伯耆古城図録

かわおかじょう

河岡城 / 川岡城

鳥取県米子市河岡

別 名

陣小屋敷(じんこやしき)、河岡陣小屋(かわおかじんごや)

遺 構

無し(圃場整備によって消滅)

現 状

御崎神社、田圃

城 主

(紀方)紀久貞

(尼子方)紀久貞

(毛利方)河岡久貞山田満重片山平左衛門一条市介小寺元武

(小早川方)末近宗久

(吉川方)境経俊

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明(黒正氏紀氏を推定している)

形 態

平城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

萩藩閥閲録(山田家文書、粟屋勘兵衛家文書、小寺家文書、三沢家文書)

平佐就之書状(宮元文書 東京大学史料編纂所影写本)

会見郡川岡村田畑地続全図(1843年(天保14年))

岸本町誌(昭和58年3月 岸本町誌編さん委員会)

出雲尼子史料集 下巻(2003年3月 広瀬町教育委員会)

縄張図

不明

 

概 略

始まりは当地の豪族、紀氏の一族(或いは在地土豪の黒正氏)の居城が始まりと考えられている。

現在の御崎神社周辺が城跡と推定されているが相見八幡宮(八幡神社:現在の米子市東八幡)に隣接していたとする説、具足山妙本寺(字上屋敷)に城主の居館(小屋敷)が所在し、その周辺とする説、遺構や立地の状況から石州府の字城河内を河岡城とする説など所在地については諸説云われている。

御崎神社周辺を城跡としたのは近年の話で字名を頼りにしただけで根拠はないともされている。(元米子市教育委員会文化課職員の話)

 

粟屋勘兵衛家文書(萩藩閥閲録)

只今、泉、河岡一大事候。彼両城不慮候へは伯州一円無曲候条(略)七月廿三日。

 

杉原盛重書状(横山文書)

横山九郎左衛門尉(盛政)殿 谷本新蔵人殿

(略)河岡へ自富田一人罷出候哉(略) 永禄六年三月十二日

 

三村家親書状(写)

小寺佐渡守殿 御陣所

今日河岡江御越候儀(略) 永禄六年五月十日 三村修理亮家親

 

伯耆国尾高城と並び西伯耆の拠点の中でも特に最重要視された城砦で、毛利元就もいずれかが落ちれば西伯耆の維持は危ういとしている。

当城は戦略物資の集積・中継拠点であったことが推定され、水路は日野川を利用し尾高、美保関方面との連絡が良く、陸路も西側は岸本、南側からは日野郡を経由し山陽方面との連絡が取れることから交通の要衝であったことが推測される。

 

伯耆志 川岡村の条 陣小屋敷の項

村の西、田土の字なり。永禄の頃、甲賀山城守久貞と云う人当村に居りしと云へり。此人の陣を居へし跡なり。

馬場村八幡宮、永禄十年、甲賀氏寄進の品あり。彼社伝には河岡と記せり。重綾の説に甲賀川岡音訓相近く本は甲賀なるを川岡と訛りて村名とせしなるべし。川岡を甲賀とは改め記すべからず。後世に用ふべき字面に非ればなり。甲を”かは”と訓ずる例は和名抄に相模国愛甲郡(阿由加波)あり。甲賀は近江国甲賀郡(和名抄)ありて甲賀山あり。今の土山驛の地方と聞たり。因て按ずるに此山城守は彼地より来れり人にや。其故は彼、八幡宮の前に近江松と呼ぶ枯れ木ありて、社殿に進ノ某近江国の苗を栽しとあると、一説には河岡山城守之を栽えたりと言伝ふ。此説是ならば爰に由あり。甲賀と云ふ地名も姓も他に見及ばざればなり。松の仔細等は馬場村下に記す。民談記に南条中務少輔元忠の臣に河岡伊織と伝ふ者が関ヶ原で戦死せし由見へたり。此山城守の族なるにや、然れば当村は其頃開けし村にて此姓を村名とせしなるべし。

 

伯耆志には川岡村の村名の由来と城主の紀久貞についての伝が見える。

1550年(天文19年)8月に日野川の氾濫が起こり現在の流路(箕蚊屋平野西側)へ変わったとされ、毛利氏尼子氏が争った頃は佐陀川方面に流れていたとしている。

この流路は当城と尾高城を結び水路での物資の輸送を可能とし、当時の毛利軍の部隊展開において重要な糧道であったと考えられる。

当城が兵糧集積基地であったことも記述に見え、尼子方の襲撃により外城の糧秣が焼かれるなど度々攻防戦が行われている。

 

粟屋勘兵衛家文書(萩藩閥閲録)

一、河岡表加勢事、於于今河山雲州ニ置候人質死去候(略)此儀盛重、景盛同心候様、可相調事肝候、不然ハ家親人数河岡近辺マテ被差出、彼城堅固候様被抱候テ給候ヘカシト存候(略)

