所 属
毛利
南条
▶
南条
よみがな
人物名
いちじょう ひがしのいちのすけ きよつな
一条東市助清綱
南条信正外十四名連署起請文の署名
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
清綱
列 伝
南条家の家臣で南条宗勝の部将。
南条宗勝が毛利方に与した頃は山田満重の部将とも。
伯耆国河岡城、伯耆国大江城(八橋城)、伯耆国由良城の守将を歴任した。
1563年(永禄6年)
守将として河岡城へ入城する。
1563年7月22日(永禄6年7月3日)
尼子方の襲撃によって戦場で銃撃を受け負傷するが河岡城を堅守している。
この銃撃が伯耆国内の戦で初めて鉄砲の使用を伺わせる記述とされ、同時に尼子方が鉄砲を所持していた根拠としているが味方の流れ弾に当たった可能性も完全には否定できない。
城を預かった守将の名誉を高め、負傷の上の奮闘と味方を鼓舞すると同時に、同士討ちの不手際を隠蔽するための改竄とも推測される。
1564年8月28日(永禄7年7月22日)
因幡鹿野合戦において戦功を挙げ、吉賀頼貞、土屋七郎左衛門らと共に感状を賜っている。
1565年(永禄8年9月)
毛利元就の命を受けた南条宗勝が山田越中守、南条元信、正受院利庵らと大江城(八橋城)に入城させたとあり、守将として600余名の兵と共に城の防衛を担っている。(東郷町誌)
1580年(天正8年8月)
毛利方の吉川元春が東伯耆へと侵攻したため由良城に在番し抵抗している。
同年9月末頃までは抵抗するが10月には由良城が落城する。(陰徳太平記、吉川元春書状)