伯耆国 会見郡
ななおじょう
七尾城
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
因伯古城跡図志(文政元年 鳥取藩)
阿陀萱神社縁起
成実の歴史(昭和61年3月25日)
米子市埋蔵文化財地図(平成6年3月 米子市教育委員会)
新修米子市史第12巻資料編(絵図及び地図)
新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)
年 表
鎌倉時代
1521年
大永元年
行松源太兵衛が城主とされ、阿陀萱神社への寄進が行われたとする。(阿陀萱神社縁起)
1523年
大永3年
出雲国月山富田城の城主、尼子経久から阿陀萱神社への寄進が行われたとする。(阿陀萱神社縁起)
1524年
大永4年
1535年
天文3年
尼子経久から阿陀萱神社への寄付があったとする。(伯耆志)
1587年~1588年
天正15年~天正16年
吉川広家の領地付立に橋本七十五貫とある。
1592年
文禄元年
文禄の役では出陣の際、阿陀萱神社で勝利を祈念したとある。(成実の歴史)
社司の山川検校が豊臣秀吉の戦勝祈願の折、父の死により出仕できなかったため神領を差し出したとある。
1601年
慶長6年
概 略
三笠山の山頂から各尾根伝いに連郭式の郭を展開する縄張で、主郭より七つの尾をひいたような形状であったことを名称の由来とし、橋本村の字要害に所在したことから「橋本城」或いは「橋本要害」とも呼ばれる。
山頂の東側からは大山を正面に臨むことができ、且つては神社或いは寺院が存在したと古老の話に伝わっている。
主郭には大山を拝むように向けられた鳥居の礎石跡が残ることから遥拝所の存在は伺えるが、信仰の対象が大山なのか伊勢神宮なのかはっきりとしていない。
主郭から大山の眺め
三笠山は後に宝石山と呼ばれるようになり、山名に因んで「宝石城」の別名でも呼ばれる。
(神代の昔、宝石天降り一夜の中に出現せし故、この山を宝石山と称す)
伯耆志 橋本村の条 的場の項
村の西の山の字なり。
伯耆志 橋本村の条 城趾の項
古くは鎌倉時代からの存在とする説も見えるが、南北朝時代に伯耆国尾高城を本拠地として勢力を誇った行松氏による築城を伝える。
北に所在する伯耆国石井城(石井要害)に属した詰め城とする説、加茂川を挟んで相対した説の両説が存在する。
伯耆民談記 橋本村の条
榎原郷橋本村に有り。古城主生松源太兵衛の家城なり。
1524年(大永4年)、尼子経久による侵攻(大永の五月崩れ)を受け行松氏の本拠地であった尾高城が落城すると、行松源太兵衛が拠った当城も落城、或いは放棄されたとしている。
伯耆志 橋本村の条
鳥取縣神社誌 阿陀萱神社の社伝
天文元年壬申、尼子伊豫守経久より八幡宮と丙社へ72石の寄付あり。
阿陀萱神社の縁起では1521年(大永元年)に行松源太兵衛、1523年(大永3年)に尼子経久から寄進が行われたとしており、伯耆民談記に見える大永の五月崩れ以前に尼子経久の支配下にあったことを伺わせている。
大永の五月崩れ以降も寄進が行われており、阿陀萱神社の社伝では1532年(天文元年)、伯耆志では1535年(天文3年)に尼子経久からの寄進が行われたとしている。
城跡からは焼米が見つかったと地元の資料に記述があり、籠城戦が行われた可能性も考えられる。
1562年(永禄5年)、毛利氏の支援を受けた行松正盛が尼子方から尾高城を回復しているが、支城とされる当城に関する記述は見られない。
城主であった行松源太兵衛は尾高城の回復前に若狭の小浜で戦死したと伝えている。
鳥取縣神社誌 阿陀萱神社の社伝
文禄元年、秀吉高麗陣の時、諸国高知行の神々を勧請し日本勝利の祈念を仰せられし時に社司山川検校十三にして父に離れ、御供致さず神領差出せし(略)
1593年(文禄元年)、高麗陣(文禄の役)では日本軍の戦勝を祈願したことが社伝に見える。
社司の山川検校は父の死去のため御供できないことから神領を差し出したとしているが、異説には没収であったとする説もある。
鳥取縣神社誌阿陀萱神社の社伝
慶長6年辛丑7月5日、米子城主吉川氏、御供田高三石一斗九升二合寄附あり。然るに山川相馬火災に逢ひ、吉川氏寄附の証、今に焼残りあれど(略)
1601年(慶長6年)、伯耆国米子城の城主、吉川広家から寄進があったと社伝に見えるが3石の寄進を受けたとする証文は消失とある。
吉川広家はこの年に岩国へ転封となっていること、また米子城にも居城していないこと、証文が焼失していることから真偽は不詳。
「宝石山」と呼称する由来に天から三つの大石が降ってきたという伝説が伝わるが、その時に降ってきた宝石とされる3つの巨石が橋本集落内に現存している。
集落畑地内の宝石岩
集落道路沿いの宝石岩
阿陀萱神社前の宝石岩
「橋本」の地名の由来は集落南の街道にかつて石橋(字石橋上、石橋下)が掛かっていた事が由来とされる。
1818年(文政元年)、鳥取藩の調査で因伯古城跡図志に描かれ、伯耆誌の挿絵「捜図」にも石井城(石井要害)と併せて描かれている。
古曳盤谷の天井絵
写 真
2019年5月25日(集落内宝石岩)、2021年2月6日、2021年5月3日
宝石岩
宝石岩
宝石岩
遠望
遠望
神池
登山道
登山道
郭跡
郭跡
郭跡
郭跡
登山道
登山道
主郭虎口
主郭虎口
主郭虎口
主郭虎口
主郭連郭
主郭連郭
主郭連郭
主郭連郭
主郭
主郭
主郭西側腰郭
主郭西側腰郭
主郭西側腰郭
主郭西側腰郭
分岐郭
分岐郭
分岐郭
東側連郭
東側連郭
東側連郭
東側連郭
東側連郭
東側連郭
東側連郭
東側連郭
東側連郭
尾根東側連郭
尾根東側連郭
東大堀切
東大堀切
東大堀切
東大堀切
東大堀切
東堀切
東堀切
東堀切
東堀切
東堀切
東堀切
字「的場」遠望
字「的場」
字「的場」
字「的場」
字「的場」
字「的場」
字「的場」
写 真
2013年5月18日、2014年5月18日