所 属
尼子
▶
毛利
杉原
▶
毛利
吉川
よみがな
人物名
よしだ ひぜんのかみ もとしげ
吉田肥前守元重
幼 名
よしだ げんじろう
吉田源四郎
尼子家に仕えた頃の名乗り
官 途
肥前守(毛利方へ与した頃より)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
源
姓
朝臣
諱
元重
列 伝
代々尼子家に仕えた出雲吉田家の一族。吉田義辰の子。
伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部 八橋の城の事
左京亮、播州太子堂に於て備中国成和の城主三村修理亮家親と合戦して討死せり。
1553年~1554年(天文22年~天文23年)
伯耆民談記では父、吉田義辰が播磨国の太子堂合戦で討死したため家督を継承し、伯耆国大江城(八橋城)の城主となったと伝える。
陰徳太平記では吉田義辰の自刃を永禄2年(永禄4年とも)と伝えている。
伯耆志 鴨部村の条 城跡の項
村の北上る事一丁余りの山なり。北方に空堀の形あり。頂の平地方二十三間、稍下て西方に方十五間許の地あり。昔の法勝寺城是なり。永禄七年毛利氏の草創にて同年其将、三村修理亮家親(備中成羽之人)日野郡不動岳より移して当城に入る。九月、家親尼子方吉田源四郎其部下谷上孫兵衛、福山肥後守等が籠れる八橋城を攻破る。吉田以下走て富田城に入る。
1564年(永禄7年)
三村家親が伯耆国法勝寺城へ侵攻の際は援軍として出陣するが、援軍の甲斐なく法勝寺城は落城している。
伯耆民談記 巻之第十五 八橋郡古城之部
一、八橋の城の事
菊里の郷八橋にあり。大江の城と号す。行松左衛門尉正盛入道累代の家城なり。然るに大永の崩れに尼子経久が為に滅亡し正盛は流浪の身と成れり。当城尼子領と成って吉田肥後守が舎弟吉田左京亮居住し西三郡を守護す。然るに左京亮、播州太子堂に於て備中国成和の城主三村修理亮家親と合戦して討死せり。其子源四郎という。幼少にて孤と成りしが家臣とも軍事を補佐して当城に在り。然るに永禄七年の冬より三村家親、毛利元就の名を蒙り伯耆の押と成て会見郡法勝寺の城に居る。源四郎が家臣福山を始め各打寄りて申談する様、主人の怨敵を目の前に差置き此儘にあるべきぞ。急ぎ法勝寺へ押寄せ一朝に討果すべしとて軍議一決しける。此事三村家親に聞えて頓て芸州へ注進せしかば毛利家より香川佐兵衛尉光景を加勢として法勝寺の城へ着陣し、九月三日、家親、光景一手に成り二千余の人数にて八橋の城へ寄せかけたり。城中には吉田が臣、福山、谷土、熊谷、平松等を始め二百余人楯籠る。大手は三村勢攻寄せしが素より家親勇猛の将なれば真先に城門へ押詰め攻立つる。城中にも三村と見るよりも我先きにと突き出て身命を惜まず戦うたり。香川は搦手より攻めけるが肩先を射られ少し猶豫する所に長男五郎廣景、二男兵部太輔春継、士卒を進め外廓を乗やぶる。城兵今は叶わずとて、福山、平松、谷土、熊谷等屈竟の者共八十余騎源四郎を真中に取り包み大手へ一文字に突て出づ寄手の中を打破り西の方へ落ちて行く。家親怒てそれを討留め射取れや者どもと下知すれども主従難なく落延び尼子の本城雲州富田へ馳込みたり。三村、香川は勝鬨唱え城を乗取り当城に逗留す。源四郎が家来共此事を口惜く思い尼子義久に訴え、秋山、牛尾、本多等五百余の加勢を乞受け当城へ夜討しけれども三村、香川、用心隙間なく秋山等追払われて富田の城へ引帰る。かくして光景は芸州に帰り、当城は家親より三村五郎兵衛、海辺左近、村松宗房等に五百余人を添えて入置きける。
1565年9月26日(永禄8年9月3日)
毛利方は出雲国月山富田城包囲戦の前段階として、伯耆国側からの補給路を絶つため尼子方の伯耆国内に於ける残存戦力であった伯耆国江美城、伯耆国不動ヶ嶽を続けて陥落させている。
居城であった大江城も毛利方の攻撃を受け、落城寸前のところを福山綱信の援軍により救出され窮地を脱している。
救出の際は福山綱信、谷上孫兵衛、熊谷又兵衛、熊谷小平太、平松大八など屈強な精兵60余名が周りを囲み、大手へ向かい一直線に突破するとそのまま脱出に成功し月山富田城まで落ち延びたが、脱出時は残存兵200騎のうち130名が毛利方に討ち取られたとある。(陰徳太平記 巻第三十九 大江城没落並富田勢夜討之事)
落ち延びた後の詳細は不明であるが、月山富田城の攻防戦では尼子家に殉じ最期まで戦った吉田氏の一族には名前が見えず後に杉原盛重の部将として伯耆国尾高城の城番を務めていることから月山富田城の開城後は毛利方へと降伏し杉原盛重に仕えたと推測される。
一族は代々尼子方の宿将であり、毛利方の侵攻に対しては度々防戦に赴き、月山富田城開城後の降伏と考えられているが、杉原盛重の娘を娶るなど尼子氏が滅亡した後の降将としては破格の厚遇を受けており、律儀で忠義の士とも評される。
1571年(元亀2年)
伯耆国米子城に続いて尾高城に攻め入ってきた尼子残党の羽倉元蔭が率いる五百余騎に対し、菖蒲左馬允、入江大蔵少輔と共に大将として七百余騎を率いて応戦している。(陰徳太平記 巻四十八 羽倉元蔭戦死之事)
陰徳太平記では「菖蒲、入江、巳下に盛重が婿なる」とあり、菖蒲左馬允、入江大蔵少輔より格が下であったことが分かる。
1573年(元亀4年/天正元年)
吉川元長に従い軍役。
1582年1月19日(天正9年12月25日)
杉原盛重が没すると家督争いとなり、杉原元盛が殺害され杉原景盛が家督を相続している。
日頃から杉原景盛の悪行には耐え兼ねていたとされ、杉原景盛の討伐隊が派遣されると香川春継、粟屋就光らに応じ毛利方へと協力している。