武将列伝帖

ゆきまつ し

行松氏 / 幸松氏

【氏】不明【姓】不明【名】行松

出 身

会見郡中間庄

所 属

伯耆山名氏⇒毛利氏⇒南条氏

 

- 列 伝 -

伯耆国会見郡中間庄を発祥とし、一族の出身者は代々伯耆山名氏の被官として重用されている。

伯耆山名氏麾下の有力国人衆は伯州衆(伯耆衆)と呼ばれ、その筆頭とする地位を築いた一族でもあり、出自は鎌倉時代頃まで遡るとされる。

 

室町時代後期には伯耆山名氏の被官でありながら東伯耆の南条氏と比肩する勢力を誇ったと伝わる。

最盛期には伯耆国尾高城、伯耆国八橋城を家城として領有し、会見郡から八橋郡にかけて広く支配していたことが伺える。

 

室町時代に行松家の家督を継いだ幸松右馬允山名師義の子とされ、幸松右馬允が家督を相続した以降は伯耆山名氏と同格に扱われることとなり、伯州衆の中でも別格の存在となっている。

この他、山名尚之の被官として幸松八郎五郎二郎の名が見える。

伯耆山名氏の被官としての活動は1492年(明応元年)頃まで記述に見えるが、永正年間頃(1504年~)から段階的に始まった尼子氏の西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)により尾高城八橋城、伯耆国七尾城など一族の領有した諸城が落城すると、1524年(大永4年)までには国外へと退去したとされる。

伯耆国からの退去後、七尾城の城主であった行松源太兵衛は若狭の小浜で戦死、尾高城の城主であった行松正盛大内氏の下で武功を挙げるが後に見限り毛利氏へと属している。

 

1562年(永禄5年)の夏、行松正盛は毛利方の助力を得て尼子氏から尾高城を奪還し、38年ぶりに一族の本拠地を回復している。

尾高城を回復した翌年、1563年(永禄6年)に行松正盛は病没。後任には杉原盛重が任命されると同時に行松家の家督を引き継いでいる。

行松正盛の妻は後家となっていたが後に杉原盛重と再婚、行松正盛の遺児であった九郎二郎十郎二郎も引き取られ養育されることとなった。

形式的には杉原家が行松家を正当に継承(吸収)した形となるが、家督を不当に乗っ取られたとして反発する一派もあり、杉原家に合流せず他勢力を頼った勢力が存在したと考えられる。

この一派が天正年間、一族代々の家城であった尾高城の奪還を画策し、東伯耆の南条氏を頼ったと推測される。

 

1584年(天正12年)、一族の正当な後継者を称する行松次郎四郎南条氏に与して伯耆国細木原城の戦いに参戦。

籠城するが敗れている。

 

1585年(天正13年)、伯耆国内最後の戦となる伯耆国香原山城の戦いでは尾高城奪還のため手勢1,000騎を率いて行松次郎四郎が汗入郡方面に侵入。

香原山城の城主、福頼藤兵衛を討ち取ると一時は香原山城を占領している。

香原山城の占領後、尾高城へは向かわずそのまま駐屯し、福頼元秀の引き連れた毛利方の援軍によって香原山城は奪還されている。

行松次郎四郎は伯耆国羽衣石城南条氏を頼って落ち延びたとある。

 

香原山城の戦いに参加した行松次郎四郎行松正盛の次男で杉原盛重に養育された人物とする説も見えるが、条件が該当する人物は杉原景盛であり、杉原景盛は謀叛の咎で1582年(天正10年)に自刃していることから整合性が取れない。

杉原景盛が生き延びたとする伝承と混同した可能性が考えられる。

 

陰徳太平記では南条元続による出兵としているが、異説にはこの出兵を行松次郎四郎の独断とし南条元続は直接出兵を行っていないとする説も存在する。

没落の著しい行松家が1,000騎の兵を動員できた理由の説明も難しく、杉原景盛の生存説や残党の再起説も可能性が極めて低いことから総大将とされる行松次郎四郎は架空の人物と推測され、状況的には陰徳太平記で断定する南条元続の黒幕説である可能性が相当高いと考えられる。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは南条氏と共に与した西軍の敗北によって南条家は改易。

南条氏に与した一族も同じく没落となった。

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