所 属
伯耆山名
片山
▶
尼子
▶
毛利
▶
尼子
よみがな
人物名
かたやま こしろう たかつな
片山小四郎高綱
別 名
かたやまのなにがし
片山某
毛利方に与力した人物とする
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
高綱
列 伝
伯耆山名氏に仕えた伯州衆、片山氏の一族。
石井村、成実村の一帯を治めていた在地の地侍とされ伯耆国石井城(石井要害砦)の城主と伝える。
伯耆志、伯耆民談記では通称を「小四郎」、郷土史(「米子の歴史(伯耆文化研究会)」「旧成実村史」など)では諱を「高綱」としている。
「片山某」と個人を特定しない記述や毛利方の山田満重に与した片山平左衛門を同一人物として扱うなど混同した記述も一部に見えるが、「片山小四郎」とする場合は形式的に一度は毛利方へと降伏するが一貫して尼子方の武将として描かれている。
尼子経久による西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受けた後は尼子氏に降った説と尼子氏には降らず但馬山名氏などを頼って国外へ退去した説が見える。
➡尼子氏に降った説では尼子方の武将とする記述が見える。
1524年(大永4年)
大永の五月崩れの際には逸早く伯耆山名氏から尼子氏へと寝返っており、伯耆山名氏の一族でなかったことから降伏を許され旧領もそのまま安堵されている。
1563年~1564年(永禄6年~永禄7年頃)
毛利氏の伯耆侵攻が始まると毛利方へ帰順するも本心からではなく見せ掛けの降伏であったと伝える。
1564年(永禄7年4月)
尼子方へと寝返り、毛利方の宍道玄蕃が籠もる伯耆国手万固屋(高固屋とも)へ焼討を仕掛けたと伝える。
後に毛利方の軍勢と戦い戦死とする。
1566年10月29日(永禄9年9月17日)
手万周辺が再び毛利氏によって占領された後の詳細は不明とするが1564年(永禄7年)に再び尼子方として活動していることから毛利方によって討たれたと考えられる。
この説では娘が石井にある石井山妙喜寺の開基となっている。
小四郎の娘は1591年(天正19年)卯年9月朔日に入寂とある。
➡尼子氏に降らず国外へ退去した説では毛利方の武将とする。
1524年(大永4年)
大永の五月崩れによって石井の地を追われた一族は但馬山名氏などを頼り国外へ退去したと伝え、時期は不明だが後に毛利氏へと与している。
1564年(永禄7年4月)
尼子方の籠もる手万固屋(高固屋)を焼討、丸山固屋など柏尾の諸城を陥とす戦功を挙げており、毛利元就から褒美として鎧兜を賜っている。(片山平左衛門との混同か)
柏尾一帯から尼子氏の勢力が駆逐された後の詳細は不明となり、この説では石井山妙喜寺の開基となる娘の存在は一切記述に見られない。
手万要害への焼討に関する説では両説とも同内容でありながら所属と攻撃対象が正反対となっている。
柏尾から尼子方の勢力が駆逐された後の詳細は両説とも同じく不明とされており、尼子方であったなら毛利方に討たれたと考えるのが自然だが、毛利元就から感状と褒美を賜るほどの活躍をした人物のその後が不明というのは不自然さが残る。
萩藩閥閲録に収録の感状では褒美を賜ったのは片山平左衛門とされ、後に所領(吉谷の中之馬場の所領25石)を没収され不服を申し立てている。
1588年(天正16年)
自身の居城であった石井城(石井要害砦)は毛利方の所領となり、城番として古曳吉種が任じれられている。
郷土資料では伝説上の人物とする記述も見られる。