伯耆古城図録

ぜんだなやまじょう

膳棚山城 / 善棚山城

鳥取県西伯郡南部町寺内

別 名

新持山城 / 宍道山城(しんじやまじょう)、神談山城(じんだんやまじょう)

遺 構

郭跡、土塁、横堀、土橋、堀切、切岸

現 状

山林

城 主

(吉川方)宍道玄蕃

築城年

不明

廃城年

1564年(永禄7年)以降

築城主

不明

形 態

丘城・山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

会見町誌(昭和48年11月 会見町誌編さん委員会)

会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)

縄張図

膳棚山城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

伯耆国手間要害の北限の防衛(伝令や見張り)を担った城砦と推測され、当城までを手間要害の城域に含める考察もある。

麓に鎮座する赤猪岩神社南側には「清水川越し」と云われる小径があり、法勝寺・母衣方面へ通じる主要道路であったことから、この小径を監視した施設とも考えられる。(現在も清水井古道として通行が可能)

 

伯耆志 寺内村の条 赤猪岩の項

村の西四丁許の山麓に在り。此山は上の要害の北に連りて膳棚山又宍道山と呼ぶ。往古宍道玄蕃と云う武士当村に居りし故なりと云へし。民諺記に吉川氏に属せる伯耆の将に宍道某あるは同人歟其裔及び屋敷跡あり。

 

伯耆志では山名の由来を城主の宍道玄蕃とし、吉川氏に属した武将としている。

 

1564年(永禄7年)4月、伯耆国石井城の城主片山某によって手万(寺内村)の新持山(膳棚山:120m)の固屋に焼き討ちをかけられたと記述があり、この頃は吉川氏が領有していたことが伺える。(会見町誌)

 

会見町誌 続編

膳棚山。赤猪岩神社後方の丸い山で標高は130m。字名を新持山(しんじやま)、別に宍道山、神談山とも言われる。室町時代、宍道玄蕃が此処に籠もっていたと伝わるが記録には無い。1524年(大永4年)、大永の五月崩れで放逐か。

 

会見町誌 続編では一部記述の修正が見え、膳棚山の標高の変更や神談山(じんだんやま)という名称が追記されている。

 

手間要害の前線基地として物見櫓などの監視施設があった可能性があり、手間要害の死角を見張るための城砦と推測される。

膳棚山の標高が会見町誌では120m、会見町誌 続編では130mとなっているが、120mは西主郭、130mは東主郭の標高である。

 

年 表

室町時代

吉川氏の部将、宍道玄蕃が寺内村に居住したとされる(会見町誌 続編)

1524年

大永4年

大永の五月崩れにより落城とある(会見町誌 続編)

1564年

永禄7年

4月、尼子方の片山某が毛利方の宍道玄蕃が籠もる新持山の固屋を焼討したと云われる。

地 図

 

写 真

訪城日 2016/03/12(東主郭群)

東からの遠望

赤猪岩神社

東の土橋(東麓側から)

東側の連郭跡

東の土橋の麓には横堀と土塁

切岸状の連郭が4~5段残る

大岩が散在している

北東郭跡群には5~7段の郭が並ぶ

北東郭跡群(縄張図記載の郭)

北東郭跡群(縄張図記載の郭)

北東郭跡群(縄張図未記載)

縄張図に記載される土橋状の道

北東郭跡群(縄張図未記載)

北東郭跡群(縄張図未記載)

北東郭跡群(縄張図未記載)

北東郭跡群(縄張図未記載)

石礫の集積場

北東郭跡群に「社日稲倉大明神」碑

北東郭跡から東主郭へ向かう土橋

東主郭へ向かう土橋

東主郭へ向かう土橋

東主郭へ向かう土橋

土橋の途中には何箇所か切った形跡

土橋を渡り終えると3連の腰郭

3連の腰郭

3連の腰郭(上から)

3連の腰郭を越えると開けた郭跡

東主郭の帯郭(西)

東主郭の帯郭(西)

東主郭腰郭(南西)

東主郭腰郭(南)

東主郭腰郭(南)

東主郭腰郭(南)

東主郭腰郭(東)

東主郭腰郭(東)

東主郭腰郭(北東)

東主郭腰郭(北東)

東主郭腰郭(北東)

東主郭

東主郭

東主郭

東主郭

東主郭(腰郭より)

東主郭と西主郭を繋ぐ腰郭

東主郭と西主郭を繋ぐ腰郭

東主郭と西主郭を繋ぐ腰郭に土橋

東主郭と西主郭を繋ぐ腰郭

写 真

訪城日 2016/03/21(西主郭群)

西からの遠望

西側の連郭跡

西の連郭

西の連郭

西の連郭

西の連郭

西の連郭

堀切西側の土橋状の郭跡

西の堀切

西の堀切

堀切を東に越えた連郭

西主郭の腰郭

西主郭の腰郭から

西主郭

西主郭

上 へ

戻 る