武将列伝帖
すぎはら またじろう かげもり
杉原又次郎景盛
【氏】不明【姓】不明【名】杉原【通称】又次郎【諱】景盛
別 名
杉原勝右衛門(すぎはら かつえもん)
杉原少輔次郎(すぎはら しょうじろう)
行松十郎二郎(ゆきまつ じゅうろうじろう)
幼 名
松千代(まつちよ)
出 身
不明
官 途
兵庫頭、左近進、右衛門尉
所 属
毛利氏⇒織田氏、南条氏
生 年
不明
没 年
1582年9月1日(天正10年8月15日)
- 列 伝 -
毛利家の家臣、杉原盛重の次男。
家督争いの末に兄、杉原元盛を謀殺すると伯耆国尾高城の城主となるが、後に伯耆国佐陀城へと移っている。
一説には杉原盛重の嫡男とする記述も見えるが養子であり、尾高城の前城主、行松正盛の子で行松十郎二郎(幼名は松千代)とされる。
1563年(永禄6年)、行松正盛の死後、残された遺児は杉原盛重に養育されたとあり、長男が兄の杉原元盛、自身は次男となり、杉原盛重の嫡男で長男であった杉原景保は三男、次男の杉原常佐は四男とされる。(陰徳太平記、伯耆民談記)
1569年(永禄9年)6月、山名理興の遺臣、藤井皓玄らによる叛乱では一時備後国神辺城を奪われるが、奪回戦では兄の杉原元盛と共に軍功を挙げている。
1580年(天正8年)、吉川軍による因幡国鳥取城後詰戦には兄の杉原元盛と共に従軍とある。
1582年1月19日(天正9年12月25日)、杉原盛重が没すると杉原家の遺産相続に於いて不満を持ち、旧臣の菖蒲左馬允と共謀し尾高城の二ノ丸付近にて兄の杉原元盛を暗殺する。
兄を殺害し家督相続を上奏するが毛利氏には認められず、知行は吉川元春によって没収となった。
一連の騒動から叛意を疑われ、吉川元長より討伐のため香川春継・粟屋就光らが派兵されている。
1582年(天正10年)8月3日から数日のうちに木梨中務少輔の守備する尾高城が開城し、居城とした佐陀城は包囲され孤立する。
残った将兵らと共に斬り死を覚悟するが普段の素行の悪さから人心は既に離れており、討伐隊へ投降する将兵が出始めると疑心暗鬼に陥り、最後まで忠節を尽くした横道高光に対しても無実の罪を疑い殺害している。
この一件により佐陀城に残った僅かな将兵も離反し、香川春継らの策により矛を交えることなく捕らえられた。
捕縛後、叛意が無い旨の弁明を試みるが、これまでの悪行は毛利方の知るところであり、全く相手にされないとわかると周囲を罵り笑いながら自刃したとされる。
自害した場所には諸説あり、「平田」と地名の残る場所が推定されている。
一説には島根県出雲市平田町にある大林寺とされ、遺書諸具一切を寄進し果てたとも伝わる。
二人の子供も一緒に殺害されたとして大林寺境内には3基の墓石が子供や正室の墓とも伝えられ、杉原盛重と共に供養されている。
異説には佐陀城から近い鳥取県西伯郡大山町平田とする説も見えるが地元の伝承には詳細が見えない。
伝承では兄、杉原元盛の殺害後は尾高城を居城としていたが、物の怪や城を徘徊する兄の亡霊といった幻覚に悩まされるようになり、佐陀に新城を造り移ったと伝えられる。
一連の騒動には羽柴秀吉の関与も疑われるとする考察もあるが明確な証拠となる記述は見えない。
1585年(天正13年)、伯耆国内最後の戦となる伯耆国香原山城の戦いに登場する行松次郎四郎は行松正盛の次男で杉原盛重に養育された人物とする説もあり、経歴も合致することから自刃せず生き延びていた可能性も僅かに存在する。