武将列伝帖
やまだ みんぶのじょう みつしげ
山田民部丞満重
【氏】紀【姓】朝臣【名】山田【通称】民部丞【諱】満重
別 名
山田出雲守(やまだ いずものかみ)
出 身
不明
官 途
民部丞、出雲守
所 属
毛利氏
生 年
不明
没 年
不明
- 列 伝 -
毛利家の家臣で伯耆国堤城を本拠地とした伯耆山田氏の一族。子に山田出雲守重正。
堤城、伯耆国河岡城の城番を務めたと伝わる。
1554年(天文23年)6月5日(9月15日とする説もある)、厳島の戦いの前哨戦となる明石口の戦い(折敷畑の戦い)や1555年(天文24年)10月16日(10月1日)の厳島の戦いにおいて大功を挙げたと記述が見え、安芸国内での戦いで多くの戦功を挙げている。
毛利氏が尼子氏の本拠地、出雲国へ侵攻した際は対伯耆戦線での主力として活躍。
1563年(永禄6年)、河岡城へ入り出雲国安田要害山城(伯耆国新山要害)、伯耆国手間要害を攻撃。
1564年(永禄7年)、引き続き河岡城へ在番。
同年の中頃にかけ行松正盛、杉原盛重、南条宗勝、一条市助、三村氏、入江氏の諸将らと共に安田要害山城、手間要害、伯耆国小鷹城(丸山固屋)など柏尾周辺に拠る尼子方の軍を駆逐したとある。
同年8月、河岡、柏尾方面に於ける尼子方の反攻を抑えた後、吉川元春の命を受け伯耆国江美城の攻略に向かう杉原盛重の毛利軍本隊に合流し戦功を挙げている。
永禄年間末頃から天正年間初頃は伯耆国羽衣石城の城下に居館があり、子の山田重正と共に居住したとされる。
各地を転戦していたため、羽衣石城下の館に居住した時期は短期間と推定される。