所 属
尼子
▶
織田
▶
尼子
▶
毛利
杉原
よみがな
人物名
よこみち げんのすけ たかみつ
横道源介高光
別 名
よこみち げんのすけ ひさもり
横道源介久盛
伯耆民談記での別名
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1582年(天正10年)
氏
不詳
姓
不詳
諱
高光
列 伝
尼子家の家臣。伯耆国八橋城の城番を務めた。
尼子十勇士のひとりに挙げられる兄の横道秀綱(横道兵庫助、横道四郎兵庫介政光とも)、弟の横道高宗と並び「横道兄弟」として多くの軍記物に登場する。
1566年(永禄9年11月)
毛利氏の攻撃を受け尼子方の出雲国月山富田城は落城し、尼子義久の降伏を以て尼子氏は滅亡する。
降将の尼子義久は安芸国へ送られることとなり、横道秀綱は主君と共に安芸国への随行を求めたが認められず兄弟と共に大和国の松永久秀の下に身を寄せている。
1568年(永禄11年)
尼子家の旧臣であった山中幸盛らが尼子勝久を担ぎ上げ、尼子再興の軍を興すと兄弟は松永久秀の下を去り、織田信長の援助を受けながら尼子家再興に努めている。
兄に負けぬ勇将であったとされ、尼子再興戦での活躍は尼子勝久を喜ばせ、恩賞を賜っている。
1570年(元亀元年)
出雲国の布部山合戦では横道秀綱と共に出陣する。
合戦では横道秀綱が戦死している。
1572年(元亀3年)
因幡国私部城の開城に際し、毛利方へ降伏すると横道高宗と共に杉原盛重の下に置かれている。
後に杉原盛重の家臣となった頃から「横道久盛」を名乗っており、杉原盛重より「盛」の字の偏諱を受け改名したものと推測される。
同じく尼子方からの降将であった吉田元重も杉原盛重の娘と婚姻関係を結び重用されていることから、過去に敵対し杉原盛重が手を焼いた武将であっても評判が高く、特に忠節に厚い人物へは積極的な登用を行っており、杉原盛重の懐の広さを垣間見ることができる。
杉原家へ対する忠節は杉原盛重の死後も変わることはなかったとしている。(陰徳太平記)
1582年(天正10年)
杉原盛重が没すると長男の杉原元盛と次男の杉原景盛による家督争いが勃発し、杉原景盛が兄を暗殺し家督を奪うと共に伯耆国佐陀城へ移っている。
杉原景盛の家督継承を認めない毛利氏は吉川家の部将、香川春継、粟屋就光らを派兵している。
吉田元重、木梨中務少輔、横道高宗ら旧臣は杉原景盛を早々に見限ったため伯耆国尾高城は一戦も交えることなく陥落し、尾高城を失った杉原景盛は居城の佐陀城で毛利方の討伐軍の包囲を受ける。
佐陀城に残った家臣も次々と離反する中、唯一人城内に残り最後まで忠節を尽くし戦い抜こうとするが、疑心暗鬼に陥った杉原景盛によって敵方との内通を疑われ殺害されている。
子は横道高宗が養育したとあり、子孫の一子は吉川広家の家臣になったと伝えている。