武将列伝帖

ゆきまつ じろうしろう

行松次郎四郎

【氏】不明【姓】不明【名】行松【通称】次郎四郎【諱】不明

別 名

出 身

不明

官 途

不明

所 属

南条氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

行松正盛の次男とし、行松氏の正当な後裔を称した人物。

 

1584年(天正12年)、船上山付近の伯耆国細木原城へと立て籠もり、吉川方に抵抗するが秋里新左衛門らの攻撃を受け降伏している。(伯耆民談記)

 

1585年(天正13年)7月9日、毛利方の四国遠征のため伯耆国内の軍勢が手薄になった隙を突き、南条元続より1,000騎を預かると一族の家城であった伯耆国尾高城の奪還を目論み侵攻ルート上に所在した伯耆国香原山城を攻撃すると僅か1日で落城させている。

香原山城の攻略後は尾高城へと向かわず、そのまま香原山城へ駐屯している。

同年7月14日早朝、毛利方の援軍として毛利元康が800騎を率いて着陣するが、牛尾春重吉田元重の部隊と連携が取れず、この日は陣の設営のみ行っている。

同年7月15日、牛尾春重吉田元重の部隊が戦場へ到着。

毛利元康の増援本隊と合流し香原山城への攻撃が開始されると不利を悟り伯耆国羽衣石城へと撤退している。

 

宇田川村史や淀江町誌では香原山城の戦いを伯耆国北尾城での出来事としている。

 

一説には架空の人物とも推測される。

行松正盛の次男を称するが杉原景盛とする場合、1582年(天正10年)に死亡しているため整合性が取れない。

侵攻の理由も一族の家城である尾高城奪還のために出陣したとされるが、この頃の尾高城の城番は吉田元重或いは吉田元勝で、杉原盛重の血縁である。

杉原家は行松正盛の家督を正当に引き継いでいるため、他の行松家による家城の奪還とする理由には聊か正当性が疑わしくなる。

 

戦の進め方も当初の目的と合致しない点があり、香原山城を落としただけで尾高城を攻める姿勢は見られない。

軍勢の再編のため駐屯したとも考えられるが、毛利方の10倍の勢力を以て僅か1日で落としていることから休息の必要性も考えにくい。

毛利方の援軍到着後も兵力にほぼ差は無かったが、早々に羽衣石城へ撤兵していることからこの戦の目的が何処にあったかは研究の余地が残る。

陰徳太平記では南条元続が黒幕であることを強調するため、伯耆民談記では南条元続が主導したことを隠蔽するため、それぞれ架空の総大将として創作された人物とも考えられる。

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