所 属
南条
よみがな
人物名
ゆきまつ じろうしろう
行松次郎四郎
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
源
姓
朝臣
諱
不詳
列 伝
行松氏の正当な後裔と称して南条方に与した人物。
1584年(天正12年)
船上山支脈の伯耆国細木原城へと立て籠もり吉川方に抵抗するが、森脇氏の部将、秋里新左衛門らの攻撃を受け降伏している。(伯耆民談記)
1585年8月4日(天正13年7月9日)
四国遠征のため伯耆国内の毛利方の軍勢が手薄になった隙を突き、南条元続より1,000騎を預かると一族の家城であった伯耆国尾高城の奪還を画策する。
尾高城への侵攻ルート上に所在した伯耆国香原山城を攻撃し、僅か1日で落城させるが尾高城には向かわず香原山城に駐屯している。
1585年8月9日(天正13年7月14日)
早朝、毛利方の援軍として毛利元康が800騎を率いて戦場へ到着するが牛尾春重、吉田元重ら現地部隊との連絡が取れず陣地の設営のみ行っている。
1585年8月10日(天正13年7月15日)
毛利元康の増援本隊に牛尾春重、吉田元重の部隊が合流し、香原山城への攻撃が開始される。
兵力はほぼ互角であったが、不利を悟ると早々に伯耆国羽衣石城へと撤退する。
宇田川村史や淀江町誌では香原山城の合戦を伯耆国北尾城での出来事としている。
一説には南条元続が毛利方を牽制するため、出兵の大義名分を立たせるために用意した架空の人物とも推測される。
行松正盛の次男を称するが、行松松千代(杉原景盛)とするなら1582年(天正10年)に死亡しているため整合性が取れない。
出兵の理由も一族の家城であった尾高城奪還のためとするが、この頃の尾高城の城番は吉田元重或いは吉田元勝であり、吉田元重に関しては杉原盛重の血縁(娘婿)である。
伯耆国での杉原家は行松正盛の家督を正当に引き継いでいるため、仮に行松氏の分家による家城の奪還とする理由であっても聊か正当性は疑わしくなる。
戦況の推移も尾高城奪還とは合致しない点が見受けられ、香原山城の陥落後は毛利元康の増援が友軍との連携に手間取っている間も高みの見物を決め込み尾高城を攻める姿勢は見られない。
香原山城の奪取で若干の損害が出たため軍勢の再編に一時駐屯したとも考えられるが、毛利方の守将であった福頼藤兵衛は約10倍の戦力差を聞くに及んで遁走し、僅か1日足らずで陥落したことから部隊の再編や休息に時間を要したとは考えにくい。
毛利元康の増援到着後も大きな兵力差は無かったが、早々に羽衣石城へと撤兵していることから尾高城の奪還ではなく、伯耆国内に残る毛利方の戦力に対する威力偵察が主な目的であったと推測される。
陰徳太平記では南条元続が黒幕であることを強調するため、伯耆民談記では南条元続が主導したことを隠蔽するため、それぞれ都合の良い大将として据えられた架空の人物とも推測される。