武将列伝帖

かたやま こしろう たかつな

片山小四郎高綱

【氏】不明【姓】不明【名】片山【通称】小四郎【諱】高綱

別 名

出 身

不明

官 途

不明

所 属

伯耆山名氏⇒尼子氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

伯耆山名氏に仕えた伯州衆、片山氏の一族。

石井村、成実村の一帯を治めていた在地の地侍とされ伯耆国石井城石井要害砦)の城主と伝える。

伯耆志、伯耆民談記では通称を「小四郎」、郷土史(「米子の歴史(伯耆文化研究会)」「旧成実村史」など)では諱を「高綱」としている。

 

1564年(永禄7年)4月、毛利方の宍道玄蕃が籠もる伯耆国手万固屋(伯耆国手間要害か)を焼討するが後に毛利方の軍勢と戦い戦死とされる。

「片山某(なにがし)」と個人を特定しない記述や毛利方の山田満重に与した片山平左衛門を同一人物として扱うなど混同した記述も一部に見えるが、「片山小四郎」とする人物は一貫して尼子方の武将として描かれている。

 

1524年(大永4年)の尼子氏による西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)では尼子氏に降った説と尼子氏には降らず但馬山名氏などを頼って国外へ退去した説が見える。

 

尼子氏に降った説では尼子方の武将として記述が見える。

1524年(大永4年)、大永の五月崩れの際には逸早く伯耆山名氏から尼子氏へと寝返っており、伯耆山名氏の一族でなかったことから降伏を許され旧領もそのまま安堵されている。

 

1563年~1564年(永禄6年~永禄7年)頃、毛利氏の伯耆侵攻が始まると毛利方へ帰順するも本心からではなく見せ掛けの降伏であったと云われる。

 

1564年(永禄7年)4月、尼子方へと寝返り、毛利方の宍道玄蕃が籠もる手万固屋(高固屋)へ焼討を仕掛けたと云われる。

同じ頃、毛利方に与した片山某が手万の新持山(寺内村)の固屋(伯耆国膳棚山城)を焼討ともある。

 

1566年(永禄9年)9月17日、手万周辺が再び毛利氏によって占領された後の詳細は不明。

この説では毛利方によって討たれたと考えられ、娘が石井にある石井山妙喜寺の開基となっている。

小四郎の娘は1591年(天正19年)卯年9月朔日に入寂とある。

 

尼子氏に降らず国外へ退去した説では毛利方の武将として記述が見える。

1524年(大永4年)、尼子氏の西伯耆への侵略(大永の五月崩れ)によって石井の地を追われた一族は但馬山名氏などを頼り国外へ退去したと云われ、時期は不明だが後に毛利氏へと与している。

 

1564年(永禄7年)4月、尼子方の籠もる手万固屋(高固屋)を焼討、丸山固屋など柏尾の諸城を陥とす戦功を挙げており、毛利元就から褒美として鎧兜を賜ったと云われる。(この説は片山平左衛門との混同が考えられる)

柏尾一帯から尼子氏の勢力が駆逐された後の詳細は不明となり、この説では石井山妙喜寺の開基となる娘の存在は一切記述に見られない。

 

手万要害への焼討に関する説では両説とも同内容でありながら所属と攻撃対象が全くの逆となっている。

柏尾から尼子方の勢力が駆逐された後の詳細は両説とも同じく不明とされており、尼子方であったなら毛利方に討たれたと考えるのが自然だが、毛利元就から感状と褒美を賜るほどの活躍をした人物のその後が不明というのは不自然さが残る。

萩藩閥閲録で感状と褒美を賜ったのは片山平左衛門であり、後に所領(吉谷の中之馬場の所領25石)を没収され不服を申し立てている。

 

居城であった石井城石井要害砦)は毛利氏が領有し、1588年(天正16年)に城番として古曳吉種が任じれられている。

 

郷土資料では伝説上の人物とする記述が見られる。

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