武将列伝帖

よしだ ひぜんのかみ もとしげ

吉田肥前守元重

【氏】源【姓】朝臣【名】吉田【通称】肥前守【諱】元重

別 名

吉田源四郎(よしだ げんじろう)

出 身

不明

官 途

肥前守

所 属

尼子氏⇒杉原氏⇒吉川氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

出雲吉田家の一族で吉田左京亮の子。

尼子氏に仕えた頃は源四郎、毛利氏に帰順した頃から肥前守を名乗っている。

 

代々尼子氏に仕え、天文年間(1532年~1555年)に父の吉田左京亮が播磨国で討死にすると家督を継ぎ、伯耆国大江城八橋城)の城主となった。

 

1564年(永禄7年)、父を討った仇敵の三村家親が伯耆国法勝寺城へ侵攻すると援軍として出陣するが、援軍の甲斐なく法勝寺城は落城している。

 

1565年(永禄8年)、毛利方の出雲国月山富田城包囲戦の前段階として、伯耆国側からの補給路を絶つため尼子方の伯耆国内における残存戦力であった伯耆国江美城、伯耆国不動ヶ嶽が続けて落城。

同年9月3日、居城であった大江城も毛利方の攻撃を受け、落城寸前のところを福山綱信の援軍により救出され窮地を脱している。

救出の際は福山綱信谷上孫兵衛熊谷又兵衛熊谷小平太平松大八など屈強な精兵60余名が周りを囲み、大手へ向かい一直線に突破するとそのまま脱出に成功し月山富田城まで落ち延びている。

脱出時、残存兵200騎のうち130名が毛利方に討ち取られたとある。(陰徳太平記 巻第三十九 大江城没落並富田勢夜討之事)

落ち延びた後の詳細は不明であるが、月山富田城の攻防戦では尼子家に殉じ最期まで戦った吉田氏の一族には名前が見えないこと、後に杉原盛重の部将として伯耆国尾高城の城番を務めていることから月山富田城の開城後は毛利方へと降伏し杉原盛重に仕えたと推測される。

一族は代々尼子方の宿将であり、毛利方の侵攻に対しては度々防戦に赴き、月山富田城開城後の降伏と考えられているが、杉原盛重の娘を娶るなど尼子氏が滅亡した後の降将としては破格の厚遇を受けており、律儀で忠義の士とも評される。

 

1571年(元亀2年)、伯耆国米子城に続いて尾高城に攻め入ってきた尼子残党の羽倉元蔭が率いる五百余騎に対し、菖蒲左馬允入江大蔵少輔と共に大将として七百余騎を率いて応戦している。(陰徳太平記 巻四十八 羽倉元蔭戦死之事)

陰徳太平記では「菖蒲、入江、巳下に盛重が婿なる」とあり、菖蒲左馬允入江大蔵少輔より格が下であったことが分かる。

 

1573年(元亀4年/天正元年)には吉川元長に従い軍役。

 

1582年1月19日(天正9年12月25日)、杉原盛重が没すると家督争いとなり、杉原元盛が殺害され杉原景盛が家督を相続している。

日頃から杉原景盛の悪行には耐え兼ねていたとされ、杉原景盛の討伐隊が派遣されると香川春継粟屋就光らに応じ毛利方へと協力している。

 

杉原景盛の討伐後は尾高城の城番を任されている。

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