武将列伝帖

ふくやま じろうざえもん これまさ

福山次郎左衛門茲正

【氏】不明【姓】不明【名】福山【通称】次郎左衛門【諱】茲正

別 名

福山二郎左衛門(ふくやま じろうざえもん)

出 身

不明

官 途

左衛門尉

所 属

尼子氏⇒毛利氏⇒南条氏

生 年

不明

没 年

1576年(天正4年)7月

 

- 列 伝 -

尼子倫久の家臣。伯耆民談記では吉田源四郎の家臣としている。

吉田源四郎の留守中は横道高光と共に伯耆国八橋城の城番を務めた。

 

1565年(永禄8年)、毛利方の出雲国月山富田城攻めに於いては糧道遮断と包囲網形成のため、伯耆国内に残っていた尼子方の拠点から攻略が始まると日野郡に残存していた伯耆国江美城、伯耆国不動ヶ嶽が続けて落城し、孤立した八橋城も攻撃を受け落城している。

八橋城の落城寸前、福山綱信らの援軍が血路を開き、吉田源四郎と残存兵200騎をまとめ敵中突破を敢行し月山富田城まで落ち延びている。

撤退戦では吉田源四郎の本隊、福山綱信の援軍のどちらの部隊と行動を共にしたかは不明だが翌年の月山富田城の籠城戦に名が見える。

 

1566年(永禄9年)、月山富田城の開城の際、一族と共に籠城していたことが記述に見える。(佐々木家文書)

毛利氏に降伏後、暫くは消息不明となるが、後に伯耆国羽衣石城の城下へと移っており、この頃に羽衣石城の城主、南条元続と親交を持ったとされ、織田方へと与するよう説得を行っていたとする。

 

1576年(天正4年)7月、吉川元春の命を受けた南条家の家臣、山田重直によって羽衣石城下の山田館に誘い込まれ、一族と共に殺害された。(吉川元春起請文および山田家文書)

陰徳太平記では1579年(天正7年)4月の出来事となっているが、年月が逆の誤記載と考えられる。(吉川元春書状に天正4年7月11日付とあるため)

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