伯耆古城図録

いしいじょう

石井城

鳥取県米子市石井(字要害)

別 名

石井要害(いしいようがい)、石井砦(いしいとりで)、八幡城(やわたじょう / はちまんじょう)

遺 構

郭跡、空堀(横堀)、切岸、土塁?、土坑?、土壁?、水濠(田圃へ改変)、井戸跡(主郭に所在したと伝わる)

現 状

八幡神社、山林、宅地

城 主

(伯耆山名方)古曳永綱片山高綱

(尼子方)古曳永綱片山高綱

(毛利方)古引因幡守古曳吉種

築城年

不明

※鎌倉時代の土豪の居館が始まりと伝わる

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

連郭式平山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志

伯耆志捜図

伯耆民談記

萩藩閥閲録

陰徳太平記

石井村名寄帳(元禄2年)

文政郡郷帳(文政年間 米子市談 第三巻より)

延宝六歳石井村水帳写(延宝6年 旧成実村史より)

牧野家古文書

石井村田畑地続字限絵図 字要害図(明治2年)

旧成実村史(昭和39年3月 なるみ第22号)

米子の歴史(昭和42年8月 伯耆文化研究会)

米子市談 第三巻(昭和48年7月~昭和50年5月)

成実の歴史(昭和61年3月25日)

縄張図

石井要害略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

石井村田畑地続字限絵図・十字要害(米子市教育委員会提供)

米子市教育委員会より提供

 

概 略

出雲国との境界に程近い米子平野西端の独立丘陵上(字要害)に所在する。

 

古くは鎌倉時代頃、在地土豪の居館が始まりと云われるが記録に乏しい。

牧野家古文書では1530年(享禄3年)頃、赤松政則と離縁した紀成盛の娘が伯州へ戻る際に随行した人物として古曳永綱の名が見え、紀氏譜記では古曳永綱が居住としている。

 

伯耆国七尾城、伯耆国奥谷城、伯耆国石井屋敷などの周辺諸城と連携し、出雲国や法勝寺方面から伯耆国尾高城へと続く街道往来の監視を担ったことは所在する立地からも推定され、郷土史料や口伝にも伝えられる。

 

城砦が所在したとされる丘陵は1964年(昭和44年)の宅地造成により、現在の八幡神社が鎮座する南東部の出丸と伝わる丘陵の一部を残し城域内の殆どの部分が消滅している。

出丸の残存部も度重なる改変や崩落を受け原型を留めていないと推定され、2018年(平成30年)には石井地区単県急傾斜地崩壊対策事業により八幡神社の鎮座する丘陵の急傾斜地が全方位削られ、2019年(平成31年/令和元年)には遺構のほぼ全てが消滅した。

 

標高29.4m、比高20m(※2018年の状態)は改変を受けた後の高さであり、宅地造成以前にも戦国期の郭拡張(八幡神社直下の南腰郭など)や廃城後(戦国末期~江戸時代始め)の農地拡張による空堀・水濠埋立のため、北側に所在した主郭など上段部から切り崩され標高も徐々に下がっていったことは容易に推定され、往古は七尾城と並ぶほどではないにしても伯耆志の捜図に並んで描かれる程度の高さを持った城砦であったと推測される。

 

石井で城砦に関連のありそうな小字名として「要害」「上高城」「下高城」「高城田」「陣場ドウドウ」が見え、「市場」の字も見える。

 

石井村名寄帳では「そと堀中田」「内ほり下々田」「ほり開下々田」など堀を水田に転用した字名が見え、上段西の方に「井戸跡」、東方二段目の所を「昇りの段」、上段東南の所を「枡形」としている。

 

石井村名寄帳(旧成実村史より)

そとぼり中田 壹畝弐拾歩

内ぼり下々田 弐畝九歩

ほり開下々田 参歩

 

延宝六歳石井村水帳写では「本丸」「デ丸」「八まん」の字名が見えるとあり、本丸は西の広い方、出丸は八幡神社の南隣、表道は巽の方、裏道は南の方に所在としている。

 

延宝六歳石井村水帳写(旧成実村史より)

八まん 六畝弐拾参歩

本丸 壹反参畝拾歩

デ丸 五畝廿六歩

 

 

文政郡郷帳(米子市談 第三巻より)では「八幡宮あり。石井山妙喜寺あり。村より東北にあって木引因幡守古城跡あり」とある。

木引因幡守については古曳吉種や一族の者を指すのか、全く架空の人物を指すのかは不明。

 

旧成実村史では当要害の見張砦として奥谷城(外構山・船上山とも)、字ドウドウの南側の山(西谷山)、旧成実小学校南側(河屋山)の3つを挙げている。

 

伯耆民談記では石井城之事の条、伯耆志では石井村の条、要害の件に記述が見え、何れも城主の片山小四郎が領有した城とする記述が見える。

 

