所 属

毛利

杉原

毛利

吉川

よみがな

人物名

すぎはら しょうごろう かげやす

杉原少輔五郎景保

 

幼 名

すぎはら しょうごろう

杉原小五郎

「こごろう」とも

 

別 名

すぎはら もりとし

杉原盛俊

杉原景盛の弟と伝える

官 途

不詳

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

景保

列 伝

杉原盛重の嫡子。弟に杉原常佐

陰徳記では杉原景盛の末弟とし、禄高を3,000貫としている。

 

1563年(永禄6年)

行松正盛が病死したことから杉原盛重行松正盛の妻と再婚することとなり、行松正盛の子で養子となった徳若杉原元盛が長男、松千代杉原景盛が次男となったため、杉原盛重の嫡子である自身は三男、杉原常佐は四男となった。

行松正盛の後家との再婚は伯耆国内統治の為の政略結婚の面があり、行松氏の家督を正当に引き継いだことを周知する意図が伺える。

 

1582年1月19日(天正9年12月25日)

杉原盛重が伯耆国八橋城にて没する。

杉原盛重の没後、家督を継いだ杉原元盛杉原景盛によって謀殺され、兄の家督を継承しようとした杉原景盛も謀叛を企てた罪により誅殺、行松正盛の流れを汲む伯耆杉原家は改易となっている。

杉原盛重の直系であった一族(備後杉原家)は後に吉川氏へと仕えており、禄高も維持されている。

 

1591年(天正19年)

検地が実施され禄高は1,400貫へ減少している。(萩藩閥閲録六十四)

 

鳥取県内の郷土史では伯耆杉原家の改易後も3,000石の俸禄を与えられ存続したとしているが3,000貫の誤りと考えられる。

一説に杉原景盛の弟を「杉原盛俊」とし、毛利氏から直接3,000貫の俸禄を与えられたとする以外は同様の記述が見える。

伯耆民談記では杉原盛重の末子とあり、出雲国月山富田城の城下に食邑3,000貫を賜ったとしている。

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