 

粟屋勘兵衛家文書では尼子方の武将であった紀久貞が、1559年(永禄2年)に人質の死亡を理由に毛利方へ通じている。

紀久貞の居城である当城の維持のため、杉原盛重三村家親宮景盛のいずれかを派遣するよう毛利元就より粟屋木工允に命じられ、この頃に山田満重が当城に入り城砦を改修したとされる。

 

小寺家文書(萩藩閥閲録)

去十二日、就三村帰陣。河岡之城可明退之趣候之処。末近市郎右衛門尉境孫右衛門尉、令同道、其方懸入踏静候付て彼城堅固候き、其方覚悟無比類候。我等祝着之段更不及言語候。忠義之至候、猶比者可申候。謹言。永禄七年六月十五日 小寺佐渡守殿

 

山田家文書(萩藩閥閲録 小早川隆景、吉川元春、毛利元就連署書状)

於、某許外城兵糧焼候由候間、従杵築明日三百俵、至淀江着上候。村上太左衛門尉所へ早々人を被出(略)但若此舟依順風遅候てはと存。銀子十枚持せ進之候(略)永禄七年七月廿四日 末近一郎右衛門殿 山田民部丞殿

 

1563年(永禄6年)、山田満重が城番の頃、吉川元春は忠勤を謝し、同年2月に小早川隆景の武将、末近宗久が派遣され助勢している。(小寺家文書(萩藩閥閲録)、岸本町誌、鳥取県史2中世)

毛利元就からも末近宗久境経俊の忠勤を謝する記述が見える。

同じ頃、尼子方に糧秣を焼かれた後の対応について早急な補給を行う旨が記されている。

淀江港へ300俵の米を送ることと併せて風の向きで舟に遅れが出ることも想定し現地で米を買い占めるための銀子も手配している旨が記されている。

 

1563年(永禄6年)7月3日の尼子方による襲撃では毛利方の武将、一条市介が銃撃によって負傷したとする記述から、伯耆国内の戦いで初めて鉄砲が用いられたと推定されている。

 

現在地は圃場整備によって城跡の遺構が全て消失したとされるが、1843年(天保14年)の「会見郡川岡村田畑地続全図」にも現在の御崎神社周辺で城跡を示す痕跡は見つけられない。

 

年 表

不明

在地土豪の黒正氏の築城と推測する説がある。

不明

紀氏(河岡氏)の一族によって16世紀頃に築城されたと云われる。

1524年

大永4年

大永の五月崩れを機に尼子氏へ従属したと云われる

1562年

永禄5年

出雲国の尼子氏へ送っていた人質の死亡を理由に、紀久貞尼子氏から離反し毛利氏と結んだとされる。(萩藩閥閲録:粟屋勘兵衛家文書)

離反後、尼子方の軍勢によって攻められるが撃退、毛利方の勝利に貢献している。

1563年

永禄6年

吉川元春から当城の忠勤に対し謝意が伝えられ、2月には小早川隆景から家臣の末近宗久が城番として遣わされ助勢したとある。

この頃、毛利家の家臣、山田満重が城番に任じられ、山田満重の不在時には片山平左衛門が城番を務めたとも云われる。

 

西伯耆における毛利軍の兵糧基地であった当城へは尼子方の部隊が度々襲来し、外城に備蓄してあった兵糧米を焼かれるなどの損害を出しているが、いずれも尼子方は撃退されている。

 

7月3日の戦闘にて守将の一条市介が銃撃により負傷。

この頃に毛利家の家臣、小寺元武が入城とある。

 

尼子方の手間要害丸山固屋小鷹城)、不動ヶ嶽城江美城などが落城すると尼子氏の勢力は一気に西伯耆から駆逐された。

1564年

永禄7年

2月、淀江の村上太郎左衛門に対して毛利元就より兵糧留の指示が出されている。

1569年

永禄12年

毛利元就毛利輝元より河岡山城守に対し赤井手200貫の知行が認められている。

不明

吉川家の家臣、境経俊が城番に任命され、16世紀中に廃城と伝わる。

地 図

 

写 真

訪城日 2013/06/29

御崎神社(南側から)

御崎神社(南側遠景)

御崎神社(北側から)

御崎神社(北側遠景)

御崎神社

御崎神社

神社前の側溝

神社境内の淵には僅かな土盛

神社南東側の平坦地

神社南東側の平坦地

神社南東側の平坦地

神社南東側の平坦地

御崎神社境内

御崎神社境内

御崎神社境内

祭神に関する石碑

御崎神社境内

御崎神社境内

御崎神社境内

神社北西側の田圃

神社西側の田圃

神社東側の水路

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