所 属

伯耆山名

片山

毛利

よみがな

人物名

かたやま へいざえもん

片山平左衛門

 

別 名

かたやま へいえもん

片山平右衛門

書状に缼字があり左右判別不可の為

 

略 称

かたひら

片平

毛利方関連の文書での略称

官 途

左衛門尉、右衛門尉

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

不詳

列 伝

伯耆山名氏に仕えた伯州衆、片山氏の一族。

伯耆国石井城石井要害砦)の城主とされ、山田満重の部将として伯耆国河岡城の城番も務めた。

 

1524年(大永4年)

尼子経久による西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受けると居城を追われ、但馬山名氏を頼り国外へ退去とある。

 

1562年(永禄5年頃)

山陽を平定した毛利氏尼子氏の領する出雲国への侵攻を開始すると伯耆国の諸城は相次いで尼子氏から離反し、西伯耆では特に重要視された城砦のひとつ、河岡城も毛利方へと与している。

この頃は毛利方の部将として度々戦功を挙げており、山田満重の不在時は河岡城の城番を任されるなど信頼の厚い武将であった。

 

1563年(永禄6年)

毛利方の兵糧集積地であった河岡城の外城が尼子方の部隊によって度々襲撃を受けるが、城番として防衛部隊の指揮にあたり敵勢の攻撃から河岡城を堅守している。

 

小早川隆景書状(山田家文書)

(略)去朔日之夜、長台寺於山下片山一所進藤源次郎深田敵討捕之由。毎度彼衆中心懸更以無比類迄候。随而片山愁訴両所事得其心候(略)片山於切搦等心懸之(略) 六年壬十二月十日

 

1564年1月23日(永禄6年閏12月10日)

当日夜半、出雲国長台寺城(伯耆国新山要害山城)を攻撃する。

この頃は天万周辺に於いて対尼子戦で活躍している。

 

1564年(永禄7年4月)

尼子方の籠もる天万固屋手間要害の支城、高固屋とも)を焼討、伯耆国小鷹城柏尾城)や丸山固屋小應城)など諸城を陥とす戦功を挙げており、この働きが柏尾一帯から尼子方の勢力を駆逐する重要な戦果となった。

毛利元就小早川隆景などから「彼の衆中心懸け更に以て比類なく候」と賞賛され、褒美として感状と鎧兜を賜っている。

書状には「片山平□□門(□は判読不能箇所)」とする記述が残っており、「左衛」「右衛」の判断が分かれるが、他の文書などから「平左衛門」と考えられている。

同時期、毛利方に与した片山某が手万の新持山(寺内村)の固屋(伯耆国膳棚山城)を焼討ともある。

 

毛利元就小早川隆景などから感状と褒美を賜るほど高い評価を受けた武将であったが、西伯耆での対尼子戦が収束した頃には山田出雲守への恩賞として領有していた吉谷の中之馬場(25石)が没収されている。

没収は不当で不服とし、毛利元就杉原重盛に対して裁判を起こしたが異議は認められず山田出雲守へ中之馬場を与える判決が下されたことが書状に見える。

この時、毛利方の家臣からは山田出雲守に対して「何ら心配することはない」と励ます書状もあり、最前線で大功を挙げた人物でも在地国人であったため不安定な立場に置かれていたことが書状から読み解ける。

判決の後に記述が見えなくなることから、対尼子戦で毛利方として活躍した他の伯州衆と同じように粛清されたか、域外への退去や帰農したと推測される。

この裁判に登場する山田出雲守河岡城で共に戦った山田満重ではなく、南条氏により旧領を奪われた山田重直とする。

 

「片山某」とも伝え、片山小四郎片山彦四郎のいずれも同一人物とする説もあるが、似たような記述でも全く異なる内容が見られることからいずれも別人と考えられる。

「片山平左衛門」とする場合は一貫して毛利方の武将として記述されている。

 

郷土資料では伝説上の人物とする記述も見える。

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