城之部 妙見山城の条
秋里新左衛門の戦務書述には周辺の合戦状況、妙見山の城の条では森脇越後守から増援の派遣について報告が見える。
1582年(天正10年)2月、吉川元春が八橋城(箆津城とも)へ入ると羽衣石の南条氏と度重なる合戦(妙見山合戦)を行っており、太一垣を居城とした森脇越後守も増援の命を受け参戦、部将の秋里新左衛門、三沢備後守を派遣している。
因伯古城跡図志 太一垣村古城跡
太一垣村古城跡竹木草有。両谷ノ間山ニテ谷口ノ山鼻也。山裾ニ川有。嶮山ニテ無之。山ノ高十七間位、山上ノ平地長百間余、横二十間位。
眺望の良さ、旧赤碕町の中央に位置したことから公園化の構想もあったようだが実現せず今日も城砦の遺構は多く残っている。
但し、法面の崩落が至る所で起きているため将来的に郭跡の端に積まれた土塁の破壊、消滅が危惧される。
(赤碕町誌にある旧成美小側の登山道も崩落のためか登城は厳しく、太一垣集落側からの作業道を通る方が安全)
主郭から北側に一段下った郭跡には川合清丸の顕彰碑が鎮座する。
成美神社の神職で神儒仏三道を習合して大道社を創立した人物と伝えるが当城との関係は不明。
写 真
2019年4月13日