伯耆民談記 石井城之事の条

宗像庄石井村にあり。古城主片山小四郎領地なり。

 

伯耆志 石井村の条、要害の件

村の東北田中の山なり。八幡の小祠あり。片山小四郎といふ人の城なりと云へり。伝詳かならず。

 

伯耆志の挿絵「捜図」では丘陵頂部から3段に平削された郭が連なる連郭式城砦の名残が描かれている。

絵図の郭には建物の図示が見えず、伯耆志の成立時には記述の通り、既に城砦としての機能は失われ小祠や田畑へ改変されていたことが伺える。

 

石井村田畑地続字限絵図 十、字要害(明治2年)からは北西側の最も高い郭が主郭と推測でき、二段目の北側・東側に帯郭状腰郭と南側に切岸(或いは堀切)を隔てて現在の八幡神社が鎮座する出丸が配され主郭の防御を担ったと考えられる。

三段目の西側・北側・東側を囲むように帯郭状腰郭と防柵を配し、南側には特に高低差を持った切岸で防御を高めた構造が伺える。

また、周囲を囲む水田はかつての水掘を埋め立てて造成された水濠の名残とされ、加茂川から水を引き込み水濠を周囲に張り巡らせた水濠要塞であったことが推測される。

 

当城砦はいくつかの時代で改修が繰り返されたことが発掘調査から判っており、鎌倉時代から戦国時代にかけて土坑の埋立や郭の造成・拡張(戦に特化した改修)、戦国時代から江戸時代にかけて田畑、祠への郭の拡張・転用(戦ではなく生産性向上のための改修)が行われ、時代によって姿を変えていったことが推測されている。

 

城主については片山小四郎の居城とする記述が見える。

片山小四郎は尼子方に与した武将として記述されるが、毛利方に与した片山平左衛門を同一人物とする説もあり、伯耆国手間要害周辺への焼き討ちに関する記述では攻撃対象が正反対になるなど一部記述に混同が見られる。

鎌倉時代頃から片山氏の一族がこの地に地盤を持っていたのかは不明であるものの、伯耆山名氏が伯耆国を支配した頃の在地有力国人衆(伯州衆)の中に片山氏の名が見える。

室町時代~戦国時代にかけては伯耆山名氏の下で当地を治め、伯耆山名氏が衰退し尼子氏が伯耆国で台頭を始める大永年間頃、大永の五月崩れを契機に尼子氏へ属した一族と考えられる。

 

西伯耆から尼子氏が駆逐され、毛利氏の統治に移ると片山氏は所領を奪われるなどした後に名が見えなくなり、1588年(天正16年)には古曳吉種が当城の城番に置かれている。

 

古曳吉種については地元郷土史や個人所有の文書では城砦建築の名人とあり、当城を水濠要塞として設計し築き上げた人物と伝わる。

この知識と経験を同時期に領有した伯耆国戸上城の法勝寺川に面した登り土塁へ転用、後に伯耆国米子城の中海に面した登り石垣の基礎として取り入れ中海や加茂川の水濠を用いて海城としての機能を高めた設計を行ったことが推測される。

 

年 表

鎌倉時代

在地土豪の居館が始まりと云われる。

独立丘陵は天然の要害で出雲・法勝寺方面から続く街道の往来を監視し、有事の際には相対する伯耆国七尾城と共に防衛を担った要衝と伝わる。

1530年頃

享禄3年頃

赤松政則と離縁した紀成盛の娘が伯州へ戻る際に随行した人物、古曳永綱が居住したとされる。

不明

伯耆山名氏に仕えた伯州衆、片山高綱の居城と云われる。

大永年間

尼子氏の西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)が始まった頃、山名澄之と対立した伯耆山名氏の勢力が西伯耆から排除されると当城を与っていた片山高綱を初めとする片山氏の一族も但馬山名氏などを頼って国外へ退去したと云われる。

これには諸説あり、片山高綱が尼子方に寝返る説では引き続き当城を与っている。

1563年~1564年

永禄6年~永禄7年

毛利氏に与した片山平左衛門尼子氏の籠もる天万固屋を焼討。

丸山固屋小鷹城)など諸城を陥とす戦功を挙げており、毛利元就より褒美として鎧兜を賜ったと記述が見える。

片山平左衛門らが戦功を挙げ、柏尾周辺から尼子方勢力が駆逐された頃、当城も毛利方が領有したと考えられる。

1588年

天正16年

城番に古曳吉種が任じれられている。

1591年

天正19年

吉川広家古曳吉種に湊山への築城(伯耆国米子城)を命じる。

古曳吉種は水濠要塞であった当砦と、この時城番であった伯耆国戸上城を参考に水堀の配置など設計したと伝わる。(成実の歴史ほか)

地 図

写 真

訪城日 2013/05/11、2014/06/21、2018/02/18、04/22、06/02

上 へ

戻 る